第54話:赤尾清綱の贖罪
第54話:赤尾清綱の贖罪
赤尾美作守清綱は、湿った畳の上に深く膝を折り、別棟の部屋の太い木格子の隙間から差し込む春浅き光を見つめていた。
小谷城の西の山裾に位置する、謹慎の間。
かつて浅井家の筆頭宿老として絶大な権勢を誇り、若い当主・長政を見下し、城内を意のままに差配していた老将の姿は、いまや影を潜めていた。
白髪の混じる髪は乱れ、麻の小袖はしわみ、その老いた頬はげっそりと痩せこけている。
清綱の耳には、さきに大手門の向こうから響いてきた、大地を揺らすような万雷の凱旋の歓声が、今なお重い残響となってこびりついていた。
「当主長政様が……朝倉を討ち滅ぼし、大勝利を挙げて戻られた……」
清綱は震える手で顔を覆い、深い苦悶の息を吐き出した。
さきの大評定において、お市の手によって朝倉から密かに受け取っていた金と、当主追放の密約が白日のもとに晒され、失脚した日のこと。
清綱は当時、「朝倉を切れば塩も鉄も途絶えて浅井は破滅する」と叫び、己の行為を浅井のためと固く信じ込んでいた。
しかし、目の前に突きつけられた現実は、自らの主張が浅ましい私腹の横領に過ぎなかったことを、残酷なまでに証明してみせたのだ。長政とお市は、朝倉の金などなくとも、琵琶湖の水運を開いて浅井を富国へと変え、木ノ芽峠で朝倉を完膚なきまでに叩き潰してみせた。
(俺が守ってきたつもりだった義理とは……一体何であったのだ……)
清綱の胸を苛んでいたのは、怒りではなかった。
自分が命がけで守ろうとしていたものが、お市が示した道理の前には、ただのみみっちい小銭に過ぎなかったという、己の器量の小ささに対する絶望であった。
からり……と、木格子戸が静かに開け放たれた。
清綱がハッと顔を上げると、そこに立っていたのは、当主・浅井長政、そして正室のお市であった。
長政は黒漆の打当を身に纏い、お市は朱色の小袖の裾を引いて、凛とした佇まいで室内に足を踏み入れてきた。
「と……当主様……! お市様……!」
赤尾清綱は全身を激しく震わせ、畳の上に激しく頭を叩きつけるようにして平伏した。
「不忠者・赤尾美作守……お裁きをお待ち申し上げておりました! どうぞ……どうぞこの清綱に、切腹をお命じくだされ! 朝倉の金に目が眩み、主君を売ろうとした醜悪な不忠者……死を以てお詫び申し上げる以外に、道はございませぬっ!」
清綱の声は慟哭でかすれていた。
長政は平伏する老臣の姿を静かに見下ろした。
かつて大評定の折に見せていた激しい怒りは消え、そこには重々しい当主としての眼光が宿っていた。
長政は静かに歩み寄ると、清綱の真向かいに腰を下ろした。そして、小袖の胸元から一巻の古い和紙の感状を取り出し、畳の上に置いたのだ。
「赤尾殿。……面を上げよ」
長政の静かな声に、清綱は涙でぬれそぼった顔を恐る恐る上げた。
目に飛び込んできたのは、四十年前、祖父・浅井亮政から授けられた、あの血塗られた感状であった。
『享禄四年五月、赤尾美作守清綱、小谷合戦において身を挺して敵の槍を防ぎ、当主亮政の命を救う。その忠節、浅井の家ある限り忘れまじ』
「あ……あの折の……感状……!」
「赤尾殿。俺は忘れてはおらぬぞ。かつて浅井が滅亡の淵にあった折、そなたが祖父の身代わりとなって槍傷を受け、命がけで浅井を守り抜いてくれたことをな」
「当主様……っ!」
「だが、赤尾殿。過去の武功があるからとて、朝倉の金に手を染め、浅井の領民を塩不足で苦しめ、俺を追放しようとした罪が消えるわけではない」
長政の言葉は冷徹で、厳格であった。
お市もまた、長政の傍らに進み出て、清綱を見据えて静かに告げた。
「赤尾殿。そなたを切腹させることは容易いことです。ですが……死んで逃げることなど、許しはいたしませぬ」
「な……にを……」
「そなたが私腹のために横領していた財と知行は、すべて没収いたしました。ですが……そなたには、その命ある限り浅井のために働き、罪を購っていただきます」
お市は、手にした新しい『領内差配帳』を指差し、毅然と言い切った。
「本日より、そなたに『北国街道普請奉行』を命じます。北国街道に残る不当な関所を解体し、越前と北近江を結ぶ新たな流通路を整備する現場の差配を務めなさい。かつて朝倉との往来を取り仕切っていたそなたの経験を、今度は浅井の民と商人を富ませるために使い切るのです。……老いたその身が壊れるまで、浅井の土となって働きなさい」
長政も力強く頷いた。
「赤尾殿。死んで逃げるな。過去の過ちは、これからの死に物狂いの働きによって洗え。俺に……その命を預けよ」
甘い赦免ではない。経験と命を、浅井のために使い切るという冷徹な実務の判決。
清綱は畳に頭を擦りつけ、声を枯らして泣き伏した。
「当主長政様ぁっ! お市様ぁっ! この赤尾清綱……この命の最後の一滴まで、浅井の土となって働き尽くしまするぅっ!」
*
数日後。北国街道の難所――深坂峠。
かつて朝倉義景が竹矢来と木柵で固く閉ざし、浅井領を干上がらせようとしていた不当な関所は、いまや打ち壊されていた。
その解体と街道普請の現場に、泥にまみれて立つ赤尾清綱の姿があった。
清綱は上等な具足を脱ぎ捨て、粗末な作業着の袖をたすきがけにし、手にはそろばんと帳簿を握りしめていた。老いた身体に汗を流しながら、人足や大工たちへ指示を飛ばす。
「街道の幅を広げよ! 荷車がすれ違えるように石を均すのだ! 一文の関銭も取ってはならぬぞ!」
関所が外された街道を、伊勢の塩や美濃の鉄を積んだ荷馬の列が、土煙を上げて次々と通り抜けていく。
商売の自由を得た商人たちが「ありがたい!」「これで荷が早く届く!」と歓声を上げ、馬の鈴の音が谷間に心地よく響き渡る。
ふと、清綱の足元に、荷馬を引く初老の百姓が立ち止まり、深々と頭を下げた。百姓の荷籠には、真っ白な塩の俵が積まれていた。
「お役人様、ありがてえこってす。関所がなくなって、塩が安く手に入るようになりやした。これで今年の味噌も漬けられますだ……」
百姓は涙ぐみ、合掌するようにして去っていった。
清綱は、手元の帳簿を見つめたまま、立ち尽くした。
帳簿には、今日この峠を通過した荷の数と、市場へ流れる物資の量が、整然とした数字で書き連ねられている。
(……わしは……わしは何を守ろうとしていたのだ……)
清綱の胸の奥底から、熱いものが込み上げてきた。
わしが朝倉から貰っていたのは、たかが数千貫の小銭。
屋敷を飾り、私兵を養うためだけの、みみっちい富であった。
だが、お市様がそろばんを弾き、関所を外して国にもたらしたのは――一つの商い、一つの荷、一人の百姓の暮らしを積み重ね、幾万貫もの富を生み出していく道だったのだ。
「お市様……当主様……」
清綱は泥にまみれた手で顔を覆い、街道の真ん中で慟哭した。
「わしは……なんと小さき利にしがみついておったのか……!」
老将の矜持は完全に打ち砕かれ、代わって、浅井の新しい道を支える一粒の土となる覚悟が、清綱の胸に深く刻み込まれたのであった。
*
その日の夕暮れ。小谷城の奥御殿。
政務を終えた長政とお市が縁側へ戻ると、奥の部屋から万福丸がタッタッと小走りに駆け寄ってきた。
「父上! お市母様!」
万福丸が笑顔で二人の小袖の裾に抱きついた。
長政がその身体をひょいと抱き上げると、万福丸は黒い瞳を輝かせて言った。
「父上、見ててね! 俺、今日も茶々の面倒をちゃんと見ていたんだよ! 茶々もね、おっぱいを飲んでご機嫌なんだ!」
部屋の奥では、すずの腕の中で茶々が小さな手を動かして笑っていた。
長政は万福丸の頭を優しく撫で、縁側の向こう――茜色に染まる小谷の山肌を見つめた。
「市。……深坂峠の清綱から、街道の普請が順調に進んでいると報せがあったぞ」
「そうですか」
お市は長政の隣に並び、穏やかに微笑んだ。
「過去の罪を裁くだけでは、人は前に進めませぬ。清綱殿の経験が、これからの浅井の商いを支えてくれるはずです」
「ああ。……城の不穏も消え去り、浅井は真に前を向いて歩み始めたな」
長政は抱き上げた万福丸の背中をポンと叩き、お市の手をそっと握りしめた。
遠く城下からは、暮れゆく町を行き交う人々のざわめきが聞こえてくる。
過去の病根は断ち切られ、浅井の家には、確かな平和の日常が息づき始めていた。




