第53話:小谷城への凱旋
第53話:小谷城への凱旋
「お討ち勝ち! 当主長政様のご凱旋だあ!」
早馬の放つ甲高い絶叫が、初春の澄み渡る北近江の山河を揺らした。
小谷城の山裾、山田の河原市から大手門へと続く北国街道の左右には、幾千もの領民が押し寄せ、幾重にも人垣を作って街道を埋め尽くしていた。
かつて老臣たちの横領と、一升四十文という途方もない塩の高騰に泣き、痩せこけて怯えていた農民や町人たち。だがいま、街道に溢れる人々の顔には、お市と長政によってもたらされた安価な塩と米によって命を繋ぎ止めた深い感謝と、我が主君が大勝利を収めて生還したことへの、溢れるばかりの歓喜が満ち満ちていた。
やがて、街道の向こうから、春の柔らかな陽光を浴びて進む騎馬と長槍の列が姿を現した。
木ノ芽峠で朝倉軍を背後から粉砕し、越前を一気に駆け抜け、京での役目を終えて帰還した浅井長政の凱旋列であった。
先陣の武者たちの具足には、激戦を物語る無数の刀傷と泥がこびりついていたが、その隊列の足取りは大地を揺るがすほどに力強かった。
小谷城の大手門前。
広大な石垣の前に設けられた出迎えの席に、正室・お市は静かに佇んでいた。
朱色の小袖の上に上質な羽織を纏い、高く結い上げた黒髪を春風に遊ばせながら、微動だにせず街道の先を見つめている。
お市の傍らには、侍女のすずと、木剣を腰に差して背筋を伸ばす長男・万福丸、そして乳母の腕の中で無邪気に眠る長女・茶々の姿があった。
地鳴りのような歓声が近づいてくる。
だが、その喧騒のただ中で、お市の胸の奥底には、冷たい刃のような記憶が音もなく蘇っていた。
(……天正元年八月、小谷城陥落。浅井長政自刃、享年二十九。首級は信長の実検を経て京へ晒さる――)
かつて、現代の大学の研究室で、蛍光灯の下で読んだ古文書の無機質な活字。
紙の繊維に染み込んだ墨の染みの中にあった、冷酷極まる歴史の結末。
木ノ芽峠で勝ったと報せを聞いても、京から無事の書状が届いても……お市の心のどこかには、あの冷たい活字の記憶が、黒い澱のように凍りついていたのだ。
この目で見るまでは信じられない。どこかで歴史の歪みが夫を奪い去ってしまうのではないか――そんな名状しがたい孤独な恐怖が、輿入れの日からずっと、お市の胸を締め付け続けていた。
蹄の音が止まった。
街道の先頭を進んでいた栗毛の馬が、大手門のわずか数歩手前で静かに歩みを止めたのだ。
馬上にいたのは、当主・浅井新九郎長政であった。
具足には返り血と乾いた泥がこびりつき、肩衣は裂け、戦場の凄惨さをそのまま身に纏っていた。その双眸には、戦場を駆け抜けてきた疲労を滲ませながらも、小谷の門をまっすぐ見つめる強い光が宿っていた。
長政が滑らかな動作で馬から飛び降りた。
その瞬間、父の姿を認めた万福丸が、小さな足で小走りに駆け出した。
「父上! 父上ぇっ!」
「おお、万福丸!」
長政は破顔し、泥に汚れた両手で万福丸の身体をひょいと抱き上げた。
「良い子で留守を守っていたか。母様を助けておったか」
「うん! 俺、母様と一緒に小谷の城を守っていたんだよ!」
万福丸が誇らしげに胸を張ると、長政はその小さな頭をくしゃりと撫で、ゆっくりと地面へ下ろした。
そして――長政はゆっくりと顔を上げ、正面に立つお市を見つめた。
二人の視線が、春の光の中で交錯した。
長政の歩みが、一歩、また一歩とお市へと近づいてくる。
カチャリ、カチャリと鳴る具足の音。
鼻を突く、鉄と泥と、硝煙の饐えた匂い。
それは紛れもなく、過酷な死線を潜り抜けてきた、生身の武士の匂いであった。
お市の視界が、急激に滲んだ。
長政はお市の前で足を止めると、泥にまみれた右手を、そっとお市の頬へと伸ばした。
ごつごつとした武骨な指先。その指先が、お市の白磁の肌に触れた。
温かい。
冷たい歴史の記録などではない。
いま、ここに生きている人間の、確かな熱がそこにあった。
「市」
長政の声が、微かに震えていた。
「ただいま戻ったぞ」
その一言を聞いた瞬間、お市の中で張り詰めていたすべての糸が、音を立てて千切れ飛んだ。
「長政様……! 長政様ぁっ……!」
お市は上前を乱すのも構わず、自ら長政の胸の中へと激しく飛び込んでいた。
長政の腕が、力強くお市の華奢な背中に回り、鉄具足の冷たさと泥の汚れを厭うこともなく、その身体を骨がきしむほど強く抱きしめた。
お市は、長政の胸に深く頬を押しつけた。
聞こえる。
どくん。
どくん。
確かな鼓動が、そこにある。
硬い胸当て越しに、激しく脈打つ命の熱が伝わってくる。
かつて読んだ歴史書には、ここから先の長政の死が記されていた。
けれど――
いま、お市の耳に聞こえているのは、死者の物語ではない。
生きている夫の、心臓の音だった。
「生きて……生きて戻られたのですね……! 長政様……っ!」
お市は長政の泥まみれの肩口に顔を埋め、声を上げて号泣した。
溢れ出る大粒の涙が、長政の胸当ての泥を洗い流していく。輿入れの日からずっと一人で抱え込み、誰にも言えずに押し殺してきた恐怖が、激しい嗚咽となって長政の胸へと吐き出されていく。
長政はお市の黒髪に顔を寄せ、その震える背中を大きな掌で何度も優しく撫でた。
長政の瞳からも、熱い涙が一筋、泥の頬を伝って零れ落ちていた。
「ああ、市。約束を守ったぞ」
長政の声は低く、どこまでも温かくお市の耳元に響いた。
「お前と子らの待つ小谷へ……俺は、生きて帰ってきたぞ!」
大手門の周囲を埋め尽くしていた領民たち、阿閉貞征や新庄直頼ら家臣たちが、その再会を目にし、誰もが涙を拭い、やがて地鳴りのような歓声を巻き起こした。
「当主長政様、お帰りなされませえっ!」
「よくぞご無事でお戻りくだされたぁっ!」
「浅井のお家は安泰じゃあっ!」
乳母の腕の中にいた茶々が、歓声に目を覚まして可愛らしい声を上げた。
長政はお市を腕の中に抱いたまま、もう一方の手で万福丸の肩を抱き寄せ、茶々の小さな頬にそっと指先を寄せた。
「市。万福丸、茶々」
長政はお市の涙を指先で優しく拭い去り、心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「我が家へ帰ろう」
「……はい、長政様」
お市は長政の手を両手でしっかりと握り締め、滲む涙を拭って頷いた。
「お帰りなさいませ」
長政とお市は手を取り合い、万福丸とともに、堂々たる足取りで大手門の敷居を越えていった。
小谷城の本丸に翻る三ツ星の旗印が、春の光を浴びて誇らしげにはためいていた。
小谷城には、春の光が満ちていた。




