第52話:包囲網の瓦解と京への上洛
第52話:包囲網の瓦解と京への上洛
越前一乗谷が灰燼に帰し、朝倉義景が大野の山寺で自刃した報せは、瞬く間に近畿一円を駆け巡った。
京の室町御所、将軍の居室。
豪華な襖絵と沈香の香煙に包まれた静寂の中で、十五代将軍・足利義昭は、手の中でくしゃくしゃに丸められた密書を見つめ、膝を激しく震わせていた。
額からは冷や汗が絶え間なく流れ落ち、白絹の着物の襟元を濡らしている。
義昭の前に平伏する細川与一郎藤孝と三淵伊賀守藤英の顔には、もはや主君への慰めの色すら残っていなかった。
「朝倉が……滅びただと。浅井長政が織田を援け、越前一乗谷を焼き払っただと……」
義昭の声は、恐怖と屈辱で惨めに掠れていた。
義昭が裏で糸を操り、朝倉義景や石山本願寺、各地の国人衆を動かして張り巡らせようとしていた織田信長包囲網。
浅井長政が朝倉の金に縛られ、将軍の御内書に従って信長の背後を突く――その一点のみに賭けられていた目論見は、浅井軍の電撃的な朝倉急襲によって、何の手応えもなく一瞬にして雲散霧消したのだ。
「上様」
細川藤孝が、冷ややかに顔を上げた。
「本願寺も加賀の一向衆も、朝倉の壊滅を聞いて完全に兵を引きました。諸国の諸大名も、織田様と浅井様の圧倒的な武威を前に、誰一人として動く気配はございませぬ。……もはや、御内書などただの紙屑にございます」
「ひ、ひぃぃ……っ」
義昭は両手で顔を覆い、がたがたと身を縮こまらせた。
朝倉という最大の頼みを失ったいま、義昭の脳裏を支配していたのは、朝倉を粉砕した信長と長政が、今度はこの御所へ押し寄せてくるのではないかという、身の縮むような怯えだけであった。
その怯えは、数日のうちに現実のものとなった。
信長は、浅井の本隊五千を近江へ帰国させる手筈を整えさせつつも、長政にこう告げたのだ。
『義昭の鼻をへし折る場には、貴様も立ち会え。浅井の潔白を公に天下へ見せつけるためだ』
長政は信長の意を汲み、選りすぐりの近習のみを従えて信長とともに上洛の途についた。
京の七口からなだれ込む織田軍の隊列。その中に、織田の木瓜紋と並んで浅井の三ツ星の旗印が翻っていた。
信長の傍らに馬を寄せる当主・浅井長政の凛とした佇まいに、大通りを埋め尽くした京の町衆から、どよめきのような感嘆の声が上がった。
「見よ、あのお方が浅井の若当主・長政様だ」
「金ヶ崎で朝倉の謀略を打ち破り、織田様をお救いして越前を平定されたという、天下無双の英主様よ」
「浅井が織田を裏切るなどという噂は、まったくのデタラメであったのだな」
沿道に響く京雀たちの称賛を、長政は誇るでもなく、ただ静かに受け流していた。
胸元の守り袋――そろばんの木玉をそっと指先で確かめる。
(この名誉も、この歓声も……すべては市が小谷で勘定帳を改め、俺の手を取ってくれたあの日から始まったのだ)
やがて二条御所の大広間において、信長と長政は、青ざめた足利義昭と対面した。
義昭は取り繕うような笑みを浮かべ、震える声で口を開いた。
「の……信長、そして浅井長政……。よくぞ不義の朝倉を討ち、越前を平定してくれた。あっぱれな働きであるぞ……」
空々しい褒め言葉。
しかし、長政は表情を一切変えず、小袖の懐から一巻の書状を取り出すと、義昭の前の畳へ静かに突きつけた。
「将軍様。……これをご照覧くだされ」
義昭が恐る恐る目を落としたのは、小谷城で失脚させた赤尾・海北の手から押収されていた、義昭直筆の『織田討伐の御内書』の写しであった。
「な……っ!?」
義昭の顔から、完全に血の気が引いた。
「将軍様」
長政の声は低く、しかし二条御所の広間を圧する重みを持っていた。
「武家の棟梁たる公儀が、裏で密約をばら撒き、朝倉の金に加担して天下を乱そうとなされること……誠に遺憾に存じます」
「そ、それは……朝倉が勝手に……」
義昭がしどろもどろに言い逃れようとすると、隣に坐す信長が鋭い眼光で遮った。
「上様。見苦しいお申し開きは無用にございます。余と長政は、理を違え、裏で天下を乱す者を決して容赦いたしませぬ」
長政もまた、毅然と言葉を重ねた。
「我が浅井家は、妻・お市とともに、朝倉から受けていた金と物資による拘束を完全に断ち切りました。我らは織田兄上とともに、琵琶湖の流通を開き、領民を富ませ、天下の安寧を支える所存。……将軍様におかれましても、陰謀による暗闘はお控えいただき、正しき武家の道をお示しくださいますよう」
一切の逃げ道を塞ぐ、冷徹な一刀両断。
義昭は自らの不義を突きつけられ、もはや一言も返すことができず、ただ平伏して震えるばかりであった。
その夜。
京の妙覚寺の奥書院には、庭の木々を揺らす春浅き夜風の音と、酒宴のざわめきが満ちていた。
柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎ら織田の重臣たちが美酒に酔いしれる中、上段の間では、信長と長政が二人きりで膝を突き合わせていた。
信長は自ら金塗りの銚子を執り、長政の朱塗りの盃へなみなみと酒を注いだ。
「飲め、長政」
「ははっ、兄上」
長政が盃を干すと、信長は盃を置き、庭の闇を見つめながら低く呟いた。
「長政。……余はな、金ヶ崎の山中で退路を塞がれた折、一瞬だけ貴様を疑ったぞ」
信長の実直な告白。
長政は静かに信長を見つめ返した。信長は自嘲するように目を細め、言葉を続けた。
「『浅井の老臣どもが長政を抑え込み、朝倉についたのではないか』とな。狭い峠道で挟み撃ちに遭い、我が軍が全滅する死地の寒気を、この信長ですら肌に覚えたのだ。……だが、木ノ芽峠に現れたのは、敵ではなく貴様の軍勢であった」
信長は振り返り、義弟の顔を正面から見据えた。
「なぜあの刻限に、寸分の狂いもなく背後を突けた。……市か」
「はい、兄上」
長政は迷いなく頷いた。
「市は、城下や街道の商人、関役から集まる泥臭い報せを繋ぎ合わせ、朝倉が一向衆へ金を撒いている動きを事前に見抜いておりました。兄上の進軍が早すぎるがゆえの死角を算用で弾き出し、俺に背後を突く策を与えてくれたのです」
「く……ははははっ!」
信長は片膝を強く叩き、腹の底からの大笑いを響かせた。
「あやつめ! あの日、岐阜の城へ乗り込んできて余にそろばんを突きつけた時から、すでに戦の流れを読み切っておったというわけか! ……長政。余は金ヶ崎で背後を討たれると一瞬だけ疑った。だが、市があの日そろばんを叩いた時から、余の背中はすでに守られておったのだな」
信長は満足そうに酒を呷ると、ふっと目を細めて長政を見た。
「越前の仕置も、京の始末も、すべて余の手で片がつく。……長政、手柄を立てた男が、いつまでも他国の酒宴に油を売っているものではないぞ」
信長の唇に、からかうような、しかし温かな笑みが浮かぶ。
「疾く帰れ。市が待っておる」
長政は虚を突かれたように目を見開き、それから、深く頭を下げた。
「……ははっ。ありがたきお言葉にございます」
妙覚寺の庭の上に、冴え冴えとした春の月が浮かんでいる。
その清らかな光を見上げる長政の胸を占めていたのは、天下の栄誉などではなかった。
(兄上と天下を支える道も重い。……だが、俺がいま一番戻りたい場所は、天下の表舞台ではない。市が待つ、あの小谷の城だ)
胸元の守り袋の中にある、そろばんの木玉。
その確かな重みが、戦場を駆け抜けてきた長政の心を、小谷へと引き戻していた。
信長ですら認めた男が、それでもなお焦がれるのは、妻と子の待つ我が家であった。
「兄上。……明日未明、小谷へ向けて出立いたします」
「うむ。気をつけて参れ」
長政は月光に照らされた盃を掲げ、信長と短く目を合わせた。
春浅き夜風が妙覚寺の木々を揺らし、長政の心はすでに、妻と子が待つ北近江の空へと力強く駆け出していた。




