第51話:朝倉義景の最期
第51話:朝倉義景の最期
越前一乗谷の空は、冬の名残を含んだ冷たいみぞれに煙っていた。
三方を山に囲まれ、足利将軍家ゆかりの雅を誇った北陸の小京都。その静寂を切り裂くように、一騎の泥まみれの早馬が唐門前の石畳を蹴立てて駆け込んできた。
「破陣! 木ノ芽峠の別動隊、壊滅にございまする!」
喉を引き裂くような絶叫が、朝倉館の大広間へと響き渡った。
敷石に血と泥を塗りたくりながら這い上がった物頭が、青ざめた顔で叫ぶ。
「式部大輔(朝倉景鏡)様の手勢は総崩れ! 背後より……塩津の浅井軍が、織田を援けて怒涛のごとく突入してまいりましてございます!」
上段の間に坐す越前国主・朝倉左衛門督義景は、手にした朱塗りの盃を畳の上へ取り落とした。
盃は鈍い音を立てて転がり、酒が白絹の小袖を濡らしていく。
「な……何を申すか……。浅井が、織田を援けただと……? 戯れ言を申すな! 浅井は我が朝倉が三代にわたって手厚く養ってやった家ぞ! 将軍様の御内書も下し置いた! 敦賀の塩も止めてやった! なぜ長政が織田を討たぬのだ!」
義景の声は上ずり、狼狽と怒りが入り混じった金切り声となって天井を震わせた。
だが、居並ぶ重臣たちは誰一人として顔を上げない。
朝倉義景にとって、南の浅井家は金と物資を握らせて手飼いにしておくべき番犬に過ぎなかった。北近江が困窮すれば塩を絞り、老臣たちに個人的な利権を与えて飼い慣らす。その首輪を引っ張れば、浅井など意のままに動くはずだった。
その傲慢な計算が、なぜ狂ったのか。
なぜ、飢えて泣きついてくるはずの浅井の兵が、腹を満たし、研ぎ澄まされた長槍を揃えて、主家たる朝倉の喉笛に喰らいついてくるのか。義景には、その道理が天地が裂けても理解できなかったのだ。
その混乱を切り裂くように、一乗谷の南の木戸から、轟音とともに火の手が立ち上った。
木ノ芽峠を突破した織田・浅井の連合軍三万五千が、破竹の勢いをもって越前平野へとなだれ込んできたのだ。
刀根坂の要害は一瞬にして粉砕され、長く戦火を遠ざけ、雅を紡いできた一乗谷の街並みに、一瞬にして逃げ惑う人々の悲鳴が満ちあふれた。
防衛線を失った朝倉館はあっけなく炎に包まれ、黒煙が春まだ浅い越前の空を真っ黒に染め上げていった。
*
炎上する一乗谷を逃れ、越前大野の山奥――六坊賢松寺へと落ち延びた朝倉義景。
破れた筵の隙間からみぞれが吹き込む荒れ寺の庫裏で、義景は泥にまみれた小袖を震わせ、折れた太刀を抱きしめて蹲っていた。
供回りはわずか数名。頼みとするのは、自らの領地であるこの大野へ義景を招き入れた一門筆頭・朝倉式部大輔景鏡の手勢だけであった。
「景鏡は……まだ戻らぬのか……」
義景が掠れた声で呟いた、まさにその時であった。
ざっ、ざっ、ざっ――。
降り積もる湿った雪を踏みしだく、無数の重々しい足音が寺を取り囲んだ。
義景が縋るような思いで縁側へ這い出ると、境内は赤々と揺らめく松明の火によって照らし出されていた。
寺を四方から完全に包囲していたのは、甲冑を着込み、長槍を構えた武者たち。
そして、その先頭に立っていたのは――他ならぬ朝倉景鏡であった。
「……景鏡……? 何を……何をしているのだ、景鏡。早く織田と浅井を討つ手を……」
「屋形様」
景鏡の声は、降るみぞれよりも冷たかった。
「もはや、これまでにてございます。……織田弾正忠様、ならびに浅井長政様へ、貴方のお首を差し出す手筈が整いましてございます」
義景は息を呑み、血の気を失った顔を激しく引きつらせた。
「お……お前……! 余を売るというのか!? 同じ朝倉の血を引き、余がもっとも目をかけてやったお前が……この義景を売るというのかあっ!」
義景の絶叫に対し、景鏡の眉はピクリとも動かなかった。景鏡は境内の雪を踏みしめ、ただ静かに、冷徹に言い放った。
「浅井が裏切ったと、貴方は今も喚いておられるようだな」
「な……にを……」
「浅井が裏切ったのではございませぬ」
景鏡の視線は、もはや主君を見る目ではなかった。
「……では、何だというのだ!」
「浅井は、もう朝倉なしでも生きられるようになった。……それだけのことにございます」
義景は息を詰めた。
景鏡は淡々と、しかし刃のような言葉を重ねた。
「塩を止めれば従うと思われた。米を握れば膝を折ると思われた。だが――腹を満たし、己が当主に誇りを持った兵は、何のために槍を振るうのかを知る」
「……だ、黙れ……」
「その違いを、屋形様は最後まで御理解なされなかった」
人を飢えさせて支配する者は、最後には人に見捨てられる。
その冷酷な因果の前に、義景の傲慢な自負は粉々に打ち砕かれた。
三代の恩義も、将軍の権威も、己が握っていた金も――自ら生きる道を選んだ浅井には、もはや何の意味もなかった。
「……取り囲め」
景鏡が静かに手を上げた。
その瞬間、周囲の武者たちが一斉に槍の石突を雪に打ち鳴らし、寺の回りを隙間なく塞いだ。
逃げ道は、完全に断たれていた。
誰一人として、自分を助けにくる者などいない。
金で人を買い、金で人を縛ろうとした男は、最後にはその金で築いた支配ゆえに、身内にまで見捨てられるのだ。
「……幾代もの栄華……すべては幻であったか……」
義景は震える手で短刀を引き抜き、己の腹へと刃を押し当てた。
冷たい鉄の感触。
数字の向こうにある人の暮らしを侮った男の、哀れなツケの払い時であった。
――これが、最後の勘定であった。
「――おのれ、信長……おのれ、長政……!」
最後の呪詛とともに刃を引き回し、義景は前へ倒れ伏して動かなくなった。
南北朝以来、幾代にもわたって越前に君臨した名門・朝倉氏は、ここにその歴史の幕を閉じたのである。
*
翌朝。
越前一乗谷の焼け跡に設けられた本陣において、朝倉義景の首実検を終えた織田信長は、冷ややかにその眉間を見下ろした。
「……終わったな」
信長の一言に、柴田勝家、丹羽長秀らが静かに頭を下げた。
長政は、その首級から数歩離れた場所に立ち、静かに手を合わせた。
怨敵の死に、勝ち誇る笑みはない。
ただ、祖父の代からの長きにわたる不当な束縛が、いま完全に断ち切られたことへの、重々しい確認であった。
「長政」
信長が振り返り、義弟の肩を力強く叩いた。
「越前の仕置は、余が引き受ける。……貴様は、浅井の軍勢を率いて小谷へ戻る準備をせよ」
「兄上、よろしいのですか? 京の将軍・義昭公への手当てが残っておりますが」
「案ずるな」
信長の唇に、覇王の冷徹な笑みが浮かんだ。
「義昭の小細工など、朝倉を失ったいま、牙を抜かれた野良犬も同然よ。二条御所へ圧をかけるに、貴様の手勢をこれ以上煩わせるまでもない。……それよりも、長政」
信長は長政の胸当てを指先で軽く小突き、からかうように目を細めた。
「市が待っておるぞ。……あの妹のことだ。城の留守を守りながら、貴様の帰りを首を長くして勘定しておるはずだ。手柄を立てた男が、いつまでも戦場に油を売っているものではない」
長政は虚を突かれたように目を見開き、それから、ふっと心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「……ははっ。兄上のお言葉、ありがたく頂戴いたします」
長政は、胸の中の守り袋にそっと触れた。
袋の中にある、そろばんの木玉が、掌の奥で確かな重みを返す。
戦は終わった。
だが、長政にはまだ一つだけ、果たさねばならぬことがある。
小谷へ帰ることだ。
そこには、妻がいる。
そして、子らがいる。
長政は踵を返した。
そこには、激戦を生き抜いた浅井軍五千の精鋭たちが、誇らしげに槍を立てて待っていた。
「皆の者、引き揚げの支度をせよ!」
雪晴れの越前に、長政の声が響き渡る。
「我らが帰るべき場所へ戻るぞ! 小谷の城へ!」
「「おおおおおっ!」」
地鳴りのような勝鬨が、山々に木霊した。
その声を背に、浅井長政は歩き始めた。
勝利を誇るためではない。
生きて帰るために。




