第50話:兄妹の対面
第50話:義兄弟の対面
織田弾正忠信長は、名残の雪を黒漆の南蛮胴に受けながら馬首を返し、絶句したまま眼下の谷合いを見つめていた。
木ノ芽峠の狭隘な山道。
さきまで、加賀・越前の一揆勢が白旗を乱立させ、朝倉軍とともに織田軍の退路を断とうと怒涛のごとく殺到していた地獄の戦場。
京都へ向けて抜け道を移動していた信長の本隊は、後方で響いていた念仏の声と銃声が突如として止み、代わりに朝倉軍の悲鳴と、大地を揺らす浅井三ツ星の勝鬨が響き渡ったのを聞き、馬を止めて取って返してきたのだ。
信長の目の前に広がっていたのは、信長が想像していたものとは、全く異なる光景であった。
ぬかるんだ雪泥の上には、踏みにじられた朝倉軍の三ツ木瓜の旗印と、投げ捨てられた一揆勢の竹槍が散らばり、朝倉の別動隊は、北の一乗谷方向へ向かって命からがら逃げ惑っていた。
そして、その敗走する朝倉軍の背中を、黒漆の具足と手入れの行き届いた鉄具足で身を固めた、五千の浅井精鋭軍勢が、整然と長槍を揃えて追い散らしていたのだ。
信長の傍らに馬を寄せていた柴田権六勝家、明智十兵衛光秀、丹羽五郎左衛門長秀ら織田家の重臣たちが、一斉に息を呑み、己の目を疑った。
「な……なんだ、あの軍勢は……!? 浅井の三ツ星の旗印ではないか……!」
「浅井が……浅井長政が、朝倉軍を後ろから撃ち破っているというのか……!?」
信長軍の武者たちがざわざわと動揺する中、血と泥に塗れた木下藤吉郎が、馬前へ駆け込んできた。
藤吉郎は感涙をボロボロと流し、信長の馬前へひれ伏して大声を張り上げた。
「お館様! お館様ぁっ! 浅井様でございます! 浅井長政様が、我が軍の危機をお救いくださるため、塩津から駆けつけてくださったのですぞ! 浅井軍が背後から朝倉を叩きのめしてくださったおかげで、敵の包囲は完全に粉砕されましたぞっ!」
藤吉郎の感涙の叫び。
勝家が口を開けたまま立ちすくみ、長秀が深く息を吐き出して天を仰いだ。
馬上に坐す信長は、無言のまま手綱を握りしめていた。
信長の漆黒の瞳の奥で、激しい衝動と、鋭い思考が駆け巡っていた。
信長は、浅井長政が朝倉の裏金に縛られた老臣どもに押され、自分を裏切るのではないかと、心のどこかで一抹の警戒を抱いていたのだ。だからこそ、木ノ芽峠で挟み撃ちに遭った折、素早く決死の殿を藤吉郎に任せ、自らは退路の確保に動いた。
しかし――いま、目の前で起きていた事実は、信長の予想を遥かに超えていた。
浅井長政は織田を裏切るどころか、織田軍の背後を守るため、電撃的に現れて朝倉軍を完膚なきまでに叩き潰してみせたのだ。
やがて、散らばる敵の捨て槍を踏み越え、一騎の馬が信長の本陣へ向かって静かに進み出てきた。
栗毛の愛馬に跨がり、黒漆の具足を敵の血で染めた、若き英主――浅井新九郎長政。
長政の左右には、阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼ら近江の諸将がズラリと控え、その背後には、勝利を収めた浅井精鋭五千の武者たちが、堂々たる陣形で立ち並んでいた。
長政は信長の馬前、十数歩の手前で静かに馬を止めると、滑らかな動作で馬を下りた。
そして、具足の裾をさっと払い、名残の雪が舞うぬかるんだ土の上に、堂々と膝を突いたのだ。
「浅井新九郎長政、織田弾正忠兄上にお目にかからせていただきます」
長政の声は低く、澄み切り、木ノ芽峠の谷合い全体へと響き渡った。
信長もまた、ゆっくりと馬を下り、重々しい足音を立てて長政の前へと歩み寄った。
二人の大名、天下の英傑と近江の英主が、名残の雪舞う戦場において、正面から向き合ったのだ。
信長は、膝を突く長政を上からじっと見下ろした。
信長の鋭い眼光が、長政の具足、そして長政の胸元に抱えられた小さな和紙の守り袋――そろばんの木玉が納められたお守りへと注がれた。
「長政……」
信長の声には、一切の偽りも甘えも許さぬ、重々しい威厳が宿っていた。
「お前は……浅井は、朝倉義景からの裏金と、三代の義理とやらを捨て……我が織田の背後を守るために、ここへ来たのか?」
信長の直球の問いかけ。
長政は静かに顔を上げた。
長政の瞳には、かつて小谷の城で孤立し、老臣たちの圧力に涙を流していた弱気な面影は微塵も存在しなかった。そこに輝いていたのは、お市から愛と知性を与えられ、浅井の家を自らの手で背負い立つ、本物の当主としての堂々たる気迫であった。
長政は胸を強く張り、信長に向かって力強く言い放った。
「兄上! さきに我が浅井の家を食い荒らし、朝倉の裏金に目が眩んで主君を売ろうとしていた不忠の老臣どもは、小谷の大評定において完全に叩き潰しました!」
長政の言葉が、山肌に力強く反響した。
「我が浅井家が尊ぶのは、朝倉義景の不当な裏金や、過去の腐った義理などではございませぬ! 我が妻・お市が示してくれた、織田家との対等なる誓いと、浅井の国の真の未来にございます!」
長政は胸元の守り袋を指差し、誇らしげに言葉を重ねた。
「我が妻・お市の手によって老臣どもの不忠が暴かれ、浅井の全軍が俺の下に一本化されたいま、我が浅井軍は、織田兄上と肩を並べる盟友にございます! 兄上の背後を脅かす朝倉勢、ならびに一揆勢……浅井の全力を以て、完全に叩き潰してご覧に入れました!」
長政の、寸分の隙もない堂々たる答え。
朝倉の裏金を排し、お市とともに浅井家を自立した富国へと生まれ変わらせ、信長の命を救うために駆けつけたという真実。
控えていた柴田勝家や丹羽長秀、そして木下藤吉郎の胸に、激しい鳥肌と熱い感動が駆け抜けた。
浅井長政は、裏切り者などではなかったのだ。
信長を救い、朝倉の不義の包囲網を打ち砕いた、無二の盟友としてここに立ったのだ。
長政の胸元の守り袋、そして真っ直ぐな眼差しを見つめていた信長。
信長の脳裏の中で、これまで散らばっていた一切の疑問が一瞬にして一つの答えとなり、点と点が一本の太い線となって繋がった。
信長はお市が岐阜の城へ乗り込んできた日のことを、武将としての冴え渡る直感とともに鮮やかに思い出していた。
お市がそろばんを叩き、「浅井を対等な相棒とせよ」と言い切り、自分と裏の経済同盟を結んでいった、あの日の姿。
(あの小娘め……! 織田軍が北へ進めば進むほど補給線が伸び、朝倉がその隙を突いてくる危うさを、あらかじめ見抜いておったというのか……!)
信長の胸に、落雷のごとき強烈な感嘆が突き走った。
お市が岐阜でそろばんを弾いて物流の道を説いたのは、単に城を富ませるためだけではなかったのだ。この金ヶ崎の狭路で信長軍が深入りした折、即座に背後から救援できる兵糧と兵力を、あらかじめ塩津と琵琶湖の水運に整えさせておくためであったのだ。
信長は、しばし呆然として息を詰め、立ちすくんでいた。
やがて――。
信長は両手を腰に当て、天を仰ぐと、腹の底からの大笑いを爆発させたのだ!
「く……くくく……ははははははははっ!」
木ノ芽峠の山々を揺るがすほどの、豪快にして心底愉快そうな破顔大笑であった。
信長は長政を見下ろし、目を輝かせて叫んだ。
「市め! 市めぇっ! まんまとやりおったわ!」
信長の声には、己の想像を遥かに超える完璧な勝利の舞台を整えてみせた妹に対する、絶大な感嘆と誇りが溢れ出ていた。
「あの小娘め……! 岐阜の城で余にそろばんを突きつけ、ぬけぬけと『浅井を対等な相棒にせよ』と言い切ったのは、このためであったか! 小谷の老害どもを叩き潰してお前を真の英主として立たせ、余の背後を守る兵糧と兵を塩津に用意しておく……! すべて、あの妹の算段通りというわけか!」
長政もまた、信長の豪快な笑顔を目にし、膝を突いたまま、ふっと誇らしげな笑みを浮かべた。
「はい、兄上。すべて……俺の妻、お市の手柄にございます。……お市が俺の手を取り、数字と道理を示してくれたからこそ、俺は当主として立ち、こうして兄上をお救いすることができたのです」
長政は立ち上がると、信長の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「兄上。約束通り、琵琶湖の水運と、織田軍の退路……この浅井長政が、責任を以てお守りいたしましたぞ」
長政の凛とした言葉に、信長は大股で歩み寄ると、その力強い手で長政の肩をバシッと叩いた。
「長政! 我が義弟よ! 見事だ! 浅井の武威、しかと見届けたぞ!」
信長は鋭い眼光を爛々と輝かせ、北の空――越前一乗谷の方角を指差した。
「だが、長政! 背後を払っただけで満足する余たちではあるまい! 朝倉義景を取り逃がしては片手落ちよ! この勢いのまま木ノ芽峠を越え、越前平野へ雪崩れ込み、一乗谷の息の根を止めるぞ!」
信長の獰猛な号令に、長政もまた力強く太刀の柄を握りしめ、眼光を鋭く研ぎ澄ませた。
「望むところにございます、兄上! 我が浅井の五千、先陣を切って一乗谷の木戸を蹴破りましょうぞ!」
「よし! 全軍、木ノ芽峠を越えよ! 越前一乗谷へ向け、怒涛の進撃を開始せよっ!」
「「「おおおおおおおっ!」」」
柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎、そして阿閉貞征、新庄直頼ら両家の諸将が一斉に太刀や槍を掲げ、地鳴りのごとき大勝鬨を上げた。
春先の冷たい風が吹き抜ける木ノ芽峠を、三万五千の織田・浅井連合軍が怒涛の濁流となって越前平野へとなだれ込んでいく。
三ツ星の旗印と織田木瓜の旗印が、春の青空の下で並び立ち、春の嵐のごとく翻るその先には――滅びゆく朝倉の居城・一乗谷が、運命の炎を待つかのように霞んでいた。




