第49話:長政の雄叫び
第49話:長政の雄叫び
「浅井が尊ぶのは、無益な義理などではない! 妻が示した未来だぁっ!」
浅井新九郎長政の裂帛の咆哮が、名残の雪が舞い散る木ノ芽峠の谷合い全体を、地鳴りのごとく激しく揺るがした。
長政は栗毛の愛馬の腹を強く蹴り上げ、黒漆の具足を敵味方の血とぬかるんだ泥で染めながら、自ら太刀を閃かせて朝倉軍の陣列の中央へと深く突入していった。
長政の胸元には、小谷の城を発つ折にお市から手渡された、あの小さな和紙の守り袋――そろばんの木玉が納められたお守りが、大切に抱えられていた。
手の中に伝わる木玉の冷たさと、小谷の城の奥御殿で涙を流して自分を信じてくれた妻・お市の温かな面影が、長政の全身に怒涛のごとき気迫と、これまでにない力を漲らせていたのだ。
長政が太刀を振り下ろすたび、朝倉兵の長槍が叩き折られ、鮮血が春の寒風へと舞い上がった。
長政の破竹の突撃に呼応し、後方に控えていた浅井軍五千の精鋭武者たちが、一斉に長槍を水平に構え、地鳴りのような猛攻を開始した。
「当主長政様に続けぇっ!」
「浅井の誇りを示せぃっ!」
阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、野村肥後守定元、浅井新七郎政澄ら近江の将たちが率いる当主直属の長槍隊と騎馬隊が、怒涛の濁流となって朝倉軍の背陣をズタズタに切り裂いていった。
兵たちが身に纏うのは、さきにお市が老臣たちの蔵から召し上げ、当主長政の手から塩や米とともに支給された、手入れの行き届いた鉄具足であった。
不当な横領と不忠の支配から解き放たれ、当主・長政とお市のもとで自立した浅井の武士としての誇りに燃える兵たちの突撃は、圧倒的な破壊力をもって敵を踏み潰していったのだ。
「ひ……ひぃぃっ! 無理だ! 押し返せぬっ!」
「景鏡様! お馬をこちらへ! 浅井の長槍隊に殺されますぞっ!」
「だ、黙れっ! 退却だ! 一乗谷へ逃げ戻れぇっ!」
朝倉軍の指揮官・朝倉式部大輔景鏡は、兜を跳ね飛ばされ、泥塗れになりながら馬の腹を狂ったように蹴り上げ、見苦しい悲鳴を上げて一乗谷方向へ向かって逃げ惑っていた。
朝倉義景が煽動した加賀・越前の一向一揆勢もまた、「南無阿弥陀仏」の白旗を山道に投げ捨て、竹槍や火縄銃を打ち捨てて、蜘蛛の子を散らすように山中へと逃げ去っていった。
敦賀の関所を閉ざして北近江の塩を止めようとした朝倉義景の策は、皮肉にも己の軍勢の足元を腐らせていた。
老臣たちに裏金をばら撒く一方で、末端の兵や一揆勢には十分な塩も兵糧も行き届いておらず、朝倉勢は初めから持久戦を戦い抜く気力も体力も底をついていたのだ。
それに対し、浅井の兵たちは違った。
お市の手によって届いた潤沢な塩と米によって満たされ、自らの意志で選んだ当主への誇りに燃えていた。
背後からの浅井軍の電撃突撃と、前からの木下藤吉郎隊の捨て身の奮戦。
朝倉義景が仕掛けた挟み撃ちの罠は、浅井長政の冷徹な軍略と当主直属兵たちの猛攻によって完全に粉砕され、朝倉軍の別動隊と一向一揆勢は、壊滅的な敗走を遂げたのであった。
やがて、木ノ芽峠の狭い谷合いに響いていた叫喚と怒号が、引き潮のように遠ざかっていった。
名残の雪が降り積もるぬかるんだ街道の上には、乗り捨てられた朝倉軍の兵糧車や、折れた槍、そして倒れ伏す敵兵の姿だけが残されていた。
木ノ芽峠の谷口。
血と泥に塗れた具足の膝を突き、荒い呼吸を整えていた木下藤吉郎のもとへ、栗毛の馬を下りた浅井長政が、重々しい足音を立てて歩み寄ってきた。
藤吉郎はハッと顔を上げると、眼前に立つ長政の姿を目にし、泥の上に額を擦りつけるようにして深く平伏した。
「あ……浅井様……! 浅井長政様ぁっ!」
「藤吉郎殿」
長政は静かに膝を折り、泥塗れになった藤吉郎の手を、己の大きな手で力強く引き起こした。
「見事な殿であったな」
「浅井様……! この藤吉郎……ならびに織田の兵ども、浅井様のお手によって救われましたぞ!」
藤吉郎はボロボロと涙を流し、長政の手を強く握り返した。
「お市様が岐阜の城でお示しくださった織田と浅井の誓い……真に真実にございました! 浅井様が背後から朝倉を叩き潰してくださらねば、我らは全員ここで討ち死にを遂げておりました……!」
「藤吉郎殿。お館……信長兄上はご無事か?」
「ははっ!」
藤吉郎は涙を泥で拭い、力強く頷いた。
「お館様は、柴田権六様や明智十兵衛様らわずかな精鋭とともに、脇の間道を通って近江口へ退避しておられます! 浅井様が朝倉軍の背後を討ち、一揆勢を散らしてくださったおかげで、追撃の敵は一兵たりともお館様の後ろへは届いておりませぬ!」
「そうか。兄上がご無事なら、何よりだ」
長政は深いため息を吐き出し、胸を撫で下ろした。
「浅井様……! この藤吉郎、浅井様のご恩、生涯忘れませぬぞっ!」
「礼には及ばん、藤吉郎殿」
長政は藤吉郎の肩を力強く叩き、温かな笑みを浮かべた。
「兵を整えよ。我が浅井軍の船から陸揚げした兵糧と塩を、そなたの隊へ分け与えよう。傷ついた兵たちに温かい炊き出しを行い、直ちに陣を立て直されよ」
「お……お市様のみならず、当主様までこれほどのご配慮……! 感謝の言葉もございませぬ!」
藤吉郎は再び泥の上に頭を擦りつけるように平伏し、何度も何度も頭を下げた。
信長軍を襲った絶体絶命の死地。
朝倉義景が仕掛けた、冷酷極まる挟み撃ちの謀略。
しかし、浅井長政は朝倉の言いなりになる従属の鎖を完全に叩き破り、信長の命を救い、朝倉の不義の包囲網を背後から一網打尽に打ち砕いた最高の同盟者として、この戦場に立ち塞がったのだ。
お市の手によって老臣たちの不当な裏金支配が排除され、当主・長政のもとで一本化された浅井軍の真の武威が、この木ノ芽峠の地で天下に示された瞬間であった。
長政は、散らばる朝倉の旗印を踏み越え、ゆっくりと馬上へと立ち戻った。
栗毛の馬の手綱を握り直し、春の雲が流れる北の空――越前一乗谷の方角を見つめる。
長政は胸元の守り袋――そろばんの木玉を指先でそっと撫で、小谷の城で己の無事と勝利を祈っている愛する妻・お市の姿を強く胸に抱きしめた。
(市……。勝ったぞ。俺はお前との誓いを守り、兄上を救い、朝倉の不義を打ち砕いたぞ……)
長政の胸の中に、熱い達成感と、お市に対する溢れるばかりの愛おしさが満ちあふれていった。
不当な裏金に縛られ、当主でありながら一人で涙を流していたかつての自分。
その自分を救い出し、数字と道理という絶対の武器を与えてくれた愛する妻。
お市とともに歩んできた道が、浅井と織田の未来を力強く切り開いたのだ。
風が止み、木ノ芽峠の山肌に、雲間から柔らかな春の陽光が差し込み始めていた。
長政は太刀を鞘へと納め、静かに馬首を巡らせた。
周囲には、当主・長政の軍略に深く心服し、誇らしげに槍を立てる浅井精鋭五千の武者たちが立ち並んでいた。
硝煙の去った戦場に、冷たい山風が静かに吹き抜け、武者たちの吐く白い息と、三ツ星の旗印を力強く揺らしていた。




