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第48話:浅井軍、参戦

第48話 浅井軍、参戦


 木ノ芽峠の谷合いを、冷たい春の雨とみぞれが交互に叩いていた。


 山肌にはまだ冬の名残の雪が斑に残っていた。春の気配は里にあっても、峠の山中にはなお冬の冷気が籠もっていた。雨とみぞれで足元の泥は深く、視界も白く霞んでいた。谷底から立ち上る霧が人影を半ば隠し、遠くで交わる槍の音と悲鳴だけが、雨音に混じって聞こえていた。


 朝倉軍は峠の北側、すなわち織田軍が退こうとする方向に兵を厚く配し、正面にも兵を並べて、織田の退路を完全に断ったつもりでいた。先の戦いで木下藤吉郎隊を追い詰めた勢いも残っている。景鏡は馬上で頷き、勝ちを確信していた。すでに勝ち戦の空気が、陣中に漂い始めていた。景鏡もまた、その空気に酔うように手綱を握り直した。頭の中では、すでに勝利の報告まで組み立てていた。


「もはや織田は終わりだ。浅井もまた、朝倉の旧縁に従うはず」


 彼の頭には、将軍家の御内書、三代にわたる旧縁、敦賀の荷を止めた効果、そして浅井の老臣たちがかつて朝倉に傾いていた事実が、重ねてあった。塩を止めれば兵は弱る。荷を断てば動きは鈍る。浅井が動くとしても、せいぜい様子見程度――そう信じて疑わなかった。


 だが、山の南側からは、すでに別の足音が近づいていた。


 塩津を発した浅井軍五千は、琵琶湖東岸を北上し、木ノ芽峠の南麓へ入っていた。平地を進むうちは五千の兵をある程度広げて進ませることもできたが、山道に入ると道幅は一気に狭まる。長政は小荷駄の一部を後方に残し、当座に必要な兵糧と武具だけを持たせて先鋒を進めた。


 足音を殺し、槍を立てたまま、黒漆の具足をまとった兵たちが静かに山道を詰めていく。雨が顔を叩き、泥が足を取る。それでも誰一人として声を上げなかった。先鋒が道を塞ぎ、その後ろに本隊、さらに予備が続く。五千を一度に展開する余地など、この山道にはない。長政はそれを承知のうえで、狭い道を活かす形を選んでいた。


 朝倉の物見は、北側と正面の監視に気を取られ、南側の動きを見落としていた。浅井軍が姿を現す直前になって、ようやく異変を察したが、報せが景鏡のもとへ届く頃には、すでに遅かった。たとえ報せが届いていたとしても、景鏡は「浅井が動くはずがない」と思い込み、異変とは受け取らなかっただろう。


「敵は北側と正面ばかりを固めている。南側は手薄だ」


 長政の声は低かったが、確かな響きがあった。馬上から周囲の兵たちを見渡す瞳に、迷いの色はなかった。槍を構える先鋒の隊形は、悪天候の中でも大きく乱れていなかった。


 朝倉の後陣にいた兵が、初めて異変に気づいたのは、旗印が雨の向こうに揺れた瞬間だった。


「……あれは?」


 浅井家の旗印が、南の斜面から現れた。黒漆の具足をまとった軍勢が、霧の中から次々と姿を現し始める。先頭の旗指物が風に煽られ、三ツ星の紋がはっきりと見えた。


 景鏡の顔が、凍りついた。


「浅井……? なぜここに」


 彼の頭の中で、積み重ねてきた根拠が一気に崩れていく。


「敦賀の荷も押さえた! 浅井の塩も止めた! 老臣どもはまだ長政を抑えているはずだった! それなのに、なぜだ……! 長政がここまで変わるとは……!」


 将軍家の御内書、旧縁、老臣の動向、塩と荷の封鎖――景鏡が浅井を縛ると信じていたものが、ことごとく意味を失っていた。お市が敷いた伊勢からの塩の道、琵琶湖の水運、扶持の直接支給。朝倉が止めた敦賀の荷など、もはや浅井の兵站を揺るがす力を持たなかったのだ。景鏡の指先が震えた。


 景鏡の声は掠れていた。馬を駆って各所へ指示を飛ばし、伝令を走らせるが、すでに後陣は崩れ始めていた。旗指物が倒れ、叫びが飛び交う。朝倉軍とともに峠を押さえていた門徒勢の諸隊も、浅井軍の突入を前にして統制を失い始めていた。誰かが「浅井だ!」と叫ぶ声が上がり、それが連鎖して動揺を広げていく。


 その隙を、浅井の先鋒が突いた。


 浅井軍五千が、鬨の声とともに前へ動き始めた――とはいっても、狭い山道では全軍が一斉に突撃することなどできない。先鋒が朝倉軍の後陣へ食い込み、本隊が後に続き、予備はなお山道に控えていた。先頭が倒れても、後続の兵がその脇を抜け、次々と前へ出た。隊列は止まらなかった。


 景鏡はなおも声を上げる。


「臆するな! 浅井など、数に物を言わせているだけだ! 敵の旗指物を狙え!」


 だが、兵の足はすでに思うように前へ出なかった。腹が減り、体が冷え、連日の戦いと雨で消耗しきっている。塩不足だけが原因ではない。過信と疲労と、指揮の乱れが重なっていた。


 一方、木下藤吉郎隊の残兵は、死の淵に立たされていた。


 もともと二千ほどいた兵は、すでに数を大きく減らしていた。矢は尽き、槍は折れ、足元はぬかるむ。兵衛という名の足軽は、破れた具足のまま槍を握りしめていた。


 かつて赤尾や海北ら重臣の配下に置かれていた頃、兵衛ら雑兵は日々の扶持米を削られ、塩にも事欠き、痩せこけた体で冷たい泥のあぜ道に伏し、飢えと屈辱に耐えるしかなかった。米も塩も、途中で消えてしまうのが当たり前だった。それが――今は違う。これまでなら途中で消えていた米と塩が、きちんと俺たちの手に届く。破れた札を継ぎ、腐った緒を替えた具足が身を守り、腹には飯が入っている。これまで俺たちは、腹を減らして戦うのが当たり前だった。それを変えてくださったのは、お市様とお当主様だ。兵衛の胸の中で、その事実が静かに燃えていた。


 この戦は、その「当たり前」を守る戦でもあった。


 前方から突如として湧き起こった朝倉軍の悲鳴に、藤吉郎は目を凝らした。


 南から聞こえた鬨の声が、雨を裂いた。


 浅井の旗印が、はっきりと見える。


 兵衛の目が大きく見開かれた。周囲の兵たちも、信じられないものを見るように顔を上げる。藤吉郎自身が、泥の中から体を起こした。


「浅井様だ! 浅井長政様が来られたぞぉっ!」


 それまで死んだように俯いていた兵たちが、次々と顔を上げた。折れた槍を握り直す者がいる。泥に膝をついていた者が、よろめきながら立ち上がる。目の前に浅井の旗がある。それだけで、消えかけていた戦意が再び燃え上がった。


「姫様の読み通りだ! 浅井様は、我らを見捨てられたのではない!」


 前からは藤吉郎隊、背後からは浅井軍。織田軍を追って北へ向いた朝倉軍の背後へ、南から浅井軍が食い込んだ形だった。朝倉軍は、自ら織田を追い詰めるために築いた陣形の中で、今度は自分たちが逃げ場を失っていた。前後から槍が迫り、退路は泥と死体で塞がれつつあった。


 黒漆の具足をまとった軍勢によって次々と押し崩されていく朝倉の後陣を見て、景鏡は馬上で歯噛みした。伝令は戻らず、旗は倒れ、門徒勢の諸隊も動かない。指揮が、音を立てて崩れていく。馬が突然立ち上がり、景鏡は反射的に手綱を引き絞った。周囲の武者たちが「殿!」と叫ぶが、その声すら遠い。


 数十騎が槍を揃えて浅井の先鋒へ向き直った。一人、また一人と浅井兵が倒れる。それでも浅井の先鋒は止まらなかった。後続がすぐさま隙間を埋め、槍を押し進める。朝倉の武者たちは次第に押し戻されていく。


「退け……いったん退け!」


 命令は遅かった。浅井の本隊が側面から回り込み、退路をさらに狭める。朝倉兵の顔から、恐怖が消えることはなかった。逃げ道を求めて山道を駆け下りる兵、槍を捨てて跪く兵、ただ立ち尽くす兵。統制は失われていた。


 長政は馬を進め、雨に濡れた顔を上げた。懐に忍ばせていたそろばんの木玉に、指先を触れた。カチ、と小さな音が鳴った。戦場の喧噪にかき消されるほどの、かすかな音だった。


 長政の瞳には、かつての迷いがなかった。そこにあったのは怒りではなかった。怒りならば、いずれ燃え尽きる。だが、長政の胸にあるのは、それより冷たいものだった。


 城にいた頃には、ただ数字として見ていた米の俵も、今は違って見える。ひと俵の米があれば何人が腹を満たせるのか。塩が一駄届けば、どれほどの兵が幾日を凌げるのか。数字の向こうには、必ず人がいる。米一俵、塩一駄、銭一貫。それらは帳面の上の数字ではない。兵の腹となり、足となり、槍となる。一文を疎かにせぬことが、人を生かす。その一文を疎かにしなかった積み重ねが、いま五千の兵の命を支えている。


 お市が積み上げてきたものは、この山道で、確かに生きていた。帳面の上の数字が、いま、五千の兵の命となって動いていた。


 長政は再び木玉を握った。


 振り返らなかった。ただ、前だけを見た。逃げる敵を追うことより、ここで朝倉の陣を崩し切ることが先だった。


「追え。ここで逃がすな」


 浅井軍は、雨の中をさらに前へ進んだ。先鋒が押し上げ、本隊が続き、予備も山道へ繰り出していく。狭い峠道を、浅井の軍勢が確実に占めていった。


 みぞれ混じりの木ノ芽峠に、浅井軍の鬨の声が響き渡る。倒れる朝倉の旗の向こうで、浅井の旗だけが雨の中に高く翻っていた。

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