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第47話:朝倉軍の油断

第47話:朝倉軍の油断


「ふふふ……ははははっ! 押せっ、押せいっ! 織田の雑兵どもを一人残らず谷底へ叩き落とせぇっ!」


 朝倉景鏡の高慢な笑い声が、木ノ芽峠の谷合いに響き渡っていた。

 越前朝倉家の一門であり、朝倉軍の別動隊を率いる景鏡は、黒漆の具足に雨を受けながら、高台に据えた床几に腰を下ろし、扇を手にしていた。木々の間から吹き下ろす冷たい春風が、まだ寒さの抜けきらぬ山肌の残雪をわずかに舞い上げていた。谷底では、朝倉方の働きかけを受けた加賀・越前の門徒方の一揆勢が、「南無阿弥陀仏」の旗を乱立させながら、怒涛のように押し寄せていた。

 景鏡は床几に深く腰を下ろし、谷底の惨状を悠然と見下ろした。人が人を押し潰し、竹槍が突き出され、火縄銃の音が谷にこだまする。その光景は、景鏡にとってはもはや戦などではなく、勝者のためにあらかじめ用意された酒宴の余興のようなものであった。

 その門徒方の猛烈な大群を相手に、泥と血に塗れながら死力で踏みとどまっているのは、木下藤吉郎率いるわずか千余りの織田軍殿部隊であった。

 木下藤吉郎隊の兵たちは、降りしきる冷たい春の雨とみぞれの中に立ち尽くし、折れた長槍や刃こぼれした太刀を振り回しながら、必死の覚悟で門徒方の突撃を食い止めていた。だが、兵力には十数倍もの開きがある。藤吉郎隊は一人、また一人と竹槍や火縄銃の弾に倒れ、じりじりと後方へ押し込められていた。


「見たか!」


 朝倉景鏡は、その凄惨な光景を見下ろし、満足そうに口の端を歪めた。


「あの天筒山と金ヶ崎での屈辱……いまこそ見事に晴らしてくれたわ! 織田の殿が、お館の退路を守って死地に残ったようだが、もはや虫の息よ! あと一押しで全員、この谷の泥に沈もう!」


 景鏡の傍らに馬を寄せていた重臣・山崎長門守吉家が、深々と頭を下げて追従した。


「景鏡様、真にお見事にございます。織田信長めは、わずかな近習を率いて間道へ逃れた模様。……ですが、逃がしはいたしませぬ」


 山崎吉家は、北の空――一乗谷の方向を指差し、不敵な笑みを浮かべた。


「一乗谷を発った屋形様の軍勢が、木ノ芽峠の越前側を固めております。信長がどれほど悪あがきをしようと、前線の本隊と、この敦賀口の門徒方の挟み撃ちの前に、織田の命運は尽きましたぞ」


「ふふふ……ははははっ!」


 朝倉景鏡は、喉の奥で笑った。朝倉軍の将兵たちの胸を満たしていたのは、圧倒的な勝利の過信であった。彼らは、自分たちが仕掛けた挟み撃ちの罠が決まり、織田信長率いる大軍を袋の鼠へと追い詰めたと、固く信じ切っていたのだ。

 そして――朝倉軍の指揮官たちがこれほどまでに勝利を確信していた最大の理由は、ただ門徒方の数が多いからだけではなかった。

 朝倉景鏡は、手にした扇で南の空――北近江・小谷城の方角を指差し、周囲の武者たちに向かって勝ち誇ったように言い放った。


「皆の者、安心いたせ。我らには、まだ決め手がある。……浅井だ!」


 景鏡の口から出たのは、思いもよらぬ確信の言葉であった。山崎吉家が「浅井でございますか?」と問い返すと、景鏡は自負に満ちた顔で頷いた。


「そうだ。屋形様が将軍・足利義昭様にお働きかけになり、小谷の浅井へは直々に織田討伐の御内書が下されている。将軍家の御内書が届いている以上、浅井がこれを無視することはできまい。さらに屋形様は、敦賀から近江へ流れる塩と米の荷を押さえた。浅井の国人どもは今頃、塩不足と将軍様のご威光に震え上がっておるわ」


 朝倉景鏡の頭の中には、かつて朝倉義景が描いていたものと同じ見立てがあった。


(たかが織田の女一人が小谷の城へ嫁いだところで、将軍様のご命令と、塩の不足という現実の恐怖の前に、浅井の国人どもが織田につけるはずがないのだ。浅井長政めは、今頃精鋭を率いて小谷の城を出陣し、この敦賀・金ヶ崎の地へ向かって進撃しているはずだ)


 朝倉景鏡は、自分たちが仕掛けた政治的圧力と塩の経済封鎖を過信していた。さきにお市が小谷城で老臣たちの不当な横領を暴いて追放し、浅井家を当主・長政のもとで一本化してみせたという事実を、一乗谷の朝倉家はただの城内の一時的な混乱程度にしか捉えていなかったのである。

 お市という一人の姫が、銭と兵糧の流れを組み替え、浅井領内に伊勢の塩を流し込み、老臣たちの兵を当主のもとに束ねてしまったこと――それは、朝倉景鏡の想像の遥か外にあった。敦賀から近江へ流れる塩と米の荷を押さえたところで、伊勢から琵琶湖を経て塩を回しているとは、朝倉には知る由もなかった。


「浅井長政は、必ずや我が朝倉家との三代にわたる旧縁を守り、浅井軍を率いて織田軍の背後を襲うためにここへやってくる。浅井軍が南の塩津側から押し寄せれば、織田軍は三方から揉み潰されるのだ。我らは前方の織田の殿を討ち取り、浅井軍の到着を待てば良い」


「おおおっ! さすがは景鏡様! 浅井が味方として駆けつけるとなれば、我が軍の勝利は揺るぎませぬな!」


 朝倉軍の武者たちが、一斉に歓声を上げた。

 朝倉軍と門徒方の双方に、油断が広がっていた。景鏡から「浅井軍が南から来る」と伝えられていた門徒方も、南側を警戒する理由を持たなかった。浅井軍は自分たちを助けるため、織田軍の背後を襲う味方としてやってくる――彼らはそう信じていた。朝倉軍の陣立ては北側の織田の殿部隊へ兵を寄せ、南側の塩津・北近江方面への備えは薄かった。

 物見の兵の数すら、南側にはほとんど配されていなかった。景鏡の陣立てにおいて、南は「味方が来る方角」であり、警戒すべき方角ではなかったのである。南から近づく軍勢があっても、物見たちは浅井軍が予定より遅れて到着したものと考え、景鏡へ急ぎ報せる必要はないと判断していた。


――しかし、その頃。


 南の塩津から木ノ芽峠の背後へと向かって進撃を試みていた浅井長政率いる五千の軍勢は、予期せぬ難所に直面していた。

 塩津の港を発ち、険しい山道へと足を踏み入れた浅井軍。冬の名残を含んだ冷たい春の雨が山道に降り注ぎ、雨を吸った土は深いぬかるみと化していた。さらに、何者かによって倒された木々や、崩された岩によって、山道の一部が塞がれていた。

 どすんっ、どすんっ――。

 浅井軍の後陣で、兵糧を積んだ荷車の車輪が、ぬかるんだ泥の底深くにはまり込み、曳いていた足軽たちが荒い吐息を漏らして立ち往生してしまった。車輪は泥に呑まれ、押しても引いても、ぬかるみが車輪を離さない。足軽の一人が力任せに車を押すと、足首まで泥に沈み、草鞋が抜けなくなった。


「押せ! ええい、動かんぞ!」

「これ以上力を入れれば、車輪の軸が折れまする!」


 怒鳴り合う声が、雨に濡れた山道に虚しく響いた。


「当主様! 大変にございます! 後陣の荷車が泥に取られ、進軍が大きく遅れております。このままでは……藤吉郎隊が持ちこたえると見込んだ刻限までに、木ノ芽峠の背後へ到達することができませぬ!」


 阿閉淡路守貞征が、冷や汗を流しながら馬上から叫んだ。

 浅井軍の参戦は、全てが順風満帆に進んでいたわけではなかった。冷たい雨と崩れた土砂という、戦場の生々しい試練。長政とお市が描いていた「塩津からの急襲」という手堅い計画に、一時、冷や汗を握るような大きな狂いが生じたのである。

 もし到着が遅れれば、木下藤吉郎隊は完全に持ちこたえることができず、織田信長も越前の山中で逃げ場を失ってしまう。浅井軍の将兵の間に、一瞬にして焦燥と動揺が走り抜けた。誰もが黙って泥の中の荷車を見つめ、誰も口を開かなかった。この一台の車の遅れが、遠く木ノ芽峠の谷で戦う千余りの命運を左右することを、誰もが知っていたからだ。

 しかし――馬上にある当主・浅井長政は、動じることなく、冷徹に判断を下した。


「焦るな、阿閉殿。車が泥に取られたのなら……捨て置けば良いのだ」


「えっ!? 兵糧車を捨て置くのでございますか!?」


 新庄駿河守直頼が目を見開くと、長政は太刀を鞘の上から力強く握り締め、言い放った。


「我らが狙うは長陣ではない。木ノ芽峠で油断し切っている朝倉と門徒方の背後を突く、一撃の強襲だ。重い荷車はここに留め置き、後陣の兵にも車を捨てさせよ。兵糧が足りずとも、この一戦さえ制すれば良い。荷駄を捨て、必要な兵具だけを携え、徒歩にてこのぬかるみを駆け抜けるのだ」


 長政は、迷いなく判断を切り替えた。

 お市から幾度となく聞かされた言葉が、長政の胸に浮かんだ。

 物は、使うべき時に使う。捨てるべき時には捨てる。

 今、惜しむべきは兵糧ではない。一刻の遅れだった。

 なお、長政は信長の逃走路とは別の山道を選んでいた。信長を追うのではなく、木ノ芽峠に残る藤吉郎隊を救う――その目的だけを見据えていた。


「兵ども、車を引く手を離せ! 当主長政様に続けぇっ!」


「おおおおおっー!」


 重い荷を捨てた浅井軍五千は、ぬかるんだ山道を急いだ。足を取られて転ぶ者もいたが、後ろの者が肩を掴んで引き起こす。具足を泥に汚しながら、兵たちはひたすら峠の背後を目指した。


 その頃。木ノ芽峠のぬかるんだ谷口。

 血と泥が飛び散る中で、木下藤吉郎は自ら長槍を振るい、押し寄せる門徒方の竹槍を弾き飛ばしていた。額から流れる血が目に入り、藤吉郎の甲冑は敵味方の返り血と泥で黒く汚れていた。両脇で戦う蜂須賀小六や足軽たちが、息を荒らげて叫んだ。


「藤吉郎殿! もう持ちませぬっ! 敵の数が多すぎまする! これ以上は持ちませぬっ!」


「黙れぇっ!」


 木下藤吉郎は目を血走らせ、泥を吐き捨てるようにして怒号を返した。


「退くなっ! 一歩も退くなあっ! お館様は、ただいま近江へお抜けになっておられる。我らがここで倒れれば、お館様が背後から討ち取られてしまうぞっ!」


 藤吉郎は、血と汗に塗れた顔を拭い、荒い呼吸を整えながら、南の山並み――塩津へ続く街道の向こうを見据えた。藤吉郎の胸にも、死への恐怖がないわけではなかった。だが、それ以上に強いものがあった。あの姫様ならば、必ず長政様を動かしておられる――そう信じている信頼と、浅井長政という男に対する、命を賭した信頼であった。


(お市様……! 浅井長政様……! 頼みますぞ……! お二人が、あの岐阜で交わされた誓いを違えるはずはない。必ずや……必ずや救援に来てくださると、この藤吉郎、信じておりますぞっ!)


 木下藤吉郎の命を賭した叫び。藤吉郎隊の足軽たちは、藤吉郎の執念に打たれ、倒れかけながらも再び長槍を突き出し、激しい悲鳴を上げて敵の濁流を押し返し続けた。押される。踏みとどまる。また押される。その繰り返しの中で、隊列は着実に薄くなっていった。千余りいた兵も、すでに半数近くまで減っていた。それでも、誰も退かなかった。


 朝倉景鏡は、木下藤吉郎隊の驚異的な粘りにイラつき、太刀を抜いて叫んだ。


「ええい、しぶとい男めが! 浅井軍が到着する前に、織田の殿を討ち取れ! 前列を押し出せ!」


 朝倉軍の別動隊が、前方への圧力を強めた。兵が次々と前へ引き寄せられ、南側の備えが薄くなった、まさにその瞬間であった。


 突如として――。

 吹き荒れる木ノ芽峠の南側――塩津から続く深い山林の奥から、不気味な異変が湧き起こった。

 朝倉景鏡が跨がる栗毛の馬が、突然ぶるりと首を振り、耳を立て、前脚で地面を掻き、落ち着きなく嘶き始めたのだ。景鏡は不審そうに手綱を引き絞り、馬の首を撫でた。


「どうした……? 何を怯えているのだ……?」


 次の瞬間、山林の静寂を切り裂いて、地鳴りのような足音が届き始めた。


 ざっ……ざっ……ざっ……ざっ……!


 それは、雨に濡れた山道を踏みしめる無数の足音であり、甲冑が擦れ合う、冷たく硬い金属の響きであった。雨と霧が視界を奪っていた。南から近づく軍勢を、物見たちは浅井軍だと思い込んでいる。そのため、景鏡のもとへ急ぎ報せることもなかった。


 山崎吉家がハッと振り返り、南の山道を注視した。


「景鏡様……! 南の山道より、何者かが近づいてまいります! 凄まじい足音にございますぞ!」


 朝倉景鏡は、安堵の笑みを浮かべた。


「ハハハ! 来たか! 浅井長政め、ようやく到着したか。遅いぞ、浅井の小僧め。待ちくたびれたわ」


 朝倉景鏡は、己の破滅がすぐ後ろまで迫っていることなど微塵も気づかず、意気揚々と馬首を南へと向けた。そして、山林の暗がりから姿を現すであろう味方の浅井軍を迎え入れるため、高慢な笑みを口元に浮かべたのだ。


 しかし――山林の木々を押し分けて姿を現したその軍勢の先頭には、景鏡が待ち望んでいた浅井軍の姿はなかった。

 南の山道から姿を現した、黒漆の甲冑で身を固めた五千の武者たち。泥に汚れ、雨に打たれながらも、その足取りに一切の乱れはなかった。その中央に高く掲げられていたのは、浅井家の旗印であった。

 そして、その旗印の直下に立つ、栗毛の馬に跨がった若き当主・浅井長政の瞳には、かつての迷いがなかった。朝倉義景や景鏡に向ける情は、そこにはない。ただ、不義の敵を討つための鋭い光だけが宿っていた。

 朝倉景鏡の顔から、高慢な笑みが一瞬にして凍りついた。

 前には藤吉郎隊。

 背後には浅井軍。

 朝倉軍は、自ら作った死地の中央に立たされていた。 

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