第46話:織田軍絶体絶命
第46話:織田軍絶体絶命
木ノ芽峠の険しい山道を、春まだ浅い北風が激しく吹き抜けていた。
冬の名残を含んだ風は冷たく、山肌に残る雪を撫で、木々の枝を鳴らしながら谷間へと吹き下ろしてくる。空は低く垂れ込め、細かな雨にみぞれが混じっていた。白い粒が時折、兵たちの兜や肩へ落ちては、黒ずんだ具足の上で静かに溶けていく。
越前敦賀から一乗谷へと至る北国街道の難所・木ノ芽峠。古くから幾度となく人馬の往来を阻んできた峠道は、雨に濡れて黒く光っていた。両側から切り立った岩壁と山肌が迫り、ところどころでは馬がすれ違うことさえ難しいほど道幅が狭まっている。足元には雨水が流れ、溝となった轍には泥が深く溜まっていた。人が一歩踏み出すたび草鞋が泥へ沈み、馬が蹄を下ろすたびぬかるんだ土がぐしゃりと音を立てる。荷駄を曳く人足たちは、足を取られぬよう身体を低くし、肩へ力を込めて綱を引いていた。
その険しい山道を、織田軍は長い列となって進んでいた。天筒山と金ヶ崎の二つの要害を破竹の勢いで落とした織田弾正忠信長率いる尾張・美濃の大軍である。大軍とはいえ、これほど狭い峠道ではその数がそのまま力になるわけではない。先頭が進んでも後方の兵が同じ速さで動けるとは限らず、道が曲がれば列は滞り、荷駄が止まれば後続も止まる。それでも織田軍は進んでいた。長い蛇のような隊列が山肌に沿って伸び、その先頭はすでに峠の奥へ入り込んでいる。後方には、まだ敦賀方面から続く兵と荷駄の列が残っていた。
先陣を切るのは、「鬼柴田」こと柴田権六勝家、そして丹羽五郎左衛門長秀ら織田軍の主力部隊であった。柴田勝家は時折馬上から後方を振り返り、長く伸びた隊列を確かめていた。その眼差しに油断はない。だが、敵の姿もまた見えなかった。山は静かで、聞こえるのは風の音、雨の音、馬の鼻息、そして無数の足が泥を踏む音ばかり。その静けさこそが、かえって不気味だった。
さきにお市と信長との間で交わされた起請文に基づき、浅井領の今浜や塩津から琵琶湖の船によって運ばれ、陸揚げされた兵糧と玉薬が、織田軍の進撃を支えていた。米、味噌、塩、そして鉄砲に用いる玉薬。浅井領から琵琶湖を経て運ばれた物資は、敦賀方面へ送り出され、織田軍の兵站を大きく支えていた。それまでなら、越前深くへ兵を進めるほど兵糧の不足が軍勢の足を鈍らせる。だが今は違った。浅井領からの兵糧補給によって補給の憂いを大きく減らした織田軍は、勢いに乗じて越前深くまで軍を進めていた。勝てる――そう考える者が多かった。少なくとも、兵たちの顔には敗軍の陰はなかった。天筒山を落とし、金ヶ崎を落とした。敵の要害を相次いで破り、朝倉方を押し込んでいる。このまま一乗谷へ進み、朝倉義景を討つ。それが、彼らの目の前にある勝利の道筋だった。
長い列をなして山道を進む足軽たちの手には、火縄銃や長槍が握られていた。雨に濡れた火縄銃を兵たちは布で覆い、火縄が湿らぬよう細心の注意を払っている。人足や駄馬によって運ばれる兵糧米の俵は、泥に足を取られながら、重々しい音を立てて進んでいた。時折、駄馬が足を滑らせる。
「おい、気をつけろ!」
人足が声を上げ、荷を支える。それでも、隊列は止まらない。止まることそのものが危険だからだ。
軍勢の中央で馬上から指揮を執る織田信長は、黒漆の具足に冷たい雨を受けながら、鋭い眼光で前方の白い山肌を見据えていた。兜の縁から落ちた雨滴が頬を伝って顎へ落ちる。信長はそれを拭おうともせず、前を見ていた。その周囲には、明智十兵衛光秀や、足軽衆を率いる木下藤吉郎らが馬を並べ、整然と進軍を続けていた。明智光秀は時折周囲の山肌へ目を向けていた。木々の間、岩陰、山道の先。どこにも敵影はない。だが、光秀ほどの男ならば、この静けさが完全な安心を意味しないことも理解していた。それでも、今のところ異変を知らせる報せはない。
信長軍の誰もが、このまま木ノ芽峠を越え、一乗谷の朝倉義景を討ち取ることができると信じていた。信長自身もまた、そう考えていた。北近江の浅井長政が背後を固めている。浅井家とは、もはや単なる縁戚ではない。起請文を交わし、兵糧を融通し、水運を通じて軍勢を支えている。浅井長政は、少なくとも今は、織田家との盟約を自らの意思で守っている。信長はその事実を信じていた。だからこそ、何の疑いもなく、ひたすら軍を前へ進めていたのだ。
しかし、その信長の進撃の早さゆえの隙を、越前の暗がりで爪を研いでいた敵が見逃すはずはなかった。山は沈黙していた。あまりにも静かだった。そして、その静寂が――突然、破られた。
ずどおん。ずどおん。ずどおん。
山肌を震わせる轟音が、後方から連続して響いた。突如として、織田軍の最後尾――金ヶ崎から木ノ芽峠へ続く山道の後方から、木々の陰を抜けて幾十挺もの火縄銃が一斉に火を噴いた。銃声は狭い谷間に反響し、一発の音が二つにも三つにも聞こえた。馬が驚いて嘶き、荷駄が止まり、兵たちが一斉に振り返った。雨とみぞれの混ざり合う深い山林から、黒々とした影が一斉に飛び出してきたのだ。
「敵だ!」
誰かが叫んだ。だが、その声を掻き消すように、別の声が山中から湧き上がった。
「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」
低く、重く、幾重にも重なった念仏の声だった。それは一人の声ではない。十人でもない。数え切れぬほどの人間が、一斉に唱えている。
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
「仏敵・織田信長を討ち取れえ!」
地鳴りのごとき念仏の唱和が、山々を激しく震わせた。「南無阿弥陀仏」と記した旗が、雨風の中で激しく翻る。刀槍を手にした者、火縄銃を構える者、泥にまみれた蓑をまとった者。それぞれ姿も装備も異なる者たちが、山道へ押し寄せてくる。朝倉方の働きかけを受けた加賀・越前の門徒方の有力者たちが、各地から集めた一揆勢であった。彼らは朝倉家の兵そのものではない。だが、朝倉方からの働きかけと金子を受け、織田軍を討つために動き出していた。そして、その背後からは、朝倉景鏡率いる朝倉軍の別動隊が、隊列を広げながら押し寄せてきた。朝倉軍の旗が雨の向こうに次々と現れる。その数は、まだ正確には見えない。しかし、敵が門徒方だけではないことは明らかだった。
門徒方と朝倉別動隊は、敦賀へ戻る道を力づくで押さえ、織田軍の後方と糧道を断ち切った。これまで織田軍を支えていた兵糧の道が、ここで断たれた。前へ進むことも容易ではない。後ろへ戻ることもできない。そして同時に、前方の越前側からは、朝倉義景本隊が山道を塞ぐようにして立ちはだかったのだ。まるで巨大な蓋を、前後から閉じられたようだった。
「報せ!」
後方から駆けてきた伝令が、息を切らせながら叫んだ。
「報せえ! 後方の山道にて、加賀・越前の門徒方が蜂起! 敦賀への退路と糧道が断たれました!」
別の伝令が続く。
「前方の越前側にも、朝倉義景本隊が陣を張り、道を塞いでございます!」
その報せが、本陣へ飛び込んだ。一瞬、誰も言葉を発さなかった。風の音だけが聞こえた。次の瞬間、織田軍の各所で怒号が上がった。
「挟み撃ちだ! 我らは挟み撃ちにされたのだぞ!」
「退路が断たれた! 後続の兵糧も届かぬ!」
「前後を朝倉と門徒方に挟まれた!」
それまで整然と進んでいた列が、一気に乱れ始めた。兵たちは足を取られた。前へ進もうにも前方の兵が止まっており、後ろへ戻ろうにも後方から敵が押し寄せてくる。狭く険しい一本道。そこへ大軍が密集している。陣形は細長く伸び切り、前線と後方の連絡は途絶え、武者たちは足を泥に取られ、思うように身動きが取れない。誰かが倒れれば後ろの兵がそれを避けようとしてさらに列を乱し、馬が暴れれば荷駄が止まり、荷駄が止まればさらに後方の兵が詰まる。大軍であることが、かえって災いとなっていた。まさに織田信長が死地に追い込まれた瞬間だった。金ヶ崎から始まった撤退戦は、朝倉と門徒方の謀略によって、織田軍の生死を分ける死地へと変わったのである。
信長の本陣。馬上の信長は、後方から聞こえる門徒方の地鳴りのごとき念仏の声と銃声を聞いていた。その顔から、先ほどまでの余裕は消えている。怒り、驚き、そして戦場を冷静に見極めようとする鋭い判断。信長の漆黒の瞳に、激しい殺気が走った。
「門徒方どもめ。朝倉義景と通じ、この狭い山道で余を袋の鼠にする気か」
怒声ではなかった。むしろ低い。その低さが、周囲にいる者たちには恐ろしく響いた。信長は、すでに理解していた。この狭い木ノ芽峠で前後を挟まれたまま留まれば、長くは持たない。兵糧が尽き、馬が疲弊し、兵たちの統制が崩れる。そして一度崩れた大軍は、この狭い山道では立て直すことができない。戦場そのものが、織田軍を呑み込もうとしていた。信長が生き残り、天下への道を絶やさぬためには、すぐさまこの死地を脱しなければならない。そのためには、全軍を一度に動かすのではなく、まず中核となる部隊を近江へ抜く必要がある。そして――誰かが残らなければならない。前後の敵を抑え、信長本隊を逃がすためには、誰かが命を捨ててこの死地の最後尾に残り、敵の追撃を食い止める「殿」を務めねばならなかった。
殿。それは、ただ後ろに残るだけの役目ではない。味方が退く時間を稼ぐため、自ら敵の前へ立つ。敵の圧力が増せばそのたびに下がる。しかし下がりすぎれば本隊へ敵が追いつき、踏みとどまりすぎれば自らが包囲される。その境目を見極めながら、味方が逃げ切るまで戦い続ける。命を捨てる覚悟がなければ務まらない役目だった。柴田勝家や丹羽長秀ら重臣たちも、互いに顔を見合わせた。誰もが、その役目の重さを知っていた。
その時であった。
「お館様。この木下藤吉郎にお命じくだされ」
声がした。信長が振り向く。藤吉郎は馬を降り、泥にまみれながら信長の馬前へ駆け寄った。先ほどまで馬上にいたとは思えぬほど、全身が泥に汚れている。雨に濡れた髪、泥のついた頬。それでも、その目だけは異様なほど鋭かった。藤吉郎はその場にひれ伏し、目を血走らせて叫んだ。
「お館様。殿の役目、この藤吉郎が引き受けまする!
お館様は、直ちにわずかな手勢とともに近江へお抜けくだされ。この藤吉郎が、命に代えて朝倉と門徒方の軍をここで食い止めてみせまする!」
その言葉に、周囲の武将たちが息を呑んだ。藤吉郎が引き受けようとしている役目の意味を、誰もが理解している。信長はしばらく何も言わなかった。やがて低い声で尋ねた。
「藤吉郎。お前、正気か。
朝倉と門徒方を相手に殿を務めるなど、死にに行くようなものだぞ」
藤吉郎は顔を上げた。そこに迷いはなかった。
「承知しておりまする。
されど、お館様をお逃がしするためならば、この命、惜しくはございませぬ」
信長の目が細くなる。藤吉郎は続けた。
「死にはいたしませぬ。
お館様、お忘れですか。北近江には、お市様と浅井長政様がおられます。
すでに塩津から浅井軍が木ノ芽峠方面へ向かったとの報せも届いております。浅井様が、必ずや救援に駆けつけてくださるはず。
浅井軍が届くまでの間、この藤吉郎、一歩も退かずに持ちこたえて見せまする」
それは、ただの願望ではなかった。お市が浅井家を変えた。長政が自らの意思で家中を率いるようになった。そして今、浅井軍は塩津から木ノ芽峠方面へ向かっている。藤吉郎は、そのすべてを信じていた。木下藤吉郎の言葉には、お市と浅井長政への揺るぎない信頼があった。信長は藤吉郎の顔を食い入るように見つめた。この男が本当に戻ってこられる保証などない。だが、戦場では保証など存在しない。生き残るためには、決断しなければならない。やがて信長は、腹の底から響く重々しい声で言い放った。
「分かった。
藤吉郎、殿を任せる。
死ぬなよ、藤吉郎」
「ははっ。お館様、ご武運を」
藤吉郎は深く頭を下げた。信長は馬首を巡らせた。「行くぞ!」柴田勝家や明智光秀ら側近の武将と少数の手勢が、それに続く。信長は先に遣わしていた斥候に道を示させながら、山腹を通る細い間道へと馬首を向けた。正面の大道ではない。山肌に沿って続く、人馬がようやく通れるほどの細い道。そこを使って近江へ抜ける。危険な道だった。だが、今はそれしかない。信長は一度だけ振り返った。雨とみぞれの向こう。そこには藤吉郎がいた。泥にまみれた身体で、槍を握り、こちらを見ている。信長は何も言わなかった。ただ馬首を返し、近江へ向けて決死の脱出を開始した。その背中が雨煙の向こうへ消えていく。
残されたのは、木下藤吉郎率いる、千余りの決死の殿部隊であった。藤吉郎は周囲を見渡した。兵たちの顔には疲労が浮かんでいる。恐怖もある。だが、逃げることはできない。
「荷駄を寄せろ!
道を塞げ!
少しでも敵の足を止めるのだ!」
藤吉郎が叫んだ。蜂須賀小六ら藤吉郎の手勢が一斉に動いた。荷駄を道脇へ寄せ、倒木を引きずり、木材を集める。そして、泥に足を取られながら、それらを組み合わせて急ごしらえの柵を築いていく。簡素なものだった。これで大軍を防げるわけではない。それでも、敵の進む速度を少しでも鈍らせることができればいい。その数瞬、その数歩が、信長を逃がす時間になる。
やがて、山の向こうから再び声が聞こえた。
「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」
念仏の声が近づいてくる。それに重なるように、朝倉軍の旗が雨煙の向こうに現れた。そこへ、織田軍を追い詰めんとする門徒方と、朝倉景鏡率いる朝倉軍が、怒涛のように襲いかかってきた。
「南無阿弥陀仏。織田の首を挙げよ!」
「織田の殿を討ち取れえ!」
敵の声が山肌を震わせる。
「押せ!
押し返せえ!」
藤吉郎は自ら槍を握り締めた。泥が跳ね、血が飛び、雨がすべてを洗い流そうとしている。それでも戦場からは、血の臭いが消えなかった。
「お館様をお逃がし申せ!
浅井様が……浅井軍が救援に来てくださるまで、一歩も退かず、ここを守り抜いてみせまする!」
「おおっ!」
兵たちが応じた。その声は、先ほどまでの恐怖に震える声とは違っていた。目の前にやるべきことが定まった者たちの声だった。敵が迫る。槍が突き出される。刀が打ち合わされる。鉄と鉄がぶつかり、鋭い音が山中に響いた。続いて銃声が轟く。狭い山道は、怒号と銃声の渦に呑まれた。火縄銃の煙が雨の中に白く漂う。敵味方の姿が、その煙の向こうで見え隠れする。
木下藤吉郎隊は、押し寄せる圧倒的な敵勢の前に、一人、また一人と倒されていった。「怯むな!
ここを抜かせるな!」
藤吉郎は槍を振るいながら叫び続ける。だが、敵の数は多い。一人倒れればその場所を別の兵が埋め、その兵も倒れればまた別の者が前へ出る。織田軍の殿部隊は、まるで大波を前にした杭のように、押され、揺さぶられ、それでも踏みとどまっていた。じりじりと後方へ押し込まれていく。泥の中へ足が沈む。甲冑が重い。息が苦しい。それでも、退くしかない。退かなければ敵に包囲され、退きすぎれば信長に追いつかれる。そのぎりぎりの線を、藤吉郎は必死に見極めていた。
兵たちの吐く息は白い。雨に濡れた髪が顔へ張りつく。槍を握る手には、泥と血がこびりついている。誰もが疲れていた。誰もが怖かった。それでも、誰一人として持ち場を捨てなかった。織田軍を襲った死地。その中心に、木下藤吉郎は立っていた。決死の殿を務める木下藤吉郎隊の陣は、じりじりと後退を余儀なくされていた。だが、その一歩一歩の後退こそが、信長を近江へ逃がすための時間だった。敵が一歩進む。藤吉郎たちは一歩退く。そして再び踏みとどまる。戦場の時間は、異様なほど長く感じられた。遠くではまだ銃声が響き、山の向こうからは念仏の声が聞こえる。雨は降り続き、風も止まない。
それでも――。藤吉郎は槍を握ったまま、前を見ていた。そして、ふと顔を上げる。雨煙の向こう。南の空。そこに浅井軍の姿はまだない。だが、来る。藤吉郎はそう信じていた。お市が変えた浅井家ならば。長政が自ら選んだ道ならば。必ず来る。藤吉郎は血と泥を拭った。そして再び槍を構えた。
「まだだ……まだ、終わっておらぬぞ」
次の瞬間、再び敵の鬨の声が上がった。
「南無阿弥陀仏!」
藤吉郎も槍を握り直す。
「来い!」
雨煙の向こうから、敵が押し寄せる。木ノ芽峠の険しい谷合いに、凄惨な死の影がどこまでも深く覆いかぶさっていた。しかし、その死地のさらに南。冷たい雨の向こうでは――浅井長政率いる軍勢が、確かにこちらへ向かっていた。藤吉郎はその姿をまだ見ることができない。それでも、南の空から目を逸らさなかった。やがて必ず、あの旗が見える。その時まで、この場所を守る。藤吉郎は鋭い眼光で、冷たい雨煙の向こう、南の空を見つめ続けていた。




