第45話:小谷城出陣
第45話:塩津出陣
春まだ浅い冷たい北風が、琵琶湖北岸の塩津に張り巡らされた陣幕を激しく揺らしていた。
波打ち際に押し寄せる湖北の荒波と、出陣を控えた武者たちの甲冑や武具が触れ合う音が、静かな港に重なっていた。
小谷城を発った浅井軍は、兵をいくつかの船団に分け、荷駄や兵糧を別船に載せて湖上を北へ進み、塩津へ入った。浅井新九郎長政率いる五千の軍勢である。
長政は、妻・お市から届いた密書によって小谷城内に残っていた禍根が断たれたことを知ると、直ちに出陣の支度を命じた。敦賀方面へ差し向けていた斥候が戻り、道筋に朝倉方の兵が動く気配は見られぬとの報せが届いた。長政はその報告を受け、翌朝の出陣を決めた。
港の船着き場では、湖船から、美濃や伊勢から届いた兵糧米の俵や、鉄砲の玉薬を納めた荷が、手際よく陸揚げされていた。
荷を運ぶ人足や足軽たちの荒い吐息と、車輪が湿った土を踏みしだく重々しい音が、塩津の港に途切れることなく響き渡っている。
お市の手によって老臣たちの不当な横領が暴かれ、手配された兵糧も滞りなく届いていた。当主直属の兵たちは腹を満たし、具足や武具を改め、出陣に備えていた。長槍の穂先を改め、柄の具合を確かめていた者も多い。
阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、野村肥後守定元、浅井新次郎教政ら、近江の国人領主や一族の諸将もまた、陣頭に立って手勢の甲冑の紐を締め直し、陣形を整えていた。
阿閉貞征は自らの黒漆の胴丸を指先で確かめ、隣の新庄直頼に向かって語りかけた。
「新庄殿、ご覧くだされ。……以前とは、兵たちの顔つきが違いますな」
新庄直頼もまた、深く頷き、力強く太刀の柄を握りしめた。
「然り。兵糧が行き渡れば、武者の働きも変わりまする。見違えるようでございますな」
兵たちの間には、かつて老臣どもが家中を専横していた頃にはなかった安堵と、長政のもとで浅井の国を守るという気概が広がっていた。
一方、その頃。越前一乗谷の朝倉館の奥御殿。
敦賀の金ヶ崎城と天筒山城が織田信長率いる大軍によって相次いで落とされた報せを受け、朝倉館の内部では凄まじい緊張感と戦準備が進められていた。
当主・朝倉左衛門督義景は、手にした盃を膝元へ置き、重臣の朝倉式部大輔景鏡や山崎長門守吉家らを前に、軍略を命じていた。
「景鏡、吉家。織田信長め、天筒山と金ヶ崎を落とした勢いに乗り、無警戒に木ノ芽峠の狭い山道へなだれ込んでくるはずだ。……奴らが木ノ芽峠へ深入りするこの隙を逃すな」
朝倉義景の口元に、暗い不敵な笑みが浮かんだ。
「直ちに、加賀・越前の門徒方へ密使を立て、書状と金子を送れ。木ノ芽峠へ通じる山道を脅かさせよ。織田軍の前には我が朝倉勢を置き、退路には門徒衆を差し向け、信長の軍を越前の山中へ足止めしてやるわ」
「ははっ、直ちに門徒衆を動かしまする」
朝倉景鏡が深々と頭を下げ、影のように部屋を辞していった。
越前や加賀の各地では、朝倉方の働きかけを受けた門徒方の有力者が、ひそかに武具や鉄砲を集め、木ノ芽峠の周辺へと動き始めていた。
義景は、浅井長政が動くことを疑っていなかった。朝倉から流された金子や将軍の御内書に縛られ、必ずや朝倉の味方として織田の背後を襲う――そう信じ切っていたのだ。
春の澄み切った朝陽が、塩津の港を金色に染めていた。
塩津の本陣前には、手入れを終えた具足を身に纏った、浅井軍五千の武者たちが、陣形を整えて立ち並んでいた。
兵たちが手にする長槍の穂先は、朝陽を浴びて鋭い銀色の光を放ち、浅井家の旗印が、出陣の寒風に力強くはためいている。
本陣の陣幕が静かに押し開かれ、当主・浅井新九郎長政が姿を現した。
長政は黒漆の具足を身にまとい、腰に太刀を帯び、引かれてきた栗毛の馬の脇へと歩み寄った。
長政の胸元には、小谷を発つ前にお市から渡された小さな守り袋があった。その中には、算具から外した木玉が一つ納められている。
長政は馬に跨がると、手綱を引き絞り、眼前に居並ぶ諸隊を見渡した。
陣中が、水を打ったように静まり返った。
各隊の武者たちが、馬上の長政を見つめた。
長政は太刀の柄に手を当て、力強く朗々とした声を張り上げた。
「浅井の武者ども、良く聞けい」
長政の言葉を受け、近習たちが駆け回り、その言葉を各隊へ伝えていった。
「さきに我が浅井の家を食い荒らし、朝倉から流された金子に目が眩み、浅井家を朝倉の意に従わせようとしていた不忠の老臣どもは、小谷の大評定において叩き潰された。我らはもはや、朝倉の金子や塩に頼らねば立ち行かぬ家ではない」
長政は馬上で胸を張り、力強く続けた。
「我が浅井家は、もはや朝倉に頼らずとも兵糧を備え、兵を養える。織田家との盟約もまた、我ら自身の意志で結んだものだ。我らが本日ここに集いしは、朝倉の顔色を窺うためではない。浅井の武威を示し、我ら自身の手で浅井の行く末を切り開くためである」
前列に控える阿閉や新庄の表情が引き締まった。
長政は太刀を鞘から一気に引き抜き、敦賀方面――木ノ芽峠へ続く山並みへ向けて、力強く掲げてみせた。
「朝倉義景は、我が浅井が金子に縛られ、今も朝倉の言いなりになって織田殿を背後から襲うと高を括っている。そして、門徒衆を使って、織田軍の退路を断ち、挟み撃ちにしようと企んでいるのだ。……だが」
長政の声が、地鳴りのごとき迫力を帯びた。
「我らが狙うは、織田軍の背後ではない。織田殿の退路を絶とうと迫る者どもの背後である。敵が退路を断とうとするなら、その背後を断つ。織田軍を挟もうとする朝倉勢と門徒方。そのさらに後ろへ回り、敵の退路を断つのだ」
長政は太刀を敦賀方面の山並みへ向けて一気に振り下ろし、声の限りに叫んだ。
「全軍、進めい! 浅井の誇りを示せ!」
「おおおおおっ! 応!」
あちこちで槍が掲げられ、鬨の声が重なった。鬨の声が塩津の港に響き渡った。
長政は栗毛の馬を進めた。阿閉貞征、新庄直頼らがこれに続き、諸隊が次々と動き始めた。
荷車の列は諸隊の後ろに続き、精鋭兵に護られながら街道筋へと進み出た。
浅井長政率いる五千の軍勢は、木ノ芽峠方面へと軍を進めていった。
一方、その頃。北近江・小谷城。
春の澄み切った陽光が注ぐ本丸の物見櫓の上に、お市は静かにたたずんでいた。
吹き抜ける冷たい山風が、朱色の小袖の裾と、高く結い上げた黒髪を優しく揺らしている。
お市の傍らには、侍女・すずと、木剣を脇に抱えた数え年五歳の万福丸の姿があった。幼い茶々は奥で乳母に預けられていた。
お市は小袖の懐に手を当て、長政から出陣前に渡された守り刀と、手の中にある木玉の触感を確かめた。
お市の胸には、前世から抱えてきた記憶と、妻として、母として夫と子を案じる心が重なっていた。
(長政様……。城内に残っていた禍根は、もう断ちました)
お市は、遠く敦賀方面の山並み――長政が出陣していった塩津と木ノ芽峠の方角を見つめた。
未来の記憶だけに頼らず、確かな報せと算用によって備えを積み上げてきた。何より、互いを信じ抜く夫・長政との絆がある。
お市は自らの手で老臣たちを退け、織田家との盟を固めた。そして長政は、自らの意志で家中を率いる力を取り戻した。
長政は自ら選んだ道を、もう迷わず進んでいる。
織田家と固く盟を結び、家臣の信頼を得つつある、浅井の当主として戦場へ向かったのだ。
(どうか、存分にあなたの力を示してきてくださいませ)
お市の手の中で、木玉が小さく硬い音を立てた。
万福丸がお市の小袖の裾を小さな手で引っ張り、明るい声で微笑みかけた。
「母上、父上は朝倉と戦いに行ったんだよね。俺も、父上みたいに強くなるんだ」
「ええ、万福丸様。父上は、とても強く、頼もしいお方ですよ」
お市は万福丸の頭を優しく撫で、万福丸の手を強く握りしめた。
万福丸が嬉しそうに頷いた。
遠く北の空へ向かって、春の澄んだ雲がゆったりと流れていく。
物見櫓を吹き抜ける冷たい山風だけが、静寂を撫でていた。




