第44話:塩津の夜、誓いを胸に
第44話:塩津の夜、誓いを胸に
春とはいえ冷ややかな北風が、琵琶湖北岸の塩津の港に張り巡らされた浅井軍の陣幕を激しく揺らしていた。
湖面から吹き寄せる荒波の音が響き、夜気は陣幕の厚い麻布を激しく打ち叩いていた。闇の向こうには、明日向かう越前境の山々が黒々と横たわっている。
さきに小谷の城を発ち、百艘を超える丸子船を中心とした舟団に兵を分乗させて琵琶湖を北上した浅井長政率いる精鋭五千の軍勢は、この塩津の地に無事着岸を果たしていた。湖岸には、兵糧と武具を揚げ終えた丸子船が、列をなして繋がれていた。明朝の進軍を控え、静かに息を潜めていた。
港沿いに立ち並ぶ陣幕のあちこちからは、かがり火に照らされた煙が夜空へ立ち上り、出陣を明日に控えた武者たちが、太刀の刃を改め、甲冑の小札や緒を確かめる音だけが重々しく漂っていた。
本陣の大きな幕舎の内。
かがり火の揺れる火影が、甲冑の胸当てを脱ぎ、浅黄色の小袖姿となった長政を浮かび上がらせていた。
文机の上には『北近江・越前境絵図』が大きく広げられ、その端には、小谷を発つ折にお市から手渡された、小さな和紙の袋がそっと置かれていた。
和紙の袋の中には、お市が肌身離さず携えていた算具から外した、一粒の木玉が大切に納められている。お市もまた、同じ算具からもう一粒を外し、自らの懐に忍ばせていた。
長政はその袋を指先でそっと撫で、木玉の冷ややかな手触りを確かめながら、小谷の城に残してきた妻・お市の面影を思い浮かべていた。
そこへ、陣幕の外から急ぎ足の重々しい足音が近づいてきた。
「当主様、お市様より、急使が参っております」
長政は顔を上げ、すぐに武者を招き入れた。
「入れよ」
陣幕が開かれ、小谷から街道を夜を徹して駆け続けてきた当主直属の武者が入ってきた。
武者は泥と汗に塗れた羽織を乱しながら深くひれ伏すと、懐から一本の漆塗りの竹筒を取り出して捧げ持った。
竹筒の封印には、お市の印が鮮やかに押されていた。
長政は小刀の刃先で封を切り、中に納められていた上質な越前紙に認められた一通の文を取り出すと、かがり火の光に寄せて広げた。
そこに躍っていたのは、一字一行に揺らぎのない、端正な墨跡であった。
『長政様。あなた様が五千の兵を率いて塩津へ向かわれた隙を突き、追放された赤尾・海北両家の旧臣どもが、朝倉の名を記した書状を携え、夜陰に乗じて奥御殿への侵入を試みました。
……ですが、ご安心くださいませ。城下の油問屋・大野屋や北国街道の馬方、関所の小役人たちから日頃より集め置いていた報せを改めて照らし合わせましたところ、不審な人の出入りや文の動きが、いくつか重なって見えてまいりました。
出陣に加えず、奥御殿の警固として残しておいた当主直属兵により、要所を固めさせ、退路を断ったうえで侵入者二十余名を捕らえ、城内の牢へ繋ぎました。捕らえた者の手からは、朝倉家の名が記された書状、金銭の受け渡しを記した覚書も押さえております。捕らえた者たちからも、朝倉との繋がりを示す話が出ております。
万福丸様も茶々もご無事にございます。小谷の城の不穏は、ひとまず抑え込みましてございます。
長政様……城内に残る不穏の芽は、私がひとまず摘み取りました。あなた様は後ろを振り返る必要はございませぬ。浅井家中を金で乱した朝倉の企みを挫くため、後顧の憂いなく、敵と相対してくださいませ』
「……そうか。市は、やったか」
長政は文を読み終えると、しばらく動かなかった。
やがて一度だけ、深く息を吐いた。
商人からの報せ。馬方からの目撃。関所での不審な通行。それらを一つずつ重ね合わせれば、敵の動きはおぼろげながら形を成す。お市は、そうやって城を守ったのだ。
城内の動きを先んじて掴み、己の背後を守り抜いてくれた妻の手腕に、長政は静かに頷いた。
「ひとまず、か。……ならば俺も、俺の務めを果たす」
同じ頃、越前敦賀の妙顕寺に置かれた織田軍の本陣でも、軍議が開かれていた。
本陣には、織田弾正忠信長を中心に、柴田権六勝家、丹羽五郎左衛門長秀ら重臣が顔を揃えていた。
天筒山、金ヶ崎を短期間で落とした勢いに乗る織田軍であったが、諸将の顔には、進軍を前にした緊張が浮かんでいた。
「お館様」
勝家が口を開いた。
「峠へ入れば、先陣と後陣は離れまする。もし朝倉が山腹を取れば、兵を戻すことも難しゅうございます」
「兵糧は届いております。されど、この先は荷駄を連れて進むには難儀な道にございます」
丹羽長秀も、言葉を重ねた。
信長は一瞬、勝家と長秀を見た。
「案ずるな、勝家、長秀」
信長の声には、揺るぎない自信が満ちていた。
「浅井長政が北近江を押さえておる。背後を案ずる必要はない。浅井が背を守る限り、我が軍に隙はない。木ノ芽峠を越えれば、朝倉の本拠は目の前だ。ここで兵を止めるほうが、かえって敵に時を与える」
信長は家臣たちの危惧を退け、木ノ芽峠へ兵を進めるよう命じた。
「浅井が背を守る」――その確信が、信長の決断を支えていた。
塩津本陣では、長政が木玉に触れた指先に、ふと、お市の細い指の震えが重なった。小谷を発つ直前に交わした、お市との別れが蘇る。
小谷を発つ前夜。
二人は奥御殿の自室で、出陣前の最後の酒を静かに酌み交わしていた。
お市は長政の前にひざまずき、長政の腰に太刀を優しく添え、整えてくれていた。
その折、長政もまた腰から浅井家の懐刀を外し、お市へ渡したのだった。
いつも理を崩さぬお市の指が、ふと長政の小袖の胸元を小さく掴みしめ、かすかに、絶え間なく震えていた。
『長政様……。戦場だけは、帳面の上では測れませぬ。どれだけ備えても……怖いです、長政様……。必ず、生きて戻ってきてくださいませ。万福丸様のため、茶々のため……そして、私のために……!』
お市は長政の胸に深々と顔をうずめ、一筋の温かな涙を零したのだった。
長政はその涙を拭い、お市を力強く抱きしめて誓ったのだ。
『必ず勝って戻る。お前と万福丸、茶々を残して、俺だけ死ぬわけにはいかぬ。天地神明に誓って、生きて帰る。だから……俺を信じて待っていてくれ!』
小谷でのあの誓い。
そして、いま塩津本陣へ届けられたお市からの手紙。
お市は、城下や街道から届く報せを解き明かし、長政が前線で後顧の憂いなく戦えるよう、背後の憂いを取り除いてくれたのだ。
(市……。お前が小谷を守り抜いてくれた。……ならば、今度は俺の番だ!)
長政はお市の手紙を胸に押し当て、一度だけ熱い息を吐いた。
長政は何も言わず、木玉を握った。
長政は絵図へ目を落とした。
塩津の兵糧は何日分あるか。木ノ芽まで、何刻で届くか。朝倉がどこへ兵を回しているか。
お市から届いた街道筋の報せには、敦賀方面へ兵が向かったらしいとの記述もあった。小谷で押さえた複数の証も、朝倉の手の影を示している。
敦賀方面へ兵が向かう。木ノ芽峠の正面ではなく、敦賀の南方へ兵が増えている――ならば正面攻撃ではない。近江側へ抜ける道を警戒している、のか。
……いや、単に援軍かもしれぬ。
だが、朝倉がいまだに、浅井家中の旧臣どもがこちらに影響力を残していると思い込んでいるなら、浅井が織田の背後に回ると踏むはずだ。しかも織田軍の進撃は予想以上に速い。金ヶ崎方面の防衛線が崩れた今、敦賀を失えば越前本国が危うい。
(ならば、朝倉は織田軍を追うより先に、退路を塞ごうとしているのではないか)
ならばこちらは、その思い込みを利用する。朝倉側が兵を回したと知れたなら、塩津から越前境へ通じる、絵図の端に細く記された山道を使い、木ノ芽峠の北側へ回り込み、その朝倉勢の側面を脅かす。朝倉軍を退路封鎖から引き剥がし、織田軍の近江への退路を確保する。
ただし、五千全軍をその山道へ入れる必要はない。先に斥候と軽装の別働を回し、道が通れると分かれば、二千を上限として別働を回し、残りは街道側に置く。塩津を確保しておけば、湖上から兵糧を送り込み、近江側への兵站を支えられるのだ。
(兵糧もある。兵もいる。銭もある。報せもある。何より、俺の背を刺す者がいない。……これが、俺とお市が作り直した浅井だ)
長政は立ち上がり、兜の緒をきつく締め直した。
木玉の冷たさに、お市の姿が脳裏に浮かんだ。
明朝、浅井軍五千は夜明けとともに塩津を発つ。五千を一隊のまま山へ入れれば、こちらもまた敵と同じく細長くなる。先鋒は道の安全を確かめ、本隊との距離は開けない。後衛には兵糧を守らせ、万一の際には塩津まで戻れる道を確保させる。
ただし、絵図に細く記された山道が、軍勢を通せる道とは限らぬ。軍勢を通した記録もない。道が使えるかどうか。それだけが問題だ。
ならば、山道を知る者を呼べ。塩津周辺の馬方や郷士、猟師の中に、その道を歩く者がいるはずだ。お市が繋いできた街道の耳目を、ここでも使う。先に斥候を出し、道を確かめさせる。戻ってから、通れると分かった場合にのみ別働を動かす。
「今夜のうちに出せ。夜が明ける前に戻れぬなら、無理に進ませるな」
同じ夜、小谷城では――。
奥御殿の縁側に、お市はすずとともに立っていた。すずが背後から衣をかけ、夜風を防いでいる。茶々は奥で侍女に預けられていた。
お市は北の空――塩津の方角を静かに見つめていた。
お市の小袖の懐には、長政から出陣前に渡された、浅井家の懐刀が忍ばせられていた。
お市は夜空を見上げ、心の中で祈った。
(長政様……。城の不穏の芽は、城下や街道の耳目を働かせて、私がひとまず摘み取りましたよ。……もう後ろを振り返らず、長政様の戦を存分になさってくださいませ。
長政様には、五千の兵がいる。私には小谷がある。ならば、互いの持ち場を守ればいい)
お市の指先で、懐の木玉が小さく転がった。
かつて知っていた未来だけが、すべてではない。いま手元には、城下から届いた報せがある。
(私たちは、負けるわけにはいかない。……必ず勝って、笑顔でこの小谷の城へ戻ってきてくださいね、長政様……)
お市は懐刀の柄にそっと触れ、北の闇の中へと静かに視線を向け続けた。
塩津本陣の陣幕の中では、長政が木玉を握りしめたまま、かがり火の爆ぜる音に耳を澄ませていた。
木ノ芽方面へ出した斥候は、まだ姿を見せていない。
遠く琵琶湖の水面だけが、月明かりを細く揺らしていた。




