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第43話:長政の軍略眼

第43話:長政の軍略眼


 越前一乗谷、朝倉館の奥書院。

 当主・朝倉左衛門督義景は、文机の上に広げられた『越前国境絵図』を見つめ、不敵な笑みを口元に浮かべていた。

 義景の周りには、朝倉式部大輔景鏡や山崎長門守吉家ら、朝倉家の主だった重臣たちが居並んでいた。

 密偵からもたらされた最新の報せ――織田信長率いる大軍が天筒山城と金ヶ崎城を落とし、勢いに乗って木ノ芽峠へと足を踏み入れたという報せであった。


「屋形様、織田信長め、浅井が動かぬと見て、木ノ芽峠の狭い一本道へと無警戒になだれ込んでおりますぞ」

 朝倉景鏡が畳を叩いて具申すると、朝倉義景は唐物の茶碗を静かに置き、頷いた。

「ふふふ……信長め、己の強さを過信して墓穴へ自ら飛び込んだわ。……景鏡、手筈通りに動け。加賀・越前の一向衆にも密かに働きかけ、木ノ芽峠周辺へ兵を集めさせよ。木ノ芽峠を越える道の要所を押さえ、敦賀方面への退路を断たせよ! 織田軍が敦賀へ戻る道を塞いだ上で、前線の一乗谷本隊と挟み撃ちし、信長の軍勢を越前の山中で討ち果たしてやるのだ!」

「ははっ! 直ちに一向衆のもとへ使いを走らせまする!」


 朝倉義景が下した、織田軍の背後を断つ合図。

 加賀や越前の一向衆のもとへ、密使が走り始めていた。


 一方、その頃。琵琶湖の北岸。

 ザザアッ――と、白い帆をいっぱいに孕ませた丸子船の船底が、冷たい水面を力強く押し開いていた。

 今浜を発ち、塩津へ向けて湖北の湖面を北上する浅井軍の舟団。

 百艘を超える丸子船が水上に立ち並び、白帆に描かれた「三ツ星」の家紋が、春の湖風に強く揺らめいていた。

 船上には、黒漆の胸当てと新調の鉄具足を身に纏った、浅井軍の精鋭五千の武者たちが、身を寄せるようにして乗り込んでいた。

 さきにお市の手によって老臣たちの不当な横領が暴かれ、当主・浅井長政とお市によって扶持を改められ、家族の暮らしまで安堵された当主直属兵たちである。兵糧を運ぶ丸子船を軍事輸送に転用し、塩津への集結を急いでいた。


 船団の先頭に立つ、当主旗艦の船中。

 甲冑姿の当主・浅井長政は、簡易の文机の上に『越前・北近江境絵図』を広げ、戦況の報告を冷徹な眼で精査していた。

 長政の左右には、国人領主代表の阿閉淡路守貞征と、新庄駿河守直頼が控え、水面を渡る寒風に肩を強張らせながら、絵図面を注視していた。


「……阿閉殿、新庄殿。織田兄上の行軍の早さ……あまりにも早すぎる。……これは、致命的な死地への誘いだ」


 長政は声を落とし、重々しく語った。

 神託でも予言でもない。地勢と兵糧の道筋を読み、敵の動きを推し量る、武将・浅井長政の眼であった。


「敦賀から越前一乗谷へと至る木ノ芽峠の道は、両側に切り立った岩壁が迫る狭く険しい一本道だ。大軍がこの山道へなだれ込めば、軍勢の陣形は前後に細長く伸び切り、敦賀へ戻る道は細く脆くなる。織田兄上は、我が浅井軍が背後を守っていると信じ切っているからこそ、何の疑いもなく前しか見ずに進みすぎているのだ」


 長政は、小谷城でお市から知らされていた報せを思い返した。朝倉義景が京の将軍・足利義昭や一向衆へ密使を放っていた動きである。


「朝倉は一向衆を動かすつもりであろう。もし木ノ芽峠の背後を押さえられれば、織田軍は退く道を失う。そうなれば、織田軍は前進も退却もできなくなり、危うい……! お市の報せだけで申しているのではない。木ノ芽峠の地勢も、軍勢の進み方も、朝倉方のこれまでの戦ぶりも照らし合わせれば、おのずと見えてくる」


 長政の見立てに、阿閉貞征や新庄直頼は背筋に冷や汗を流し、感服の息を漏らした。

「す……凄まじいご軍略……! そこまでお考えでございましたか……!」


 長政は、自分を信じてくれた妻・お市の姿を思い浮かべた。

 かつての長政ならば、老臣たちの圧力の前に視野が狭まり、このような戦場の死角に気づくことなど到底叶わなかっただろう。

 お市が正確な報せをもたらし、「数と道理から物事を見る」という考え方を教えてくれたからこそ、長政が本来備えていた武将としての才を、ようやく十全に振るえるようになったのだ。


 長政は太刀の柄を固く握り締め、心の中で身を引き締めた。


(……だが、油断は禁物だ。相手は朝倉軍に加え、各地から集まりつつある一向衆。一歩間違えれば、不覚を取るのは俺たちのほうだ……!)


 長政の胸の中に、慢心ではなく、手堅く勝利を掴み取るための慎重な緊張感が宿っていた。

 その懸念は、ほどなく現実のものとなる。


 突如として、沿岸を馬で駆け通してきた浅井軍の物頭が、息を切らせて旗艦へ飛び込んできた。


「報せ! 報せぇっ! 当主様、大変にございます! 加賀・越前の一向衆の動き……我らの見込みより、はるかに早うございます!」

「何……!?」


 長政が立ち上がった。伝令は顔を激しく引きつらせて叫んだ。

「加賀・越前の一向衆が朝倉方の呼びかけに応じ、我らが塩津に上陸するより先に、木ノ芽峠の要所を押さえ、敦賀方面への道を塞いでおります! 一向衆の進みは、我らの見込みをはるかに上回っております! すでに木下藤吉郎殿の殿隊が敵に追い詰められ、死闘となってございます!」


「な……なにっ! 一揆の動きがそこまで早いというのか!?」

 阿閉貞征が血の気を失って立ち上がり、上ずった声を上げた。

「当主様! 敵の動きが早すぎますぞ! 我らが塩津から陸路を通って追いつく前に、木下藤吉郎殿の殿隊が敵に追い詰められ、織田様の本隊も退路を断たれますぞ!」


 予期せぬ、敵の早い動員。

 お市が集めた情報と長政の見立てを上回る速さで、一向衆が木ノ芽峠の退路を塞ぎ、織田軍を死地へと追い込んでいたのだ。

 戦場に、すべてを見通せる策などない。生々しい合戦の現場の試練であった。

 浅井軍の将兵の間に、一瞬にして手に汗握るような緊張と動揺が走り抜けた。


 しかし――長政は動じなかった。

 長政はお市から学んだ道理を胸に、即座に次の手を決めたのだ。


「焦るな、阿閉殿! 敵の動きが早いならば、こちらも一刻を争って動けばよい!」


 長政の声が、雷鳴のごとく船中に響き渡った。


「船頭! 船首を塩津の浅瀬へ寄せよ! 兵ども、船が岸に着くのを待つな! 水へ入れ! 浅瀬を渡って上陸するのだ!」


「き……強行上陸でございますか!?」

 新庄直頼が息を呑むと、長政は太刀を抜き放ち、前方の塩津の岸辺を力強く指差した。


「敵は退路を断ったことで、こちらが動けぬと思っているはずだ。敵は退路封鎖へ兵を割いている。背後は相対的に薄くなっているはずだ。今こそ敵の油断を突く好機だ! 我らが塩津から即座に駆けつけ、敵の背後を突けば、一向衆の隊列を乱すことはできる!」


 長政の、間髪を容れぬ果断な指示。

 一度見込みが外れようとも、即座に現場の戦況を読み直し、敵の油断の隙を突いて最善の手に切り替える――それこそが、長政の軍略の眼であった。


 阿閉貞征と新庄直頼の目が、激しい感嘆と情熱に輝いた。

「お、おおおっ……! 流石は当主様! 敵の油断の隙を突く上陸……見事なるご判断にございます!」

「兵ども、当主様に続けっ! 水に入りて塩津の岸へ駆け登れぇっ!」


「「おおおおおっ!」」

「「応ッ!」」


 百艘の丸子船が、浅瀬の砂浜へと船を寄せた。

 当主・長政が自ら先頭に立って浅瀬へ飛び込み、冷たい湖水を跳ね上げながら、塩津の岸辺へと駆け登った。

 黒漆の甲冑を身に纏った五千の精鋭が、怒涛の勢いで長政の後に続き、北国街道・木ノ芽峠の戦場へと向かって、一刻を争う強行軍を開始したのだ。


 敵の仕掛けた死の罠と、予想を超えた敵の速さ。

 しかし、一切の慢心を排し、お市から託された報せを踏まえ、自らの軍略を尽くして、織田軍を救い出し、朝倉軍を打ち破るための決戦の地へ向かって、一刻の猶予もなく突き進んでいくのであった。

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