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第42話:残党の最後の抵抗

第42話:残党の最後の抵抗


「当主・長政が塩津へ向け出陣した今こそ、奥御殿を襲う最後の機会ぞ」


 押し殺した密談の声が、深夜の小谷城の西側――切り立った山肌に面した竹林の暗がりから漏れ聞こえていた。

 吹き抜ける春の夜風が、竹の葉をザザ……と擦れ合わせ、月光を遮る黒雲の下で、二十余名の武者たちが息を殺して身を潜めていた。

 その中には、さきの大評定で当主・浅井長政によって失脚させられ、自邸に籠もるよう命じられた筆頭宿老・赤尾美作守清綱の家中にいた者や、海北若狭守綱親の家中に仕えていた者の姿もあった。清綱本人はこの場にはいない。

 群れの先頭に立つのは、赤尾家に連なる武者で、かつて老臣派の手勢を束ねていた過激派――赤尾新兵衛であった。

 赤尾新兵衛は太刀の柄を握り直し、腰の黒漆塗りの鞘をカチャリと鳴らした。その瞳には、主君・長政に対する激しい怨念と、自分たちが長年握ってきた利と発言力を奪われたことへの、消しがたい憤りが燃え上がっていた。


 赤尾新兵衛の懐には、越前一乗谷の朝倉義景から、密使を通じて極秘裏に届いた一巻の書状が収められていた。

『長政出陣の折を逃さず、城内を押さえよ。織田方の女を討てば、浅井家中の動揺も大きかろう。事を成した暁には、朝倉家より相応の恩賞を与える』


 

 赤尾新兵衛は懐の書状を強く握りしめ、背後に控える残党武者たちに向かって、低く殺気を孕んだ声で命じた。

「当主・長政は、五千余の兵を率いて塩津へ向かわれた! 長政が主力の大半を率いて塩津へ出たことで、小谷城内には僅かな留守居しか残っていない――そう踏んでいた。城そのものを取る必要はない。お市と万福丸を押さえれば、それだけで長政を戦場から引き戻せる。いまの小谷城内は空の殻も同然よ! 奥御殿へ忍び込み、織田の女・お市を除き、万福丸様を人質に取るのだ! さすれば、長政めも織田も足元が崩れ、朝倉様の大軍がこの城へとなだれ込んでまいろうぞ!」

「はっ……!」

 残党武者たちが一斉に太刀を抜き、闇に紛れて奥御殿へ続く道へと忍び寄っていった。


 竹林の先には、普段は使われぬ細い通用道があった。かつて老臣たちが奥御殿へ出入りする際に使っていた道である。赤尾新兵衛らは、城を外から攻めるのではない。かつて自分たちが城内を自由に行き来していた頃に知った、警備の薄い経路を利用するつもりだった。だが、彼らが知っていたのは、長政がまだ城内にいた頃の警固の配置である。長政の出陣を受け、警固の者たちはすでに配置を改めていた。


 その夜に限って、お市のもとへ届くはずの報せが途絶えていた。

 春先の荒天で船の往来が止まり、朝倉方の兵が敦賀方面へ通じる街道を警戒していたため、城下の問屋・大野屋宗兵衛や草の者からの報せが、一時的に遮断されていたのだ。

 だが、お市にも把握できぬことはある。朝倉の密使がどの道筋を通って赤尾屋敷へ接触したのか、その正確な時刻までは知り得なかった。


 だが――報せが途絶えたところで、小谷城の守りまで崩れたわけではない。


 長政が城を空けたから警備が薄くなったのではない。長政が城を空けるからこそ、残された者たちが狙われることを見越して、奥御殿の警固はむしろ厚くされていた。

 お市の進言を受け、長政が彼らの扶持を改め、家族の暮らしまで安堵した当主直属の警護の者たちである。

 彼らは当主不在の城を守ることを自らの務めと心得、五十余名を交代で配置し、夜間も常時十数名が奥御殿周辺を警固していた。今夜も、その十数名が通用道と回廊の両側に分かれていた。

 報せが途絶えた暗闇の中で、警護の者たちの泥臭い警戒の眼と耳こそが、忍び寄る足音と気配を、土壇場で察したのである。


 赤尾新兵衛率いる残党二十余名が、通用道を抜け、奥御殿の西端の回廊へ足を一歩踏み入れた、まさにその瞬間であった。


 カッ! と、回廊の両端で数本の松明の火が一斉に掲げられ、漆黒の暗闇であった回廊が、赤々と照らし出された。


「な……なにっ!?」

 赤尾新兵衛と残党たちが驚愕し、眩しさに目を細めて立ちすくんだ。

 回廊の両端から、具足を身に着け、槍や太刀を構えた警護の者たちが姿を現した。前列の者たちは槍を構え、後列の者は太刀に手をかけていた。

 両端から掲げられた松明の火が目に入り、残党たちは奥の警護兵の姿を見定めることができなかった。残党は二十余名いた。だが、狭い回廊では横に広がれない。先頭の数人しか前へ出られず、その後ろは仲間同士で身動きが取れない。前後を塞がれ、槍の間合いを抜けてお市へ近づく術もなかった。


「動くな不忠者ども! 太刀を捨てよ!」

 奥御殿の警固を預かる若武者が、太刀を抜いて一喝した。


 残党たちが狼狽し、互いに身を寄せ合う中、重々しい足音が聞こえてきた。

 立ち並ぶ警護の者たちが恭しく左右に道を開けた。

 警護の者たちに守られながら、その中央から姿を現したのは――朱色の小袖の上に羽織を引っ掛け、髪を高く結い上げたお市であった。お市は決して槍列の外へは出なかった。


 お市の傍らには、幼い万福丸をしっかりと背中におんぶし、必死に守る侍女のすずの姿があった。

 お市の手には、夜番の人数を書き留めた帳面と、あの小ぶりな木製の算具――そろばんがあった。


 お市は、太刀を抜いた残党武者たちを、氷のように冷たい眼差しで静かに見据えた。


「あ……お市……! 織田の女……!」

 赤尾新兵衛は顔を激しく引きつらせ、太刀の先をお市へ向けようと叫んだ。

「な……なぜだ! なぜ我らの動きを知っていた!?」

 お市は左手に握った算具を静かに下ろし、冷ややかな笑みを口元にたたえた。


「知っていたのではありません。起こり得ると考えていただけです。赤尾殿」

 お市の声は、恐ろしいほど滑らかで、静かだった。


「そなたたちが、当主様が出陣された隙を狙い、朝倉義景からの書状を後ろ盾に、城内で兵を挙げることなど……そのような事態も、あらかじめ覚悟しておりました。当主・長政様の命を受け、この城を守る武者たちが、夜番を絶やさず、奥御殿の周囲を見張っておりましたからね」


 奥御殿の警固を預かる若武者が、力強く一歩を踏み出し、言い放った。

「赤尾新兵衛! 俺たちの扶持を改めてくださったのは、長政様とお市様だ! お前たちのような不忠の徒に、当主様のお留守を荒らされてたまるかっ!」


 赤尾新兵衛は絶句し、額から滝のような脂汗を流した。

 自分たちは、不意を衝いたつもりでいた。だが、当主が不在だから警備が緩むのではない。むしろ当主が不在だからこそ、奥御殿の警固を厚くしていた。赤尾新兵衛の目算は、ここで崩れた。

 ここで降伏すれば朝倉との内通が露見する。ならば、お市を討つ最後の一手に賭けるしかない――赤尾新兵衛は目を血走らせて咆哮した。


「だ……だまれえっ! 我らは朝倉様のご意向を受け、浅井の家を正すために立ち上がったのだ! 織田の手先に捉えられる筋合いはない! 者ども、お市を討ち取れっ!」


 お市との間には、槍を構えた警護の者が幾重にも立っていた。

 赤尾新兵衛が身を躍らせ、お市へ向かって太刀を振り下ろそうと飛び出してきた。

 しかし、お市は一歩も前へ出なかった。眉ひとつ動かさなかった。


 お市は静かな声で言った。


「往生際が悪いのは……そなたたちですよ」


 お市が静かに顎を引いた。

 その瞬間、警護の者たちの槍先が一斉に突き出され、赤尾新兵衛は太刀を振り下ろす間合いすら奪われた。次の瞬間、横手から伸びた槍の柄が太刀を弾き飛ばした。

 数人がかりで腕を押さえ込み、板敷きへねじ伏せたのだ!


「ぐはっ……! くそおっ……! 離せ! 離せえっ!」

 赤尾新兵衛が板敷きに顔を押し付けられ、見苦しく暴れた。

 残りの残党武者たちも、戦意を完全に失い、次々と太刀を板敷きへ落として降伏した。


 お市は、板敷きの上に這いつくばる赤尾新兵衛を見下ろし、静かに言葉を重ねた。


「朝倉への義理、でございますか。……当主・長政様が、命を賭して浅井の領民と家臣の行く末のために前線へ出陣しておられるというのに……その背後を刺し、朝倉の利益のために主君を売ろうとするそなたたち。……そなたたちは朝倉に忠義を尽くしたのではありません。浅井家を朝倉へ売ったのです。そなたたちは、家臣などではない。浅井の家を食い荒らす、ただの不忠の者に過ぎませぬ」


 赤尾新兵衛は悔しさに血を吐くように歯を噛み鳴らしたが、もはや一言も言い返すことができなかった。


 お市は警固を預かる若武者に向かい、毅然と命じた。

「この者たちを直ちに捕縛し、城内の牢へ繋ぎなさい。当主・長政様がお戻りになった折、そのお裁きを受けていただきます」

「ははっ! 直ちに引き立てます!」

 警護の者たちが、手縄で硬く縛り上げられた赤尾新兵衛ら残党二十余名を、奥御殿から引き立てていった。

 城内に残されていた、旧老臣派の不穏分子による大きな動きは、ひとまず封じられた。


 暗闘が去り、奥御殿に静寂が戻った。

 すずの背中におんぶされていた長男・万福丸が、お市の小袖の裾を小さな手でそっと引っ張った。


「お市母様……! 俺、怖くなかったよ! お市母様と茶々を守るために、じっと我慢していたんだ!」


 万福丸が、子供らしい、健気で誇らしげな声を上げた。

 お市は胸を熱くし、万福丸をすずの背中から優しく抱き降ろすと、その小さな身体をぎゅっと力強く抱きしめた。


「ええ、万福丸様。誠にお強い、立派なお兄さまですね。よく頑張りましたね」

「うん! 俺、もっと強くなって、父上みたいに小谷城を守るんだ!」


 万福丸がお市の胸の中で無邪気に笑い、お市もまた、万福丸の柔らかい頭を愛おしそうに撫でてやった。


 お市は万福丸を抱きしめたまま、そっと窓の外を見上げた。

 雲の切れ間から月が覗き、小谷城の山肌を淡く照らしていた。

 北の彼方――越前・金ヶ崎方面へ向かったはずの、夫・長政の姿がお市の脳裏に浮かんでいた。


 お市は文机へ向かい、塩津本陣の長政へ向け、城内の騒ぎを収めた旨を記した書状を書き始めた。

 夜の山道を走らせるより、夜が明けて街道の安全を確かめてから使者を立てる方が確実だった。

 木格子の向こうから吹き込む冷たい夜風が、奥御殿の静寂を静かに撫でていた。

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