第40話:朝倉攻めの報せ
第40話:朝倉攻めの報せ
それから数か月――。年が改まり、近江にも春の気配が感じられる頃。
「急使にございます! 岐阜より、御屋形様へ!」
早朝、岐阜を発った一騎の早馬が、美濃西端の不破を越え、北国街道をひた走って、春先の冷たい朝気を引き裂きながら小谷城の大手門前へ駆け込んできた。
馬上の武者は織田家の使番であった。泥と汗と馬の泡に塗れながら、不休で駆け通してきた疲弊を全身に滲ませている。
馬は大手門の前で荒い息を吐き、首を力なく垂れた。武者は馬から転がり落ちるように飛び降り、清水谷を抜けて城内へ駆け上がった。
小谷城本丸の評定の間。
浅井家当主・長政、お市のほか、阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、野村肥後守定元ら、長政のもとに残った国人衆、城下の問屋・大野屋宗兵衛、ならびに新たに召し抱えられた勘定方たちが集まり、朝の評定が始まったばかりだった。
そこへ、息を荒らげた使番が長廊下を駆け込み、敷居のところで畳に激しく平伏した。
伝令の手には、黒漆の文箱が恭しく掲げられていた。
封には織田家の朱印が捺されていた。
「織田弾正忠様より……御屋形様へ……直々の書状にございます……!」
伝令の絞り出すような声に、評定の間の空気は一瞬にして凍りついた。
長政は静かに座を立ち、伝令の前へ進み出でて、黒漆の文箱を自らの手で受け取った。
長政はお市と目を合わせ、封印を改めてから、慎重に蓋を開いた。
文箱の中から取り出されたのは、白い奉書紙を折り畳んだ書状であった。
長政が紙を広げ、そこに記された筆致を目にした瞬間、長政の瞳に激しい緊張が走り抜けた。
お市もまた小袖の裾を引き、長政の傍らで息を呑んで紙面を注視した。
そこに躍っていたのは、織田信長直筆の、力強い筆致であった。
『織田弾正忠信長、尾張・美濃より大軍を催し、若狭・越前へ向けて侵攻を開始せり。朝倉義景、将軍家の権威を私して天下の法を乱す朝敵なり。我が軍はすでに不破を越え、若狭を経て越前敦賀へ入り、金ヶ崎城を攻めるべく進軍しておる。浅井家におかれては、かねてより取り交わした盟約に基づき、早々に人数を催し、越前・朝倉の後背を断つべく、出陣あるべし』
書状の末尾には、信長の黒々と躍る花押と朱印が添えられていた。
評定の間に、張り詰めた空気が満ちた。
阿閉淡路守貞征が、身体を震わせ、畳を叩いて身を乗り出した。
「織田様が……! 織田弾正忠様が、ついに越前朝倉を討つべく、大軍を動かされたか……!」
新庄駿河守直頼もまた、太刀の柄を固く握りしめ、目に烈しい光を宿した。
「朝倉義景めが、敦賀への道を押さえて我が浅井家を干上がらせようとした報いが、ついに訪れたのだ! 御屋形様、もはや迷う必要などございませぬ! 我ら浅井も、直ちに兵をまとめ、織田様とともに朝倉を打ち滅ぼしましょうぞ!」
野村定元が重々しく身を乗り出し、言葉を重ねた。
「我が手勢の武者どもも、日々の塩と米が十分に行き渡り、兵どもの気勢も上々にございます! 塩津や今浜からの舟運の手配も万全! いまこそ、我が浅井の力を越前へ示す刻限にございます!」
重臣たちの間に、熱い戦意が広がった。
かつてのように、老臣たちが「朝倉への義理」を叫んで足を引っ張る者は、もはや小谷城には一人も居なかった。
さきにお市の手によって老臣たちの不当な横領が暴かれ、朝倉家への従属を強いていた旧来のしがらみから解き放たれた浅井の家臣たちは、長政のもとで、織田と盟を結び、自らの国を自らの力で守る覚悟を固めていたのだ。
城下の問屋・大野屋宗兵衛もまた、畳に深く頭を擦りつけ、胸を張って報告した。
「御屋形様! お市様のご差配により、美濃や伊勢から届いた塩や米は、十分に小谷の城庫と領内に行き渡ってございます! 兵糧の蓄えに憂いはございませぬ! 琵琶湖の船も、すでに百艘近くを動かせる体制が整っております。織田軍への兵糧や玉薬の優先輸送の手筈も万全にございますぞ!」
長政は深いため息を吐き出し、手にした信長の書状をそっと文机の上に置いた。
長政の顔から、かつての迷いや不安は消えていた。
長政はお市に向き直り、お市の手を優しく包み込んだ。
「市……ついに、その時が来たな。織田兄上が朝倉を討つべく、兵を挙げられた」
「はい、長政様……」
お市は長政の手の温もりに微笑み返し、静かに頷いた。
長政の瞳には、当主としての確固たる誇りと決意が宿っていた。
「朝倉義景は、我が浅井家が、老臣どもを通じて朝倉から流れ込んでいた金に、今も縛られていると思っているのだろう。……だが、奴らは知らぬのだ。我が浅井家が老臣どもの毒を断ち、お前とともに、領内の富も、家臣たちの心も取り戻したことをな。恩を受けたことまで忘れたわけではない。だが、その恩を理由に我が家臣や領民を朝倉へ差し出すつもりもない。……俺は、織田兄上とともに越前へ攻め込み、朝倉への旧恩に引導を渡してくる」
長政の言葉は、力強く、清々しかった。
その夫の佇まいを見つめながら、お市の胸の奥底で、前世の記憶が静かに蘇っていた。
(きたわ……。ついに、この時が来たのね……)
本来ならば――この朝倉攻めこそ、浅井家の運命を決める瞬間だった。
信長が敦賀へ進み、朝倉を追い詰めたところで、長政は信長との盟を破り、朝倉側に立つ。
それが、お市の知る史実だった。
その先に待っているのは、小谷落城と長政様の死。
(……でも、本当にこれで大丈夫なの? 歴史がここまで私の知らない形へ変わっているのに、朝倉攻めという大きな出来事だけは、私の知る歴史と同じように始まった。ならば――長政様の死も、別の形で待っているのでは……?)
お市は、小袖の懐でそろばんの冷たい木玉の触感を確かめた。
書物も乏しく、確かめようのないこの時代。
不安が消えたわけではない。それでも、お市は顔を上げた。
(……違う。怖がっているだけでは何も変わらない)
自らの手で老臣たちを追放し、織田家と通商の盟約を結び、浅井家を当主・長政のもとで一本化してみせたのだ。
自分が歴史を変えた以上、かつて本で読んだ通りの展開になる保証などどこにもない。
朝倉攻めという大きな出来事だけは、私の知る歴史と同じように始まった。だが、そこに乗る人間の選択までは固定されていない。
兵糧、船、街道、そして情報――算盤だけでは戦には勝てない。だからこそ、兵糧を蓄え、船を整え、街道の流れを押さえ、情報を集めてきた。手元にある確かな報せと、整えた備えがあれば、抗う術を見つけられる。
浅井長政は、もはや裏切り者などではない。
織田信長と盟を結んだ浅井家の当主として、この戦場に臨むのだ。
(朝倉義景は、浅井が織田との盟を結んだことを知ってなお、長政様が朝倉三代の恩義を完全に捨てることなどできまいと、いまだに信じているはず……。ですが、その慢心こそが、朝倉義景の最大の命取りとなるのよ!)
朝倉義景が諸勢力を頼みにして織田を迎え撃とうとする策も、浅井家が織田側として朝倉軍の後背を断つならば、自らを滅ぼす刃へと姿を変える。
お市は、奥の部屋で無邪気に遊ぶ長男・万福丸と、生後数ヶ月の愛娘・茶々の笑顔を思い浮かべた。
(私は……この手で新たな道を切り開いた。長政様も、万福丸様も、茶々も、信長兄上も……誰一人として死なせはしない)
お市は膝を進め、長政の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「長政様。迷うことはございません。我が浅井の力と、織田との固き誓いを、天下に見せておやりなさいませ。私は、この小谷城で、あなた様のご無事のご帰還を……心からお待ちしております」
お市の凛とした励ましの言葉。
長政の胸に、熱い闘志が湧き上がった。
長政はお市を力強く抱き寄せ、その美しい額に優しくくちづけを落とした。
「ああ! 行ってくるぞ、市! お前と子供たち、そして浅井の未来のために……俺は必ず、生きて戻ってくる!」
決断は下された。
長政は立ち上がり、阿閉貞征や新庄直頼ら重臣たちへ向けて、当主としての出陣命令を下した。
「触れを回せ! 浅井の武者ども、直ちに甲冑を整えよ! 国境の守備は残し、動員できる兵を小谷へ集めよ。今浜と塩津の船手には兵糧輸送の備えをさせよ。まずは敦賀方面へ兵を進め、朝倉軍の後背を断つ! 我らが大義は――織田と盟を結び、不義の朝倉を討つことにあり!」
「ははっ!」
重臣たちは一斉に立ち上がり、出陣の支度へと散っていった。
小谷城内に、出陣を告げる陣太鼓が重々しく響き渡った。
評定の間に残された長政とお市は、静かに見つめ合い、固く手を握り合った。
長政はお市の手を一度強く握り直すと、そっと手を離した。
そして、陣羽織の裾をさっと払い、具足の緒を確かめて、当主としての堂々たる足取りで、出陣を控えた長廊下へと歩み出していった。
遠ざかる長政の重々しい足音と、小谷山の山肌を震わせる太鼓の音。
お市は文机の上に残された信長の書状をそっと指先で撫で、小谷山から吹き下ろす冷たい風の中に、静かに佇んでいた。




