第39話:朝倉義景の焦り
第39話:朝倉義景の焦り
越前国主・朝倉義景は、手にした朱塗りの盃を、畳の上に激しく叩きつけた。
高く砕ける音が座敷に響き、漆器が砕け散って、なみなみと注がれていた清酒が畳へ染み広がった。
越前一乗谷、朝倉館の奥御殿。
公家文化を色濃く取り入れ、雅を誇るその館は、豪華絢爛な庭園と数寄を凝らした調度品に囲まれ、常ならば優雅な和歌や連歌、蹴鞠などが催される風流の場であった。
だが、この日の奥御殿に満ちていたのは、当主・朝倉義景の激怒であった。
義景の目の前には、浅井領から命からがら逃げ帰ってきた物頭や、密偵の男たちが、血の気を失った顔でひれ伏していた。
義景は足を踏み鳴らしながら、怒号を張り上げた。
「おのれ……おのれ浅井の小僧(長政)め……! 我が朝倉家が三代にわたり庇護してやった大恩を忘れ、織田の女に骨抜きにされて、我らを裏切るとはな……!」
義景の顔は怒りと、名門としての矜持を傷つけられた挫折感で赤黒く高潮していた。
義景にしてみれば、三代にわたり庇護してきた浅井が、織田の女一人で朝倉を裏切った――その思いが、怒りの芯にあった。
義景が下した北近江への物資流通を禁じる命――深坂峠と柳ヶ瀬峠の関所を力づくで閉ざし、敦賀からの塩や米、鉄を厳しく断つ策。
義景は、塩と物資を奪われた浅井領内が一瞬にして大混乱に陥り、領民が飢え苦しみ、当主・長政が泣きついて朝倉家へ謝罪に訪れるものと高を括っていたのだ。
しかし、密偵が持ち帰った報告は、義景の予測を根底から打ち砕くものであった。
赤尾や海北ら朝倉派の老臣たちは大評定の場で断罪されて追放され、彼らが隠し持っていた塩や米は当主長政とお市の手によって領民や兵たちへ放出されていた。
さらに、浅井家は織田信長と内々の約定を結び、美濃や伊勢からの大量の塩や鉄が不破関を越えて北近江へと次々と運び込まれていたのだ。
浅井家が琵琶湖の水運の主導権を握り、北近江は塩飢饉に苦しむどころか、各地から商人が押し寄せ、かつてない賑わいを見せていた。
朝倉義景の重臣である朝倉式部大輔景鏡が、前へ進み出で、苦々しい顔で口を開いた。
「屋形様……! 浅井長政は、我が朝倉家の面目を泥足で踏みにじりましたぞ! 敦賀の関所を閉ざしたところで、奴らは織田と手を結び、琵琶湖の水運を使って伊勢の塩で不自由なく暮らしております! 政略では間に合いませぬ。このまま放置しておけば、北近江は織田の手に落ち、我が越前に対する最大の脅威となりましょう!」
もう一人の重臣・山崎長門守吉家もまた、太刀の柄を固く握りしめて進言した。
「もはや浅井に説得など無用! 今すぐ討つべきです! 直ちに一乗谷から一万余の軍勢を起こし、深坂峠を越えて北近江へ侵攻なさるべきです! 小谷城の青二才めを力づくで打ち滅ぼし、越前の武威を天下に見せつけてやりましょうぞ!」
朝倉家の重臣たちが、口々に浅井討伐の出兵を叫び立てた。
だが――当主である朝倉義景は、安易に出兵の命を下すことはしなかった。
義景は名門としての矜持を持ちつつも、一乗谷の栄華を守るための冷徹な計算を働かせていたのだ。
義景はしばらく沈黙した。面持ちを硬くし、首を振った。
「焦るな、景鏡、吉家。……軽々しく北近江へ兵を出すのは下策だ。浅井を直接攻めれば、背後に控える織田信長が美濃から大軍を率いて浅井の救援に現れる。そうなれば、我が越前が織田の大軍と正面からぶつかり、この美しき一乗谷が戦火に包まれることになる。……自ら打って出るばかりが戦ではなさるまい」
義景は冷たい笑みを浮かべ、名門ならではの、武ではなく政略で敵を屈する道を提示してみせたのだ。
朝倉家は、初代・孝景や名将・朝倉宗滴の代より、京の将軍家や寺社勢力と古くからの誼を持っていた。自ら武力を消耗するのではなく、四方より敵を囲んで討つことこそが、義景の狙いであった。
「景鏡! 吉家! 直ちに京の室町御所――足利将軍様へ密使を飛ばせ! 『織田信長は天下の法を乱す悪徒であり、浅井長政もまた織田の毒に冒された不忠者なり。将軍様のご威光を以て、諸大名へ織田討伐の御内書を発せられたし』と強く申し入れるのだ!」
義景の、冷酷にして巨大な企み。
将軍・足利義昭の権威を利用し、諸大名を動かして織田信長とお市、そして浅井長政を四方より包囲し、討とうという謀略であった。
義景の工作は、それだけに留まらなかった。
「さらに、石山本願寺の顕如上人へ向けても密使を送れ! 『織田信長は仏法を蔑ろにする天魔なり。加賀、越前、近江の一向一揆を蜂起させ、織田と浅井を挟み撃ちにされたし』と頼み込むのだ! さらに阿波の三好三人衆、そして甲斐の武田信玄へも、朝倉義景の名で書状を送れ! 『織田信長を討ち取るため、ともに起ち上がらん』とな!」
金と書状を諸国へ惜しげもなく費やし、送ることで、将軍家、本願寺一向一揆、武田信玄、三好一族といった反織田勢力の利害を繋ぎ合わせようという恐ろしい暗躍であった。
義景は、諸勢力が織田への反感を強めている今こそ好機と見ていた。自ら全てを動かすのではなく、それぞれの思惑を結び付け、織田と浅井を四方から包囲する――その火種に風を送り込もうとしていたのが、義景の政略であった。
朝倉義景は、手元の割れた盃の破片を見つめ、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ふふふ……見ているが良い、信長よ、長政よ。お前たちがいくら商いで富を築こうと……諸大名と一向一揆に四方より包囲されれば、一たまりもあるまい。小谷城もろとも、織田も浅井も地獄へ落ちるが良いわ……!」
朝倉義景の暗躍によって、後に信長包囲網と呼ばれる不穏な暗雲が、次第に諸国に張り巡らされ始めていたのだ。
その頃。
初冬の静かな陽光が注ぐ、北近江・小谷城の奥御殿。
お市の自室では、一乗谷の不気味な暗躍とは対照的な、どこまでも温かく穏やかな家族の光景が広がっていた。
お市は、生後数ヶ月を迎えた愛娘・茶々を優しく腕の中に抱きかかえ、あやしていた。
丸々と太り、桜色の頬をした茶々は、お市の腕の中で「あー、うー」と可愛らしい声を上げ、小さな手をかざしていた。
そのすぐ傍らでは、長政の長男であり、数え年で五歳(満四歳頃)を迎えた万福丸が、畳の上にちょこんと座り、小さな指先で茶々の手をちょんちょんとつっついていた。
「お市母様、茶々、おててがちっちゃいね。ふふ、かわいいなぁ」
万福丸が、舌足らずな、愛らしい声を上げると、お市は胸を熱くし、万福丸の頭を優しく撫でてやった。
「ええ、万福丸様。可愛い妹ですよ。万福丸様は、頼もしいお兄さまになられましたね」
万福丸はお市に頭を撫でられると、嬉しそうに目を細め、胸を張ってみせた。
「うん! 俺、お兄ちゃんだからね! 茶々が大きくなったら、父上みたいに強い武者になって、俺が守ってあげるんだ!」
無邪気で誇らしい少年の言葉。
お市は万福丸をぎゅっと抱き寄せるようにして引き寄せ、その柔らかい頬に顔を寄せた。
さきにお市が万福丸を「浅井家の正当な嫡男」として公認し、自らの手で実の母同然に慈しみ育てると決断したことで、万福丸はお市を「お市母様」と呼んで心から懐き、無垢で健やかな少年へと育っていたのだ。
そこへ、政務を終えた当主・長政が、穏やかな表情で部屋に入ってきた。
長政は膝を突き、茶々を抱くお市と、お市に甘える万福丸の姿を、慈愛に満ちた瞳で見つめた。
「市……。万福丸も、茶々も、誠に仲が良いな」
「はい、長政様。万福丸様は、本当に頼もしいお兄さまになられましたよ」
長政は万福丸の頭を愛おしそうに撫で、茶々の頬にそっと指先を触れた。
「俺は……いま、真に幸せだ。お前がいて、万福丸がおり、茶々が生まれた。家臣たちも一つにまとまり、領民も富んでいる……。俺たちが創り上げたこの浅井の国を、俺は命に代えても守り抜くぞ」
長政の言葉には、家族と領国を背負う、英主としての誠実な誇りが満ちていた。
お市は長政の胸に寄り添い、温かな体温を確かめ合った。
しかし――お市の小袖の懐には、さきに城下の油問屋・大野屋宗兵衛や、関所の情報網から届いた、一通の密書が忍ばされていた。
そこには、『越前一乗谷より、京の将軍家、本願寺、甲斐の武田家へ向けて、連日のように極秘の密使が走っている』という、不穏極まる報せが記されていたのだ。
お市は茶々の温もりを感じながら、静かに目をとじた。
お市の中で、前世の記憶が鮮やかによみがえっていた。
(……やっぱりだ。これだけ歴史を変えたはずなのに、信長兄上を包囲する流れそのものは動き始めている。細かな年月日は思い出せなくとも、大きな流れは覚えている。朝倉義景が将軍義昭を動かし、本願寺や武田へ働きかけようとしている……。歴史の大河は、そう簡単には曲がらない……。)
前世の知識があるからこそ、敵の狙いが「信長兄上と浅井家の挟み撃ち」であることが明確に見えていた。
だが、お市は少しも動じなかった。
自分が老臣たちを追放し、信長と通商同盟を結んだことで、浅井家はもはや「裏切り者」ではなく、織田の最も頼れる盟友となっている。敵がどれほど包囲網を企もうと、手元にある確かな報せと、そろばんの算用があれば、いかようにも先手を打つことができるのだ。
歴史の大きな流れは続いても、人の選択で結末は変えられる――そう信じなければ、この家族を守れない。
(誰が襲ってこようと……どんな包囲網が迫ろうと、渡してたまるか。この愛おしい家族の笑顔も、温かな日々も……私が自ら集めた情報で、絶対に守り抜いて見せるわ!)
お市は胸の中で静かに、しかし固い誓いを立てた。
初冬の澄んだ月光が小谷城を優しく照らし、深く寄り添い合う主君家族の温かな影を、小谷城の静かな夜の中に優しく包み込んでいた。




