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第38話:茶々の誕生

第38話:茶々の誕生


 小谷山を覆っていた根雪が解け、清水谷のせせらぎに春の萌え出ずる気配が宿り始めていた。

 城下の山田の河原市では、商人が声を張り上げていた。

「去年の塩は一升四十文だったが、今年は十五文だ! 魚も漬けられるぞ!」

 商人の声の脇では、老婆が桶に魚を漬け込み、子らは河原を駆け回って笑っていた。


 そんなある朝、お市は自室で胸に手を当てた。

 ここ数日、体の調子がおかしい。朝に胸がむかむかし、疲れやすく、眠い。

 侍女のすずが心配そうに覗き込んだ。

「お市様……お顔色が。薬師を呼びましょうか」

 お市は静かに頷いた。


 老練なる薬師が、お市の脈を取り、腕から手を離し、長い沈黙のあと、畳に深々と頭を下げた。

「……ご懐妊にございます。誠にめでたきことにございます」

 すずが両手で口を覆い、感涙を零した。

「お……お市様……! おめでとうございます……!」

 お市はそっと腹へ手を添えた。

(私と……長政様のお子……)

 胸の奥から、温かな感情が込み上げてきた。


 報告を受けた長政が、着物の裾を乱すほどの勢いで部屋へ飛び込んできた。

「市……! 誠か! 誠にお前に子ができたのか!?」

 いつも凛とした当主の威厳もどこへやら、目を丸くし、子供のように無邪気な大喜びの顔でお市の傍らに駆け寄った。

「はい、長政様。薬師からも、確かめていただきました」

 お市が微笑むと、長政はお市の手をそっと握りしめ、胸を熱くして呟いた。

「おお……! 天が授けてくださったか……! 市、ありがとう……!」

 だが次の瞬間、長政の顔に大喜びの笑顔と同時に、どこかふっと陰るような影が走った。

 長政はお市の手を握りしめたまま、何かを言いかけ、すぐに口をつぐんだ。

 お市はその一瞬の陰りを、見逃さなかった。


 数日後。穏やかな春の陽光が注ぐ午後、お市はすずを伴い、奥御殿の西端――日陰になった別棟の庭先へ足を向けた。

 幼い男児の甲高い声と、侍の指導する声が聞こえてきた。


「はっ……! とうっ!」

「終わり! 礼を!」

 男児は小さな木剣を納め、深々と礼をした。息を整えながらも、背筋は真っ直ぐだった。


 お市は木格子の陰から、そっと中を窺った。

 その男児の面立ちは、長政に驚くほどよく似ていた。引き締まった高い鼻筋と、利発そうな黒々と澄んだ瞳。

 すずが、申し訳なさそうに声を潜めた。

「お市様……あちらにおわしますのは、当主様の長男・万福丸様にございます。お市様が織田家より嫁がれる前、側室のお方との間に儲けられたお子様に……。家中では、噂になっております。正室様のお子が継ぐべきか、先に生まれた万福丸様が継ぐべきか、と」


 お市の中で、前世で学んだ歴史の記憶が、静かに繋がった。

 長政の長男・万福丸。

 さきに妊娠を知らされた折、長政が見せた一瞬の暗い影――それは、「お市に男子が生まれた場合、万福丸の立ち位置はどうなるのか」という、当主としての迷いのあらわれであったのだろう。


(だめよ……。このままではだめだわ)


 歴史上、武家社会において最も恐ろしい悲劇を生む原因――後継者の曖昧さ。

 中途半端な養育こそが、家を滅ぼし、子どもたちを死に追いやる。

 そして、お市は知っていた。史実では、この子は信長の手によって、命を落とすのだと。


 木格子の向こうで、万福丸が汗を拭い、再び木剣を構えた。

 お市の足音に気づいたのか、男児がふと顔を上げた。

 傍らの侍が、低く囁いた。

「……お市様だ」

 万福丸の目が、大きく見開かれた。それから、小さな声で言った。

「……母上……?」

 すぐにあわてて頭を下げた。

「い、いえ……。失礼いたしました」

 お市は、木格子の陰から一歩、前へ出た。

「私は市。父上と共に暮らしております」

 万福丸は、木剣を握ったまま、じっとお市を見上げた。警戒と、好奇心が混じった瞳。

 お市は膝を折り、目線を合わせた。

「素振り、見事でございました。父上に似て、凛としておられますね」

 万福丸の頬が、わずかに赤くなった。それから、小さな声で答えた。

「……父上のように、強い武者になるのです」

「ええ。きっと、なられます」

 お市は微笑んだ。万福丸は、少しだけ口角を上げた。


 その夜。行灯の火影が静かに揺れる奥御殿の自室。

 お市は文机の前に坐し、向き合う長政の目を真っ直ぐに見つめた。

「長政様。折り入ってお話ししたいことがございます。……万福丸様のことです」

 長政はビクリと肩を跳ね上げ、気まずそうに視線を逸らした。

「万福丸のこと……か。市、お前に黙っていてすまなかった。お前が織田家から嫁いでくる前、側室との間に生まれた子だ。……お前に男子が生まれれば、その子を嫡男とすべきだという家臣の声もあり、俺は……万福丸の扱いをどうすべきか、ずっと迷っていたのだ……」

 長政の声には、お市への申し訳なさと、当主としての苦しい葛藤が滲んでいた。


 お市は静かに、しかし毅然とした声で言った。

「長政様。迷ってはなりませぬ。中途半端に『後継になるやもしれぬ』という含みを持たせて育てることこそ、家臣団を二つに引き裂く病根となります」

「市……」

「私は本日、万福丸様にお会いしました。あなた様に驚くほどよく似ておられます。礼儀正しく、凛とした気品を宿しておられました。……長政様。万福丸様を、我が浅井家の正当な嫡男として、堂々と全家臣にお示しになってくださいませ。私は、母として、責任を持って大切にお育ていたします」


 長政は目を見開いた。

「市……! お前、本気で言っているのか……!? お前のお腹には、いま俺との子が宿っているのだぞ! もし男子が生まれれば、その子こそが織田の血を引く嫡男となるはずだ! なぜ……なぜ他人の子である万福丸を嫡男と認めると言うのだ!?」

「他人の子などではございません」

 お市は力強く言い切った。

「万福丸様は、あなた様の血を引く大切な長男です。私にお腹の子が生まれようと、万福丸様が浅井の長男であり、嫡男であることに変わりはございません。……長政様。ご自身で、ご決断を」


 長政は立ち上がった。部屋をゆっくりと歩き、障子の向こうの暗い庭を見つめた。

 長い沈黙。

 父親としての顔と、当主としての顔が、交互に浮かび、消える。

 やがて、長政はゆっくりと息を吐いた。

「……分かった。当主として定める。万福丸を嫡男と定める。評定を開き、全家臣の前で示そう。市……お前は、どこまで俺と浅井の家を救ってくれるのだ」

「はい、長政様。お任せくださいませ」


 数日後、本丸大広間で評定が開かれた。

 長政は上段に坐し、その傍らには小さな万福丸が立たされていた。まだ戸惑いの残る目で、広間を見渡している。

 阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、そして伊香郡の国人・堀江氏らが、整然と居並んでいた。


 長政は静かに口を開いた。

「皆の者、聞け。当主として定める。長男・万福丸を、浅井家の嫡男とする。正室・お市が母として養育する。異論はあろう。だが、これが俺の決断だ」

 広間がざわついた。

 堀江氏が、腕を組んだまま低く言った。

「……納得出来ぬ。正室様のお腹には、すでに新しい命が宿っていると聞く。織田の血を引く子が生まれれば、その子が嫡男となるのが筋では?」

 沈黙が落ちた。

 誰も、すぐには口を開かない。

 端から、誰かが小声で漏らした。

「……正室自ら、庶長子を育てるとは……」

 阿閉貞征は、目を閉じ、長い間を置いてから、静かに、しかし強く返した。

「……当主様のご決断だ。家を二つに割るより、明確な嫡男を立てる方が、浅井のためになる」

 また、短い沈黙。

 新庄直頼が短く頷いた。

「異存なし」

 空気が、わずかに変わった。

 長政の目が、堀江氏を捉えた。

「堀江。疑いは分かった。だが、疑うなら結果を見よ。万福丸を嫡男とし、お市が母となる。それで家中の憂いは断つ」

 堀江氏は、なお腕を組んだまま黙した。だが、それ以上は口を開かなかった。

 やがて、広間から同意の声が広がっていった。


 長政は万福丸の肩に手を置いた。

「万福丸。お前が、浅井の嫡男だ。今日より市を母として、しっかり歩め」」

 万福丸は、お市を見上げた。お市は微笑み、その小さな手を取った。

 万福丸は、まだ少し戸惑いながらも、お市の手を握り返した。


 やがて季節は巡り、初秋の刻限を迎えた。

 お市に無事にお産の刻が訪れ、産声が小谷城の奥御殿に高く響き渡った。

 お市が命がけで産み落としたのは、元気で愛らしい女児であった。


 産屋に入ってきた長政は、無事に生まれた我が子を抱き上げた。

「市……! 元気な子だ……!」

 お市は、初めて我が子を腕に受け取った。

 小さな体温。小さな呼吸。この世に生まれたばかりの、確かな命。

 涙が、止まらなかった。

 長政の顔を見上げる。長政も、涙を流していた。

 二人は、言葉もなく、ただ寄り添った。

 幸せが、胸いっぱいに溢れていた。


 長政が、女児の小さな手に指を添えた。

「……名前は……茶々、はどうだ。可愛らしい名だ」


 その瞬間、お市の背筋が、凍りついた。


(……茶々)


 名前を知っている。

 この子が、どんな人生を送るか知っている。

 小谷。北ノ庄。秀吉。大坂。夏の陣。

 前世で学んだ歴史の記憶が、新生児の産声の裏で、静かに、しかし確かに鳴り響いていた。


(別の名前に……?)

 お市の指先が、わずかに震えた。

(でも……長政様が、いま、この子を見ている)

 長政の目は、純粋な幸福に満ちていた。何も知らない。何も知らずに、この名前を選んだ。

 お市は、静かに頷いた。

「ええ……。茶々と名付けましょう」

「ああ……! 茶々だ! 万福丸も、妹ができたと大喜びするであろうな!」


 長政はお市と茶々を抱きしめ、心からの幸福な笑みを弾けさせた。

 しかし――お市が茶々を愛おしそうに抱きしめるその傍ら、胸の奥に、冷たい影がよぎった。

 茶々を抱く腕に、力が入る。指先が、わずかに震えた。


(偶然……? 違う。万福丸もいる。次は……? 全部、戻る?)

(私が変えたのは、枝葉だけ? 歴史そのものは、一歩も動いていない……?)

(それとも……歴史は、私を嘲笑っているの……?)


 お市は茶々の小さな手を握り締めながら、胸の中で静かに、強く誓った。

(万福丸様……そして茶々……。お前たちは二人とも、私と長政様の大切な、かけがえのない子どもたちよ)


 夜が更けた。

 行灯の火が、静かに揺れている。

 長政は、安心したように眠っていた。

 茶々も、小さな寝息を立てている。

 ふと、障子の隙間から、小さな影が覗いた。

 万福丸だった。

 妹の顔を、じっと見つめる。茶々が、小さく口を動かした。

 万福丸の口角が、わずかに上がった。

 お市は、その姿を見つめながら、静かに目を閉じた。


(この笑顔だけは、誰にも奪わせない)

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