第37話:信頼の確立
第37話:信頼の確立
浅井新次郎教政は、小谷城の馬場から響き渡る兵たちの威勢の良い掛け声を聞きながら、感慨に浸って深く息を吐き出した。
浅井一族の傍流に連なり、長政を幼い頃から見て育った若き武将である教政は、初冬の澄み切った空の下、小谷山の裾野に広がる馬場を見渡していた。
当主直属の武者や足軽、五百余名が集結し、槍合わせや火縄銃の調練に励んでいた。
汗を流し、凛とした眼光で槍を振るう兵たちの顔には、かつて老臣たちの支配下にあった頃の、暗く澱んだ疲弊の色は微塵もなかった。
兵たちが身に纏うのは、長政の命で修繕し再支給された具足であり、手にする槍の穂先は、美濃から不破関を越えて届いた上質な鉄で鍛え上げられたものであった。
鉄砲組の数十名が、火縄を整え、玉薬を込め、発砲までの手順を繰り返している。
馬場の端で、二人の足軽が肩を寄せて笑った。
「米が増えたな。……長政様になって、飯が食えるようになった」
「塩も入る。朝倉の顔色を窺う日は、終わったか」
教政は自らの腰の太刀の柄に手を当て、その声を聞きながら呟いた。
(変わった……。この小谷城が、見違えるほどに変わったのだ……)
さきに大評定において、朝倉家からの裏金で私腹を肥やしていた赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちが追放されてから、城内の気風は一変していた。
かつて老臣たちが幅を利かせていた頃、小谷城は重苦しい圧迫感に包まれていた。教政自身、若いというだけで末席に控えるばかりで、発言の機会すら与えられなかったのだ。老臣たちの「朝倉への義理」というお題目の前に、息を潜めているしかなかった。
だが、いまや当主・長政がすべての実権を掌握し、その傍らには、知性と気品を誇る正室・お市が政務を司っていた。
老臣たちの足軽であった兵たちは、滞っていた兵糧と扶持米が改められ、長政とお市から直接塩と米を給与されたことで、当主へ忠誠を誓う直属の兵へと生まれ変わり、北近江の武者たちの士気は、未だかつてないほどに高まっていたのだ。
教政は馬場を後にし、本丸の奥に新しく設けられた勘定方詰所へと向かった。
広々とした室内の文机の上には、美濃紙に整然と清書された『琵琶湖船手出納帳』や『市場勘定帳』が並べられ、若い役人たちが、懸命に計算と検分に没頭していた。
かつて老役人・竹内の下で、不当に低い扱いを受けていた若い勘定方の侍が、教政の姿に気づき、駆け寄ってきた。
「教政様! 見てください!」
役人は帳簿を開いた。指先が震えている。
「ここです! ここまで誤魔化されていたんです! ……もう、誰も盗めません! この半年で船手銭は三百貫も増えました。これだけ増えれば、鉄砲組も困りませぬ! 去年なら兵糧を買えば蔵は空でした。……いまは違います!」
「お市様のご指導か」
「はい! ……長政様がお市様を信じてくださったからこそです。末端の我らにまで、帳付けの理を授けてくださいました。我ら一同、生涯そのご厚恩を忘れませぬ!」
教政は帳簿の数字を見つめ、静かに頷いた。
やがて、本丸大広間において、新体制となって初の大規模な評定が開かれた。
上段の間には、堂々たる威厳を纏った当主・浅井長政と、朱色の小袖に身を包んだお市が並び坐していた。
下段の広間には、阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼をはじめとする近江国人領主、そして浅井一族の若手武者たちが、整然と居並んでいた。
評定の冒頭、国人領主の代表である阿閉淡路守貞征が、前へ進み出ると、長政とお市の前に深く平伏した。
「長政様、そしてお市様! 我ら北近江の国人衆、本日ここに、心からの本音を吐露させていただきたく存じます!」
広間全体が静まり返る中、阿閉貞征は朗々とした声で語り始めた。
「我らは、お市様が織田家より嫁いで来られた当初、織田の手先ではないかと疑いました。……しかし、それは思い違いでございました! お市様は老臣どもの不正を暴き、長政様をお救いくださり、塩と水運で領民と兵を飢えから救ってくださった。このご恩、生涯忘れることはございませぬ!」
新庄直頼もまた、力強く立ち上がり、短く頷いた。
「異存なし。我ら、水火を辞せずお仕えいたします」
「然り!」と一人が叫び、数人が続いた。
――そのとき、下段の端から、低い声が割り込んだ。
「……織田の姫など、信用出来ぬ」
伊香郡の国人・堀江氏であった。朝倉寄りで知られる男だ。腕を組んだまま、視線を上げもせずに言い放った。
広間がざわついた。
「黙れ、堀江!」
阿閉貞征が顔を上げ、怒りに声を張り上げる。教政の背筋が強張った。
長政が、静かに手を上げた。
「……分かった。疑いは、まだあろう。だが、疑うなら、結果を見よ。塩が入り、兵が食い、蔵が潤う。それが浅井のいまの姿だ」
堀江氏は、なお腕を組んだまま、低く続けた。
「……それが、織田の策でない証は?」
長政の目が、わずかに細められた。
「証は、領民の笑顔と、兵の槍の穂先だ。疑うなら、城下を歩け。俺は、お前の疑いに答え続ける」
堀江氏は、それ以上は口を開かなかった。だが、腕は解かなかった。
やがて、大広間全体から、六十余名の武者たちの嵐のような歓声が巻き起こった。
武者たちが一斉に平伏し、当主・長政、そしてお市への忠誠を誓う叫びが、小谷城の天井を激しく揺らした。
評定が終わったあと、教政は廊下の端に立ち、上段から降りてくる長政とお市の後ろ姿を見つめていた。
教政は太刀の柄を握りしめ、拳を強く固めた。
(この御夫婦なら命を預けられる。……だが、堀江殿のように、なお頑なな者も残っている)
長政の背を見送りながら、教政は静かに息を吐いた。
――その夜。
祝宴も終わった頃、奥御殿の御寝所には、濃密で密やかな静寂が戻っていた。
行灯の柔らかい火影が、畳の上に置かれた白布の布団と、そこに座す二人の影を優しく照らし出していた。
長政はお市の小袖の帯紐にそっと手をかけ、その引き締まった腕でお市の華奢な肩を引き寄せた。
長政の掌の強い熱がお市の肌に伝わり、お市は小さく吐息を漏らして、身を委ねた。
「市……今日、阿閉や新庄たちの顔を見たか。誰もが目を輝かせ、心から俺たちに命を預けようとしていた……」
長政の声は低く沈み、情愛に満ちてかすかに震えていた。
「かつて俺は、毎夜のように『いつか家臣どもに背中を押され、裏切り者として滅びるのではないか』と怯えていた。……だが、もう誰も俺を『名ばかりの当主』とも『裏切り者』ともなじる者は居ない。今日ようやく分かった。武だけでは人はついて来ぬ。……いや、本当は、まだ怖い。だが、お前がいる」
長政の手が丁寧にお市の着物の帯を解き、朱色の小袖がはらりと畳の上に滑り落ちた。
行灯の淡い光の下に、肩先だけが灯に照らされ、鎖骨に影が落ちる白い肌があらわとなった。
お市はうっとりと目を細め、自分を見つめる長政の引き締まった首筋に、己の細く滑らかな両腕をそっと回した。
「長政様……。私は、最初からあなた様のお心を信じておりましたよ」
お市が囁くと、長政の胸板がお市の胸元にぴったりと重なり合った。
長政の熱い唇がお市の唇を強く塞ぎ、深く、濃厚なくちづけが交わされた。
「ん……っ……」
お市は甘い吐息を漏らし、長政の背中に指先をしっかりと絡ませた。
二人は互いの体温を求め合い、深い情愛の波の中へと落ちていった。
やがて、情熱の余韻が静まり、夜気が再び寝所を優しく包み込んだ。
白布の布団の中で、二人はぴったりと肌を寄せて横たわっていた。
長政はお市の頭の下に腕を差し入れ、その肩を優しく抱きかかえている。安心したように、静かな寝息を立て始めていた。
長政の腕の中で、お市はそっと目を開けた。
自分の首筋に吹きかかる、長政の規則正しく温かな息遣い。
お市は長政の胸にそっと顔を寄せ、その力強い心臓の音を耳に受け止めながら、静かに目を閉じた。
(歴史なんて、変えてみせる)
(この人と、この国だけは、絶対に守る)
お市は布団の中で、長政の小袖の胸元をぎゅっと強く握りしめた。
行灯の火は静かに揺れ、寄り添う二人の影だけが畳に長く伸びていた。
翌朝。
教政は馬場へ向かう途中、初冬の朝日に目を細めた。
兵たちが走る。
「えいっ!」
「おうっ!」
掛け声が、澄んだ朝空へ響いた。
教政は静かに笑った。
(この国は、まだ強くなる)




