↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/60

第36話:小谷城への帰還

第36話:小谷城への帰還


 パカッ、パカッ――と、初霜の降りた北国街道の湿った土を、蹄が力強く踏みしだく音が響いていた。

 美濃・岐阜城での命がけの政治交渉を成功させたお市一行の乗物は、当主直属の精鋭武者三十名に護られながら、山陰に雪の残る不破関を越えて、北近江・浅井領へと入っていた。


 しかし、その帰路は決して手放しの平穏ではなかった。

 越前一乗谷の朝倉義景もまた、ただ手をこまねいていたわけではなかったのだ。

 お市が岐阜城へ向かった報せを密かに受け取っていた朝倉家は、北国街道の各所に密使の配下や伏兵を放ち、お市一行の動きを執拗に監視していたのだ。

 不破関を越えた直後の山合いにおいて、お市たちの乗物は、朝倉派の不穏な者たちによって一時行く手を塞がれかけるという、危うい局面に見舞われていた。

 だが、長政から付けられた精鋭武者たちが、太刀の柄に手をかけて不穏な者を追い散らし、お市は間一髪で難を逃れることができたのである。


 敵もまた、浅井と織田の結び付きを阻もうと動き始めていた。

 お市は乗物の木格子越しに寒風を感じながら、小袖の懐の誓約書を強く抱きしめ、兜の紐を引き締める思いで小谷城を目指したのだ。


 小谷山の山裾、清水谷の入口に位置する大手門の前には、朝早くから長蛇の列が作られていた。

 初冬の冷たい風が吹き抜ける中、当主・浅井長政を筆頭に、国人領主代表の阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、城下の油問屋・大野屋宗兵衛、そして新しく任じられた勘定方の役人たちが、今か今かとお市の帰還を待ちわびていたのだ。


 やがて、街道の向こうから、浅井家の三ツ星の旗印を掲げた騎馬隊と、お市の乗物が姿を現した。

 長政はお市の乗物を見るや否や、大股でお市の乗物へと駆け寄った。


「市……! 市……っ!」


 乗物が大手門前で静かに据えられ、侍女のすずの手によって、木格子の扉が開け放たれた。

 お市が朱色の小袖の裾を優雅に引き、乗物から足を外へ踏み出すと、長政はお市の手を、己の大きな両手で強く包み込んだのだ。


「無事の帰還、重畳だ、市! 街道筋に不穏な動きがあると聞き、俺は生きた心地もしなかったぞ!」

 長政の声は、安堵と溢れるような情愛で打たれていた。

 お市は長政の手のぬくもりに微笑み返し、気品に満ちた声で静かに答えた。


「ただいま戻りました、長政様。……浅井の家を救う、最高の吉報を持ち帰りましたよ」


 お市の言葉に、控えていた阿閉貞征や大野屋宗兵衛らが、一斉に目を見張り、胸を躍らせた。


 刻を置かず、小谷城本丸の奥書院において、新体制の主要家臣たちが集まり、極秘の報告の席が設けられた。

 お市は文机の上に、岐阜城から大切に抱えて持ち帰った二巻の和紙の書状――『織田・浅井水路通行ならびに通商起請文』を静かに広げてみせた。

 和紙の末尾に捺された、重々しい織田信長の赤印影と、黒々と躍る直筆の花押。さらに、信長自らが朱筆で加筆した『伊勢・尾張の塩と鉄を浅井へ最優先で安値供給すべし』という力強い文面が、行灯の光の下で鮮やかに浮かび上がっていた。


 長政とお市が連署し、天下の英傑・織田信長がそのすべてを認めた、対等なる裏の通商同盟の証。

 阿閉貞征は手形を覗き込み、震える指先で信長自筆の花押を見つめると、感涙を流して畳に深く頭を擦りつけた。


「おお……! なんということだ……! 織田信長様が、浅井家を対等なる同盟国と認め、伊勢や尾張からの塩や鉄を格別の値で回すと約束された……! 朝倉の塩に脅され、浅井の国が破滅すると怯えていた我らの浅愚さ……! お市様のお手腕、真に見事なるご高配にございますぞ!」


 新庄直頼や勘定方の役人たちもまた、お市が持ち帰った誓約書を目にし、声を詰まらせて頭を下げた。

「朝倉義景が北の関所を閉ざしたとて、もはや何の影響もございませぬ! 美濃や尾張からの物資が不破関を越えて入るならば、我が北近江は朝倉の裏金などなくても、己の力で立っていけます!」

「お市様……浅井の家を救ってくださり、誠に、誠にありがとうございました!」


 重臣たちの深い感謝と敬意。

 お市が提示した水運の策は、信長の花押を得て現実のものとなったのだ。

 長政はお市の手をしっかりと握りしめ、誇らしげに全家臣へ向かって言い放った。


「皆の者、見よ! これが我が妻・お市の手によってもたらされた、浅井の真の未来である! 直ちに琵琶湖北岸の三港――塩津、海津、今浜の船手衆へ触れを回せ! 舟運の準備を整え、美濃・伊勢からの物資を一気に琵琶湖の水上へ浮かべるのだ!」


「「ははっ!」」

 重臣たちが歓喜の声を上げ、次々と指示を携えて走っていった。


 同盟の締結を受け、浅井領内には、未だかつてない新しき流通の波が押し寄せ始めた。

 お市と長政の素早い手配により、美濃・尾張、そして伊勢より集まる塩、米、鉄、布地が、不破関を越えて続々と北近江へとなだれ込み始めたのだ。

 やがて数か月を経る頃には、琵琶湖北岸の港――塩津や海津には、連日、伊勢から届いた上質な塩俵や鉄塊が山積みにされ、浅井家が掌握した大型木造船・丸子船へと次々と積み込まれていった。

 丸子船は白帆をいっぱいに孕ませ、琵琶湖の青い水上を南下し、大津や坂本、そして京都や堺へと、従来よりも安く、早く物資を運んでいった。


 陸路の関所を改め、楽市を敷いた織田家と、琵琶湖の水運を主導する浅井家。

 二つの家が手を結んだことで完成した前例のない規模の水上流通は、北近江の地を、富の集まる要衝へと一気に変貌させたのだ。


 朝倉義景が意地を張って敦賀湊からの往来を閉ざしたとて、いまや浅井家にとっても領民にとっても、何の意味もなさない無力な障壁と化していた。

 北陸の塩が入らなくとも、伊勢より届く上質な塩が、小谷城下の市場へ潤沢に供給されたからである。

 かつて一升四十文という高値で取引されていた塩の価格は、市場へ溢れ出た伊勢塩によって、お市が狙った通り、一升わずか『十五文から二十文』という安値に落ち着いた。


 小谷城下の山田の河原市。

 お市は、当主・長政とともに質素な小袖を纏い、数名の供回りを連れて、活気あふれる市場の様子を見て回っていた。

 街道沿いに立ち並ぶ露店や問屋からは、商人たちの威勢の良い声と、買い物に訪れた領民たちの明るい笑顔があふれていた。

 店頭に置かれた大きな木桶には、真っ白な上質の伊勢塩がなみなみと盛られ、農民たちが笑顔で銭を払い、塩を手に入れていた。


「おい、見たか! 今日も一升十五文で本物の塩が買えたぞ!」

「当主長政様とお市様が、美濃や伊勢から塩をどんどん届けてくださるおかげだ!」

「もう朝倉の顔色を窺う必要もねえ! 浅井の国は、近江屈指の賑わいだ!」


 農民や町人、扶持が増えた足軽たちが、口々に主君夫婦を称え、笑顔を交わし合っていた。

 かつて荒涼としていた北近江の田畑と、暗く沈んでいた領民たちの表情は消え去り、そこには新しき時代の繁栄と活気が充ち満ちていたのだ。


 さらに、琵琶湖を通過する全国の商人たちから徴収する正規の『船手銭』と港の市場税により、小谷城の御蔵には、日々莫大な銭が流れ込んでいた。

 朝倉から老臣たちが貰っていた裏金など比べものにならぬ、年に数千貫におよぶ正当な巨大な富が、浅井家の御蔵へ直接入るようになったのだ。

 浅井家は、朝倉への従属国から脱却し、自らの経済力と軍力によって立つ、近江屈指の自立した富国へと脱皮を遂げたのであった。


 夕刻。小谷城本丸の物見櫓の上。

 暮れゆく初冬の斜陽が、小谷山の落葉した木々と、活気に包まれた城下町、そして遠く美しく光る琵琶湖の湖面を包み込んでいた。

 長政はお市の肩を優しく抱き寄せ、二人で眼下に広がる豊かな領国の光景を見つめていた。

 長政はお市の手を強く握り締め、胸いっぱいの感無量な想いを込めて呟いた。


「市……ご覧。これが、お前が俺に示してくれた未来の姿だ。領民が笑い、商人が行き交い、浅井の国が自らの足で堂々と立っている……」

 長政の瞳には、かつての孤立した苦悩の面影は微塵もなく、領国と全家臣を堂々と率いる英主としての誇りと自信が輝いていた。

 お市は長政の胸にそっと身を寄せ、柔らかく微笑んだ。


「ええ、長政様。数字は嘘をつきません。正しく配された富と、自由な商いの道こそが、国を富ませ、人を生かす本物の力となるのです。長政様が朝倉の裏金を打ち払い、我が兄・信長と対等に手を結ぶ決断をされたからこそ、この景色が生まれたのですよ」

「ああ……お前という得難き妻を得たこと、俺は生涯をかけて感謝しよう」


 長政はお市を抱き寄せ、その頬に優しく唇を落とした。

 見知らぬ地に嫁ぎ、政略結婚への恐れから始まった二人の歩み。

 しかし、いまやお市と長政は、お互いの知性と志を重ね合わせ、悲劇の筋書きを打ち潰し、いまだ誰も歩んだことのない新しき時代を創り出したのだ。


 お市は懐のそろばんを指先で優しく撫で、静かに目を閉じた。

 小谷山を渡る澄んだ初冬の風が、二人の重なる小袖の裾を優しく揺らしていた。

 朝倉の長年のしがらみを脱し、富国への道を歩み始めた浅井家。

 古き支配を一新したお市と長政は、深く手を握り合ったまま、暮れゆく湖北の山河を見つめ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。