第35話:経済同盟の締結
第35話:経済同盟の締結
岐阜城本丸御殿の対面所。
お市が畳の上に広げた『近江水陸道筋絵図』と、手元のそろばんが弾き出した算段。
上段の間に坐す織田弾正忠信長は、小袖の上に肩衣をまとったまま身体をゆっくりと起こし、細く切れ上がった瞳でお市の顔と絵図面を交互に見つめていた。
信長はお市の手元にあるそろばんを指で示し、傍らにひれ伏す宿老・丹羽五郎左衛門長秀に向かって、低い声で問いかけた。
「長秀。お前の目で、この市の弾き出した算用を改めよ。……琵琶湖の水運を使い、関所を外して商いを盛んになすことで、本当に我が織田家に莫大な歳入が入るか? 抜かりはないか?」
丹羽長秀はお市の前へ進み出て、美濃紙に清書された算用帳を手にとり、一字一行を食い入るように検分した。
長秀の目が、お市の弾き出した舟運の積載量と、船手銭の計算を追っていく。
やがて、長秀は深く息を吐き出し、信長に向かって顔を上げた。
「お館様……! 筋の通った算段にございます。……陸路の関所を外して馬から丸子船へ荷を替えれば、運賃ははるかに下がり、商人の往来は飛躍的に増えるでありましょう。その船手銭と市場税の上がり……軌道に乗れば、莫大な富が我が織田家の御蔵を潤す見込みにございます」
柴田勝家もまた、武骨な手を膝に置き、低く頷いた。
「お館様……。北近江に兵を留め置いて無駄な兵糧を費やすより、浅井に琵琶湖の水運を任せて商いをさせ、その果実を受け取る方が、我が織田家にとっても遥かに得策にございましょう。武ばかりでは国は治まらぬ、ということか……」
勝家が黙って頷く。長秀が「理はございます」と短く一礼する。藤吉郎が呆然と立ち尽くす。
信長は重臣たちの言葉を聞き届け、再びお市を見つめた。
信長の漆黒の瞳の奥で、冷酷な計算が去り、代わりに覇者としての笑みが、口元に浮かび上がった。
「面白い。……妹よ、お前はただの女子ではないな」
信長は片膝を強く叩き、低い声で言い放った。
「市、お前の提示した水運の策……我が織田家にとっても損はない。浅井を従属させるなどという小細工、すべて取りやめだ。……勝家、長秀、藤吉郎! すぐに筆と美濃紙、我が当主印を用意せよ! 今すぐ、市との間で誓約を交わす!」
「ははっ!」
木下藤吉郎が手早く和紙と硯、朱肉を文机の上へと整えた。
お市は、侍女のすずが捧げ持つ黒漆の文箱から、二巻の和紙の書状を取り出した。
さきに小谷城を発つ前、夫・浅井長政とともに推敲を重ね、当主長政の赤印判をあらかじめ捺しておいた起請文の原本であった。
お市はその書状を信長の前の文机へと差し出した。
「兄上。これは、長政様とお市が連署し、浅井家としての誓いを記した起請文にございます。お改めくだされ」
信長は書状を手にとり、そこに記された条項を一行ずつ音読した。
一、浅井家は、琵琶湖北岸の三港(塩津・海津・今浜)ならびに丸子船の船手衆を掌握し、北陸・東海より入る物資の水上輸送を差配すべし。
一、織田家は、美濃・尾張ならびに南近江の商いの妨げとなる関所を改め、浅井家の舟運ならびに商人の往来を不当に妨げざるべし。
一、琵琶湖の水上流通により得られる船手銭ならびに市場税の一部として、浅井家より織田家へ、毎年相応の銭を納むべし。
信長は一通り読み終えると、不敵な笑みを浮かべた。
「良い文面だ。だが……市、俺からも一つ、付け加えさせてもらうぞ」
信長は朱筆を手に取ると、自ら起請文の余白へ、力強い筆致で一文を書き加えた。
『一、織田家が京都へ入る折、浅井家は必要あらば丸子船を召し集め、織田軍の兵糧ならびに火薬・玉薬その他軍用の備えの優先供給を果たすべし。その代わり、織田家は伊勢ならびに東海からの塩と鉄を、格別の値で浅井家へ優先して回すものとす』
信長は朱筆を置くと、お市を見つめた。
「どうだ、市? これで我が織田家の上洛の兵糧は万全となり、浅井家は朝倉の塩に頼らずとも、伊勢や尾張の塩で領内を潤すことができる。文句はあるまい?」
お市は胸を熱くし、深く頭を下げた。
「何ひとつ文句などございません! 兄上のご配慮、真に感謝に耐えませぬ!」
信長は朱肉をたっぷりとしみ込ませた当主印を手に取り、起請文の末尾へ、力強く押印した。
重々しい赤印影が、白々と和紙の上に輝いた。
続けて、信長は黒々と自筆の花押を躍らせ、その書状をお市の前へと押し返した。
織田家と浅井家の間に、単なる婚姻の従属関係を超えた、互いの利害が一致した両家の秘めたる盟約が、正式に結ばれた瞬間であった。
対面所の緊張はようやくほどけ、信長は手を打ち鳴らし、大声を張り上げた。
「祝宴だ! 今宵は、浅井の名代・お市の来訪と、新しき盟約の成立を祝って、酒を汲み交わすぞ! 勝家、酒を持って参れ!」
「ははっ! 直ちに手筈を整えます!」
やがて、対面所には高価な塗物の膳が運ばれ、清酒の甘い香りが室内に立ち込めた。
信長はお市に対して自ら盃を傾け、清酒を惜しみなく注ぎ入れた。
下段に座す柴田勝家や丹羽長秀ら重臣たちも、お市に対して「お市様のお手腕、まこと恐れ入りました」と心からの敬意を表し、酒を酌み交わしていた。
その宴の最中のことである。
下段の端に座していた木下藤吉郎が、盃を脇に置き、お市の前へと這うようにして進み出てきた。
木下藤吉郎は畳に深く額を擦りつけ、その小柄な身体を震わせながら、熱い眼光をお市へと向けた。
「お市様……! この木下藤吉郎、本日のご交渉……一生涯、忘れることはございませぬ!」
木下藤吉郎の声は、興奮と深い感銘で打たれていた。
「お市様が示されたこの流通の算用、この藤吉郎、魂の底まで刻み込みました! この理、しかと胸に刻み、殿のお役に立てるよう励みます!」
木下藤吉郎の言葉は、お市の胸に深く響いた。
その輝く目を見つめた瞬間、お市の胸の奥を、激しい痛みが走った。
(藤吉郎……)
お市の中で、前世の歴史の記憶が、激しく胸を締め付けた。
本来の歴史――正史が示す未来。
もし自分が前世の記憶を持たず、浅井家に干渉しなければ……この目の前に居る木下藤吉郎という男は、後に織田家の中で頭角を現し、天下人となるはずの男であった。
だが……いま、自分が岐阜城へ乗り込み、信長を動かして織田と浅井の対等同盟を成功させたことで、歴史の筋書きは根底から覆り始めていた。
(ごめんなさい、藤吉郎……。私が歴史を変えてしまったせいで、本来訪れるはずだった『あなたの天下』を……『豊臣秀吉』という未来を、私が奪ってしまうのかもしれない……)
歴史を歪め、一人の男の輝かしい未来を消し去ってしまうことに対する、前世の知性を持つ者としての激しい後ろめたさと切ない恐れ。
お市の手が、小袖の膝の上でかすかに震えた。
――しかし。
お市の脳裏に浮かんでいたのは、小谷城で涙を流していた夫・浅井長政の顔であった。
そして、これから自分と長政との間に生まれてくるはずの、愛しい我が子たちの姿。
もし正史の通りに進めばどうなるか。
長政は小谷城の炎の中で自害し、長政との間に生まれる息子は信長によって殺され、自分は柴田勝家に再婚させられた挙句に北ノ庄で自害し、娘たちも関ヶ原や大坂の陣という悲劇の波に呑み込まれて散っていく。敬愛する兄・信長もまた、本能寺の変で殺されるのだ。
(……いいえ。嫌よ! そんな歴史なんて、絶対にお断りだわ!)
お市の中で、切ない後ろめたさを呑み込む、母として、妻としての激しい生の叫びと覚悟が、炎となって燃え上がった。
(正史を守るために、長政様も、我が子も、信長兄上も死ねというの!? そんな不条理な歴史なら、私がいくらでも悪者になって壊してみせるわ! 藤吉郎……あなたの未来を奪ってしまう申し訳なさはある。……けれど、私は長政様と我が子の命を、絶対に諦めない!)
お市は胸の中の後ろめたさを固い覚悟へと変え、木下藤吉郎に向かって、優しく、どこか切ない笑みを浮かべて語りかけた。
「藤吉郎。そなたがこの流通の理を理解してくれたのなら、私はとても嬉しいですよ。……織田と浅井が創る新しき世の中で、そなたはその知恵を存分に振るい、兄上と織田の家を支える大黒柱となりなさいね」
「お……お市様……! もったいなきお言葉……! この藤吉郎、織田と浅井の未来のために、粉骨砕身してお仕えいたしますぞ!」
木下藤吉郎は感涙を流し、再び畳に頭を擦りつけた。
お市はそっと小さく息を吐き出し、自らの手で藤吉郎の盃に清酒を注いでやった。
信長は豪快に酒を飲み干すと、お市の顔を愛おしそうに見つめ、低く囁いた。
「市。長政の小僧に良く伝えよ。『俺も浅井も、お前の算段に乗った』とな」
「はい、兄上。長政様へ、しかとお伝えいたします」
夜が深まるまで、対面所では和やかな酒宴が続いた。
そこには、互いの知性と力を認め合った主君と盟友、そして新しき時代へ向けた温かな空気が満ちていた。
翌朝。
開け放たれた障子の向こうでは、澄み切った朝日が長良川を黄金色に染め上げていた。
岐阜城の大手門前には、お市一行の乗物と、当主直属の精鋭武者たちが整然と陣取っていた。
柴田勝家や丹羽長秀、木下藤吉郎ら織田家の重臣たちが総出で門前まで見送りに並び、お市に対して恭しく頭を下げていた。
お市は、すずに手を引かれて乗物へと乗り込んだ。
小袖の懐には、信長と交わした誓約書の原本と、あの木製のそろばんが、大切に抱えられていた。
乗物の木格子越しに、お市は遠ざかっていく岐阜城を見上げた。
実の兄・織田信長との命がけの交渉。
そろばんの数字の力によって、対等なる裏の盟約を勝ち取ったのだ。
(これで……これで、朝倉の不当な裏金や塩の断絶などなくても、浅井家は己の力で立っていける……!)
お市の胸の奥から、温かな安堵が広がった。
乗物が揺れ始め、雪の舞う不破関を越えて、北近江・小谷城への帰路を進んでいく。
お市の脳裏に浮かんでいたのは、小谷城の大手門で己の帰りを待っているはずの、愛する夫・浅井長政の誠実な笑顔であった。
あの夜、初夜の御寝所で己の無力を恥じて涙を流していた若当主。
いまや小谷城の主導権を確かなものとし、お市とともに浅井の新しい時代を切り開こうとしている、英主へと歩み始めた長政。
(長政様……待っていてくださいね。浅井家を救う、最高の吉報を持ち帰りましたよ)
お市は懐のそろばんをそっと指先で撫で、静かに目を閉じた。
初冬の冷たい風が乗物の網代を優しく撫で、乗物の車輪が不破関のぬかるんだ雪道を静かに踏みしだいていくだけであった。




