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第34話:水運構想の提案

第34話:水運構想の提案


 シュッ――と、和紙が滑らかに擦れる静かな音が、重苦しく張り詰めていた対面所の空気を撫でた。

 お市は、侍女のすずが捧げ持つ黒漆の文箱から一巻の絵図面を取り出し、兄・織田信長と織田家重臣たちの目の前へ、静かに広げた。

 畳の上に白々と広がったのは、お市が自らの手で描き上げた『近江水陸道筋絵図』であった。

 美濃、尾張、北近江、南近江、そして京都や摂津・堺に至る街道と水路の線が、鮮やかな墨と朱の線で克明に記されていた。

 すずが両端を恭しく手で押さえ、お市は小袖の懐から、そろばんと一本の朱筆を取り出し、文机の上に整然と並べた。


 上段の間に坐す織田信長は、肘掛けから身体を乗り出し、細く切れ上がった瞳で、畳の上の絵図面を凝視した。

 下段にひれ伏していた柴田権六勝家、丹羽五郎左衛門長秀、そして木下藤吉郎ら重臣たちもまた、思わず身を乗り出し、お市の手元を注視していた。

 信長はお市から視線を逸らさず、低い声で促した。


「市……お前が持参したその絵図面とそろばん……それが、我が織田家に『従属以上の利』をもたらすという答えか?」

「左様でございます、兄上」


 お市は覚悟を秘めた凛とした佇まいで、朱筆を手に取り、絵図面の上に描かれた北近江の地――小谷と琵琶湖を静かに指し示した。


「兄上。いま、朝倉義景が敦賀の関所を閉ざし、北近江への塩や鉄の供給を止めたことで、北近江は物資の断絶に苦しんでおります。……ですが兄上、これは浅井家にとっての危機であると同時に、我が織田家にとっても、天下を揺るがす『千載一遇の好機』なのですよ」

「好機、だと……?」

 信長が片眉を跳ね上げた。お市は朱筆を走らせ、美濃・岐阜から関ヶ原を越え、北近江へと続く東国街道の線を朱色で太く結んでみせた。


「朝倉が北陸からの関所を閉ざしたのならば、我が浅井家は、美濃や尾張、伊勢より集まる塩や物資を、北近江へ一気に買い入れます。そして……その買い入れた物資を、北近江の『琵琶湖北岸の港』へと運び込むのです」


 お市は朱筆で、琵琶湖の最北端に位置する三つの港――塩津、海津、今浜の地を強く丸で囲んでみせた。


「塩津、海津、そして今浜……。長政様はすでに、この琵琶湖北岸の港と、琵琶湖を往来する『丸子船』の多くの船手衆を従えております。馬一頭が運べる荷の量は高々二石から三石に過ぎませんが、丸子船一艘が運べる荷の量は、一時に百石から二百石ほど……! 馬百頭分にも及ぶ物資を、たった数人の船手で一気に水上へ浮かべることができるのです!」


 お市の指先が、朱筆で塩津の港から琵琶湖の水上を南下し、南近江の大津・坂本、そして京都や摂津・堺へと続く青い水路の線を、一気に描き抜いた。


「陸路を使えば何日もかかり、関所の関銭で高騰する塩や米、鉄が……丸子船による琵琶湖の船運ならば、はるかに多くの量を、はるかに少ない費えで、京都や上方へと流し込むことができます。北近江は、北陸や東国の物資を、日本の中心である京・堺へと流し込むための『水上の要衝』そのものなのですよ!」


 お市はそろばんを左手に持ち、そろばんの木玉を素早い手つきで弾き始めた。


 ――しかし。

 お市の鮮やかな提案に対し、下段に座していた織田家の宿老・丹羽五郎左衛門長秀が、眉をひそめて手を挙げたのだ。


「お市様、お言葉を遮る無礼をお許しくだされ。……ですが、そのご構想には大きな難がございます」


 長秀の冷ややかな指摘。柴田勝家もまた、深く首を振って長秀の言葉に頷いた。

 長秀はお市の描いた絵図面を指差し、現実的な難題を突きつけた。


「第一に、琵琶湖の水運には、古くから比叡山延暦寺や、南近江の六角家、そして座といった古き勢力が、関所や船手銭の既得権益を強固に張り巡らせております。浅井家が勝手に丸子船を動かそうとすれば、寺社や座の者どもが一斉に妨害を仕掛け、水路は一瞬にして遮断されましょう。……第二に、我が織田領である伊勢や尾張の塩や鉄を浅井へ優先して回せば、美濃や尾張の塩問屋が割を食い、我が織田領内の商業が混乱いたしますぞ」


 柴田勝家も声を潜めて、上段の信長に向かい進言した。

「長秀の申す通りにございます、お館様。浅井の利のために、我が織田領の塩を安値で差し出し、寺社と無用な戦を起こすなど……あまりにも我が織田家にとって危険が大きすぎまする。船は焼かれ、港は奪われるやも知れませぬ」


 織田家の重臣たちからの、当然にして手酷い反論と難色。

 お市が提示した水運の策の甘さを突く、生々しい現実論であった。

 上段の信長もまた、肘掛けに手をおいたまま、お市に向かって冷たい眼光を投げかけた。


「長秀の言う通りだ、市。お前の描いた図絵は綺麗だが……寺社の関所をいかにして打ち払い、尾張の商人にいかなる得をさせるのか。その答えがなければ、お前の絵解きなどただの夢物語に過ぎんぞ。市、その船を誰が守る?」


 室内に、息詰まるような緊張が走り抜けた。

 お市のお世話係のすずが、重臣たちの反論に生きた心地もせず小さくなっていた。


 しかし――お市は微動だにせず、そろばんを構えたまま、不敵な笑みを口元にたたえて言い返したのだ。


「丹羽殿、柴田殿。そして兄上。……その難題こそが、我が織田家と浅井家が手を結ぶ『真の理由』なのではありませんか!」


「何……!?」

 丹羽長秀が目を見開いた。お市はそろばんの玉をぱちりと弾き、丹羽長秀の懸念を真っ向から打ち砕いて見せた。


「丹羽殿。比叡山や古い座が握る関所利権など……我が兄・信長が上洛を果たされた折、上洛の勢いを以て妨げとなる関所を打ち崩し、新たな城下より楽市を広げられれば、古きしがらみは次第に力を失いましょう。織田家が陸の古い特権を打ち払い、浅井家が琵琶湖の湖上を押さえ……! 二つの家が上下一体となって動いてこそ、古き座や寺社の妨害など、打ち払えましょう!」


 さらにお市は、柴田勝家へ向かって不敵に言い放った。


「柴田殿。尾張の塩問屋が割を食うとお仰るのですか? 逆ですよ! 尾張や伊勢の商人は、これまで狭い東海の中でしか塩を売ることができませんでした。ですが、浅井の丸子船と結びつけば、伊勢の塩を上方の京や堺という商いの集まる地へ、一度に千石余という規模で売り広めることができるのです! 割を食うどころか、尾張や伊勢の塩問屋は、未だかつてない莫大な利を得て富み、商人どもは競って荷を運び、その運上は自然と我が織田家の御蔵へ積まれましょう!」


 丹羽長秀は言葉を失い、柴田勝家は「な……なにっ!?」と絶句して目を丸くした。

 お市は重臣たちの懸念を、より大きな利へと反転させてみせたのだ。


 そして、下段にひれ伏していた木下藤吉郎は、全身に激しい震えを覚えていた。

 木下藤吉郎はお市の手元にある絵図面とそろばんを見つめ、心の中で感嘆の叫びを上げていた。


(これを殿はどこまで見通しておられた……。す……凄まじい……! なんというお方だ、お市様は……!)


 主君・信長が進める楽市。それは単に城下の商人を優遇するだけの施策ではないと思っていたが……お市はそれを、一国の領国支配を超え、琵琶湖の水運と天下へ広がる『商いの道筋』へと発展させてみせたのだ。

 武力で領地を奪うことよりも、荷の往来を押さえ、関所を外して商いを盛んにすることこそが、国を富ませ、時代を動かす最大の鍵となる――お市が示したこの冷徹な道理は、木下藤吉郎という男の胸の中に、深々とした驚愕とともに力強く刻み込まれたのであった。


 対面所は静まり返った。

 お市が提示した水運の策。

 重臣たちの激しい反論を返してみせたお市は、そろばんをそっと膝の上に置き、背筋を伸ばして、兄・信長を見つめた。


「兄上。浅井家を力で従属させ、北近江に兵と金を浪費する道を選ぶか……。それとも、浅井家を対等なる盟友として琵琶湖の水運を握らせ、莫大な富と万全の兵糧道を手に入れるか……。我が織田家にとって、どちらが『誠の利』か……お決めくだされ」


 お市の声は、静かでありながら、揺るぎない自信に満ちあふれていた。


 上段の間に坐す織田信長は、微動だにせず、お市の描いた絵図面と、手元のそろばんを見つめ続けていた。

 信長の漆黒の瞳の奥で、幾重もの算段と、圧倒的な冷徹な思考が駆け巡っていた。


 やがて――信長は静かに目をとじた。

 深く、重い息を吐き出すと、ゆっくりと目を開いた。


 信長の整った顔に、ふっと、過去に誰も見たことのないような、心底満足げで不敵な笑みが浮かび上がったのだ。


 信長は片膝を強く叩き、対面所の天井を揺らすほどの、朗々とした声で言い放った。


「――面白い。妹よ、お前はただの女子ではないな」


 信長の声から、冷酷な圧迫感は完全に消え去っていた。


「浅井を従属させるなどという小細工、取りやめだ! 市、お前の提示した水運の策……よかろう。その策でゆけ!」


 信長の口から発せられた、受諾の言葉。

 お市は胸の中で熱い安堵の吐息をつき、静かに、優美に頭を下げた。


 天下の覇者・織田信長を、算用でもって納得させ、対等なる同盟を認めさせた瞬間であった。

 開け放たれた障子の向こうでは、冬風が長良川を渡っていた。

 岐阜城の対面所で結ばれたこの合意は、浅井と織田の未来を、そして天下の荷の巡りを、根底から塗り替えるための大きな一歩となったのであった。

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