第33話:論理での対抗
第33話:論理での対抗
木下藤吉郎は、息を殺して下段の畳にひれ伏しながら、上段の間と下段中央の間に漂う凄まじい殺気と不気味な緊張感を盗み見ていた。
岐阜城本丸御殿の対面所。
開け放たれた障子から吹き込む初冬の寒風が、障子紙を微かに鳴らす中、室内には凍りつくような静寂が満ちていた。
主君・織田信長が放った「浅井は我が織田家の軍門に下れ。さもなくば叩き潰すまでだ」という絶大なる威圧。
それに対し、下段の中央に座す妹・お市は、一歩も退くことなく正面から「承服いたしかねます」と言い切ったのだ。
傍らに控える柴田権六勝家や、丹羽五郎左衛門長秀ら重臣たちも、思わず息を呑み、太刀の柄を固く握りしめていた。信長の絶対の権威に対し、砂粒ほどの躊躇いもなく拒絶の言葉を口にした者など、過去に一人として居なかったからである。
だが、上段の間に坐す信長が浮かべた反応は、単なる激怒ではなかった。
信長は片膝を立てたままゆっくりと身体を起こし、細く切れ上がった二つの瞳を不気味に細めた。
その瞳に宿っていたのは、目の前に座す妹に対する、底知れぬ強い不審であった。
「……市」
信長の声は、岩を擦るように低く、室内の空気を重く沈ませた。
信長はお市の手元にあるそろばんと、黒漆の文箱を冷たい眼光で睨みつけ、静かに言葉を削ぎ落とした。
「お前……本当に市か?」
冷酷な、刺すような問いかけであった。
信長は一歩前へ身を乗り出し、お市を射殺すような圧力で見下ろした。
「さきに岐阜の城を発ち、浅井へ嫁いでいった折のお前は……ただ可憐で、武家の娘として大人しく俺の命に従う妹であったはずだ。商人の道具であるそろばんを手にし、名代などと称して一人で岐阜へ乗り込んでくるような娘ではなかったぞ。……何ゆえそこまで変わった、市。まるで別人が憑り移ったような佇まいではないか」
信長の目の奥に、人間を値踏みする冷酷な刃が光った。
「言ってみよ、市。お前は浅井の長政か、あるいは小谷城の誰ぞ知恵者に知恵を吹き込まれ、浅井の手先となって、ここで俺を言いくるめようとしておるのか? もしそうであるなら……俺はお前を、織田の家を裏切った敵として、この場で斬るぞ」
信長の背後に控える柴田勝家が、太刀の柄に手をかけ、生唾を呑み込んだ。
信長の指摘は、至極当然の疑問であった。
信長が知る「妹・お市」の姿と、いま目の前でそろばんを構え、一切の怯えもなく信長を見つめ返す「お市」の姿は、あまりにも乖離していたのだ。浅井の裏にいる知恵者に操られた人形ではないかという疑念。
一言でも答えを誤れば、実の妹であっても即座に不忠の者として手討ちにされかねない、極限の死線であった。
お市のお世話係として後ろに控えていた侍女のすずは、あまりの恐怖に血の気を失い、畳にひれ伏して激しく身体を震わせた。
しかし――お市は顔色ひとつ変えなかった。
お市は朱色の小袖の裾を滑らかに整え、信長の鋭い眼光を、逃げることなく真っ直ぐに見つめ返したのだ。
「誰の吹き込みでもございません、兄上」
お市の声は、澄み切って凛としていた。
「さきに小谷城へ嫁ぎ……あの古く腐りかけた城の奥で、当主追放を企む老臣どもの強欲と、朝倉の裏金によって浅井の家が滅びゆく淵を見つめた折……私は、ただ恐怖に震えて死を待つだけの惨めな姫で居ることを拒絶いたしました。浅井の男どもに頼るのではなく、私自身がこの手でそろばんを握り、小谷城の勘定を改め、禍根を叩き潰したのです」
「ほう……」
信長が片眉を跳ね上げた。お市は胸を張り、言葉を重ねた。
「左様でございます。私は織田家の娘、お市にございます。夫・長政様が老臣どもの脅迫に苦しみ、浅井の家が破滅に向かうのを目の当たりにした時……浅井で生き抜くうちに、ようやく織田の家の覚悟が定まりました。兄上……この身に流れる血が、織田の血でないとでも仰るのですか」
対面所に、息を呑むような静寂が広がった。
下段に控える藤吉郎も、思わず息を呑んだ。
お市は、「自分は操られているのではない」という真実を、信長と同じ圧倒的な気概と覚悟を以て証明してみせたのだ。
信長は固く口を結び、お市の顔を食い入るように見つめ続けた。
やがて……信長の引き締まった口元が、ふっと歪んだ。
「く……くくく……ははははははっ!」
対面所の梁を揺らすほどの、豪快にして冷酷な笑い声が、信長の口から響き渡った。
信長はお市を見下ろし、心底愉快そうに目を輝かせた。
「くく……面白い。なるほど。借り物の理ではないらしい。お前自身の理か」
疑念は完全には消えぬ。しかし興味は勝っていた。
信長は身を乗り出し、鷹のような眼光でお市を射抜いた。
「……だが、まだ足りぬ。お前を『浅井の名代』として認めるには、もう一段の証がいる。……さきにお前は、浅井を従属させることが我が織田家にとって『莫大な不利益』をもたらすと申したな。その理屈を聞かせてもらおうか。証明してみせよ」
信長はついに、お市の理を聞く姿勢を示した。
お市は深く一礼すると、手元に置いたそろばんの木玉を、指先で力強く弾いた。
「感謝いたします、兄上。では、まずは一つ、損得勘定から申し上げます」
お市はそろばんを左手に持ち、冷徹沈着に反論を展開した。
「第一に、北近江という土地の仕組みをご一考くださいませ。浅井領は、一国一権の地ではございません。古くから各自の領地と兵を抱える国人衆が互いに勢力を保って成り立つ土地でございます。……仮に織田家が武力を以て浅井家を従属させ、北近江を直轄地としたといたしましょう。その時、北近江の諸将はどう思うとお考えですか?」
お市はそろばんの玉を叩き置いた。
勝家の腕が止まる。長秀が静かに目を細めた。
「彼らは『次は己の領地と権益が織田に奪われる』と激しい恐怖と不信を抱きます。表向きは織田の武力に屈して頭を下げたとしても、腹の底では常に織田に対する反乱の機会を窺うことでしょう。さきに私が叩き潰した赤尾や海北と同じく、第二、第三の不忠の者が、必ずや浅井の旧領から湧き出ることになります」
お市の指摘は、中世の国人社会の本質を突いたものであった。
織田家の重臣たちにも、その理屈は理解できた。
お市は視線を緩めず、さらに具体的な計算を叩きつけた。
「そうなれば、我が織田家は、上洛や東国の強敵への備えに集中すべき貴重な兵力を割き、北近江に常に少なくとも三千の兵を留め置かねばならなくなります。三千の兵を一年養えば、その兵糧だけでも二万石以上。城代の配置、奉行人の派遣、国人どもをなだめるための出費……。北近江という荒れた土地を直接治めるために費やされる莫大な金銭と手間は、浅井から得られるわずかな年貢など一瞬にして吹き飛ばしてしまいますぞ」
信長の眉がわずかに動いた。
お市は立ち上がり、信長に向かって凛とした声を響かせた。
「上洛を果たし、天下を布武せんとする我が兄・信長にとって、北近江の抑え込みに貴重な兵と金と時間を費やすことなど……あまりにも損失が大きく、割に合いませぬ!」
対面所に、しんと静まり返った静寂が広がった。
下段にひれ伏していた柴田勝家が、腕を組み直して丹羽長秀と目を合わせた。
丹羽長秀もまた、無言で深く考え込むしかなかった。
確かに、北近江の国人どもは気ままで離反しやすく、力でねじ伏せればねじ伏せるほど、裏で朝倉や一向一揆と通じて反乱を起こす危険が高い土地柄であったのだ。そこへ常駐軍を置く出費と負担は、織田家にとっても頭の痛い問題であった。
お市が突いたのは、主君・信長が何よりも嫌う「無駄な出費」と「損失の拡大」であったのだ。
上段の間に坐す信長は、身を乗り出し、鷹のような眼光でお市を射抜いた。
「……ふん、相変わらず冴えた計算だ。たしかに、扱いにくい国人どもを直接抑え込むために兵と金を浪費するのは、俺の好むところではない。……だが、市」
信長の声に、覇者としての絶対の重みが戻っていた。
「ならば言ってみよ。浅井を従属させず、直轄にもせず……お前はいかにして我が織田家に『従属以上の利』を生むと言うのだ?」
信長の鋭い問いかけ。
それは、お市を対等な交渉相手として認め始め、お市が携えてきた「提案」を真剣に聞くという、信長からの無言の許しであった。
お市はそっと小袖の裾を払い、文机の上の黒漆の文箱へと優雅に手を伸ばした。
お市の口元に、不敵で美しき笑みが浮かんだ。
「答えは、すべてここに用意してございます、兄上」
お市の手によって、黒漆の文箱の蓋が、静かに開け放たれた。
そこに眠る一巻の絵図面と、そろばんが弾き出す利を生む算段。
織田と浅井の行く末を左右する策の提示が、いよいよ始まろうとしていた。
対面所を吹き抜ける冬の風が、遠く岐阜城の瓦を揺らしていた。
織田家の重臣たちが、固唾を呑んでお市の手元を見守る中――お市はゆっくりと絵図面へ手を伸ばした。




