第32話:岐阜城の信長
第32話:岐阜城の信長
長良川の清流を眼下に臨む岐阜の城下町は、初冬の寒気を吹き飛ばすような烈しい熱気と活気に満ちあふれていた。
不破関を越え、美濃国へと足を踏み入れたお市一行の眼前に広がったのは、北近江の荒涼とした農村とはあまりにもかけ離れた、新しき時代の光景であった。
旧名・井の口と呼ばれた城下町は、織田信長の手によって「岐阜」と改められ、街道沿いには楽市を告げる制札が立ち、町人たちは関銭や座のしがらみを気にすることなく思い思いに店を開いていた。
立ち並ぶ問屋や露店には、伊勢湾からの塩や海産物、尾張の布地、京都の調度品、さらには南蛮渡来の硝子器や葡萄酒が所狭しと並べられ、京や伊勢、尾張、近江、美濃などから集まった商人たちの威勢の良い掛け声が行き交っていた。
乗物の木格子越しにその光景を見つめていたお市は、胸の中で感嘆の息を漏らした。
(これこそが……織田信長が創り出した自由な商いの道……!)
お市の中で、前世で培った中世の知識が、目の前の光景を冷静に観察していた。
信長は、旧来の座や寺社勢力が握っていた不当な関所利権を力づくで撤廃し、誰もが自由に商いを行える環境を整えた。その結果、美濃・尾張をはじめ近国の富と物資が岐阜へと流れ込み、織田家に莫大な富と活力をもたらしていたのだ。
城下町を抜け、お市一行は金華山の麓へと到達した。
標高三百二十九メートルの金華山(旧・稲葉山)は、切り立った断崖絶壁が天を突く、凄まじい天然の要害であった。その急峻な山頂には、壮麗な御殿と堅固な曲輪が築かれ、その威容は遠く城下からも望まれた。
お市は、当主直属の精鋭武者たちと侍女のすずを従え、石垣の急坂――七曲りと呼ばれる登城路を、一歩一歩上っていった。
山頂の本丸に近づくにつれ、立ち並ぶ警護の武者たちの身なりと立ち振る舞いは、洗練され、隙のない凄みを帯びていた。
やがて、お市は本丸御殿の対面所へと案内された。
対面所の二重の障子が開け放たれた瞬間、お市の肌を刺したのは、部屋全体を押し潰すかのような、不気味で苛烈な威圧感であった。
広大な室内の床には上質な畳が敷き詰められ、壁には唐絵や山水図を配した障壁が描かれていた。
窓からは、眼下に広がる濃尾平野と長良川の雄大な流れが一望でき、まるで天下を見下ろす御殿であった。
部屋の左右には、織田家の重臣たち――柴田権六勝家、冷静沈着な丹羽五郎左衛門長秀、そして少し下座に控えてお市の様子を観察する木下藤吉郎らの姿があった。
お市が入室する直前、重臣たちの間では、浅井家に対する不穏な議論が交わされていた。
柴田勝家が、太刀の柄を固く握り締め、上段の信長に向かって声を潜めて進言していたのだ。
「お館様。風の報せによれば、浅井の長政めはお市様の手を借りて老臣どもを追放し、朝倉との裏金を絶ったとか。おかげで越前の朝倉義景が激怒し、敦賀からの塩を完全に止めたようでございます。……しかしお館様、浅井が塩に困って我が織田家に救いを求めてきたとしても、安易に手を差し伸べるのは不都合にございますぞ」
丹羽長秀もまた、冷静に言葉を重ねた。
「勝家の申す通りにございます。朝倉を切ったからとて、浅井が我が織田家と同等の同盟国面をすることは許されませぬ。物資の途絶に苦しむ浅井を救うのであれば、この機会に長政に人質を差し出させ、北近江の要地を差し出させるべきかと存じます」
織田家の重臣たちによる、冷徹な現実論と強硬論。
信長は彼らの進言を無言で聞きながら、ただ不敵な笑みを浮かべていた。
そこへ、お市が静かに姿を現したのだ。
お市の視線は、下段に並ぶ織田の重臣たちを一瞬で通り抜け、上段の間の中心に坐す「一人の男」へと吸い寄せられた。
――織田弾正忠信長。
お市の実の兄であり、天下布武を掲げる人を従える天性の威風を放つ男。
信長は、肩衣に朱色の小袖を纏い、肘掛けに斜めに肘を突き、片膝を立てた破天荒な姿で坐していた。
その佇まいから放たれる覇気は、まるで獲物を前にした猛虎のごとく鋭く、室内の空気を重く沈ませていた。
面立ちは驚くほど整い、高い鼻筋と引き締まった唇。そして何よりも恐ろしかったのは、その「瞳」であった。
細く切れ上がった二つの瞳は、人間の感情や甘えを一切削ぎ落とした、利害のみを量る冷徹な光を放っていたのだ。
「妹よ。よく参ったな」
信長の声が、対面所の天井に低く反響した。
お市は小袖の裾を滑らかに引き、信長の目の前、下段の中央へ静かに膝を突いた。すずが畏まって後ろに控え、黒漆の文箱を畳の上に置いた。
「お久しぶりでございます、兄上。……浅井の家より、ご挨拶に参りました」
お市が気品に満ちた礼を執ると、信長は鼻でふっと冷たい笑みを漏らし、鷹のような鋭い眼光でお市を見下ろした。
「挨拶、か。遠路、雪の不破関を越えてわざわざ挨拶だけに来るお前ではあるまい。……浅井の長政はどうした。嫁いで早々、妻を一人で追い出すほど甲斐性のない男か?」
信長の言葉には、妹に対する甘さなど微塵もなく、浅井家に対するあからさまな試すような冷たさが混じっていた。
お市は表情を変えず、静かに答えた。
「長政様は、北近江の領国支配に余念がございませぬ。本日は、長政様の名代として、このお市が自らの意思で参上いたしました」
「名代、だと……?」
信長は片眉を跳ね上げ、初めてお市の顔を正面から注視した。
信長はお市の手元にあるそろばんと、黒漆の文箱に視線を走らせると、冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「ほう……。風の報せは受けておるぞ、市。小谷城で老臣どもを叩き潰し、朝倉からの裏金を暴いて浅井の家中をまとめ上げたとな。お前が浅井の勘定を改め、当主追放の陰謀を叩き潰したという話……なかなか見事な立ち回りであったな」
「兄上の耳に届いておりましたか」
「当たり前だ。近江のことは逐一耳へ入っておる。……だが、市」
笑みが消える。
室内の空気が凍る。
肘掛けから身体を起こした信長の瞳が、お市を射抜いた。
「老臣どもを追い払い、朝倉との裏金を絶ったのは良い。……だが、そのおかげで越前の朝倉義景が激怒し、敦賀からの塩や鉄の供給を完全に止められたであろう?」
お市は息を呑んだ。
一言で、こちらの窮地を見抜かれた。
信長は冷酷な言葉を、容赦なくお市へと叩きつけた。
「朝倉からの塩が止まり、浅井領内は干上がっておるはずだ。……市、もしお前が、浅井の窮地を救ってくれと、俺に泣きつきに来たのならば……大きな間違いだぞ」
冷たい眼光でお市を威圧し、言い放った。
「俺は、得にならぬことはせぬ。柴田や丹羽も申しておったが、浅井が朝倉の塩を失い、我が織田家に物資を乞うというのであれば……条件は一つだ」
一歩身を乗り出し、室内の全重臣が息を呑むほどの、凄まじい要求を突きつけた。
「浅井家は今すぐ我が織田家の軍門に下れ! 浅井の領地はすべて俺に差し出せ! 長政は俺の家臣となれ! さもなくば……朝倉ともども、浅井の家を叩き潰すまでだ!」
絶大なる通告であった。
物資の断絶につけ込み、浅井家を完全に己の支配下に組み込もうという、冷徹きわまる織田家の利。
実の妹であろうと例外はない――それが、織田信長の真の姿であった。
対面所に、息の詰まるような殺気が満ちあふれた。
すずが思わず息を呑む。勝家が薄く笑う。長秀が目を閉じる。誰もが、お市が屈すると思った。
お市もまた、胸の奥で心臓が早鐘のように激しく打つのを感じていた。
(怖い。逃げたい。喉が張り付き、膝が震えそうになる。……それでも。)
一歩間違えれば、自分も浅井家も、この場で叩き潰される。その現実がお市を苛んだ。
しかし――お市は小袖の袖の中で、そろばんを固く握りしめた。
(兄上は情では動かない。ならば、利で動かすしかない。)
ここで怯えて泣き寝入りすれば、浅井家は織田の配下となり、歴史の渦の中に飲み込まれて消え去るのみ。
私は、この男と対等に渡り合うために、そろばんを携えて岐阜城へ来たのだ!
お市は、深く、静かに息を吐き出した。
身体の力みを完全に解くと、すっと背筋を静かに伸ばした。
お市の瞳から恐怖と動揺が完全に消え去り、そこに宿ったのは、信長の眼光すら跳ね返すほどの、氷のように研ぎ澄まされた冷徹な光であった。
お市はゆっくりと顔を上げ、兄・信長の鋭い眼光を、正面から真っ直ぐに見つめ返した。
「――兄上のお言葉、承服いたしかねます」
静かな、しかし凛と通り抜ける声であった。
室内を包んだのは、張り詰めた弓の弦が今にも弾け飛びそうな、冷ややかな静寂であった。
金華山の山頂を吹き抜ける冬の風が、遠く天守の瓦を鳴らしている。
勝家が目を見開く。長秀が息を呑む。誰一人、信長へ正面から反論する者など見たことがない。まして妹が。
お市は一拍置き、静かに言葉を継いだ。
「兄上は、一番大切なものを見落としておいでです」
信長の片眉が、ぴくりと動いた。




