第31話:物資断絶の危機
第31話:物資断絶の危機
越前との国境を画す深坂峠に、初冬の冷たいみぞれが容赦なく打ちつけていた。
かつて連日のように越前からの塩俵や米俵を積んだ荷馬が行き交っていた北国街道の関所は、いまや重々しい竹矢来と丸太の木柵によって固く閉ざされていた。
柵の向こうには、朝倉家の旗印を掲げた数百の武者と足軽たちが立ち並び、北近江へ向かう一切の商人や荷馬の通行を、槍を構えて遮断していたのだ。
さきにお市の手によって赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちの私腹と裏金工作が暴かれ、朝倉家からの手形が大評定の場で破棄され、白日の下に晒された報せは、一乗谷の朝倉義景のもとへと届いていた。
己の手先として飼い慣らしていた老臣たちが失脚し、浅井家が長政を中心にまとまり始めたことに激怒した朝倉義景は、直ちに越前・敦賀の代官らへ急使を走らせ、北近江へ向かう荷駄の通行を禁じ、敦賀口・今庄口の諸関を固く閉ざした。
敦賀や今庄からの塩、米、鉄、海産物の供給を力づくで停止させたのだ。
小谷城本丸の奥書院。
当主・浅井長政、お市のほか、新しく任じられた勘定方、国人衆の代表である阿閉淡路守貞征、そして城下の豪商・大野屋宗兵衛が集まり、重々しい緊急の協議が開かれていた。
文机の上に置かれた『関所留め控え』と『兵糧・塩差配帳』を前に、勘定方が青ざめた顔で報告を口にした。
「当主様、お市様……! 北国街道の主要な関所である深坂峠、ならびに柳ヶ瀬峠が、朝倉方の軍勢によって遮断されました! 敦賀からの塩や鉄の荷は、一俵たりとも北近江へ入らなくなってございます!」
阿閉貞征が拳を握りしめ、苦い顔で畳を叩いた。
「朝倉義景め……! 裏金工作が暴かれた不満に、浅井領全体の胃袋を干上がらせて屈服させようという腹か! なんと卑劣な……!」
長政は眉根を固く寄せ、文机の上の帳簿を見つめた。
「大野屋、現在の城下ならびに領内の塩の備えはどれほどだ? さきに赤尾や海北の蔵から召し上げた塩と米で、当面は持ちこたえられようが……」
大野屋宗兵衛は、手元の帳面を開きながら、慎重に答えた。
「ははっ……。さきに回収いたしました塩の大半は市と扶持へ回しましたが、この一月の間、領内の関所で新たに納められた関銭と、年貢米を売り払った代銀で塩を買い集め、蓄えを積み増してまいりました。現時点では城下も領内も、塩不足の混乱は起きておりませぬ。……しかしながら、当主様」
大野屋の顔に、暗い陰影が差した。
「去年までの売買を書き付けた帳面によれば、浅井領全体が一年に消費いたします塩の量は、安く見積もっても二千俵を超えます。いま手元にございます蓄えの塩の残りは、およそ千俵余り。……もし、朝倉様からの塩の供給が途絶えたままとなれば、来春の雪解けの頃には、我が浅井領の塩は一粒残らず底を突きますぞ」
「来春……! わずか半年で底を突くというのか……!」
阿閉貞征が絶句した。
塩は人間の生命を維持し、兵糧や保存食を作るための不可欠な生命線である。もし来春までに新たな塩の供給源を確保できなければ、北近江は再び深刻な塩飢饉に見舞われ、領民は飢え、兵たちは塩不足で体力を奪われて戦うことすらできなくなる。
老臣たちを処分し、新体制を整えたばかりの浅井家にとって、この物資の断絶は、国の存亡に関わる重大な試練であったのだ。
奥書院に、重苦しい沈黙が流れた。
しかし、その混乱の席で、文机の前に坐すお市だけは、少しも動じることなく、静かな美しさをたたえていた。
お市の手の中で、そろばんの木玉が、ぱちりと澄んだ音を立てて弾かれた。
「皆様方、何を焦ることがございましょう」
お市の声は、澄み切って凛としていた。
お市は文机の上に、大きな『近江国諸道絵図』を静かに広げてみせた。
すずが手早く行灯の火を寄せ、絵図面に描かれた琵琶湖と街道筋が、仄かに浮かび上がった。
「朝倉義景が北の関所を閉ざしたのならば……北に頼るのをやめれば良いだけのことにございます」
お市の言葉に、阿閉貞征や勘定方たちが一斉に目を丸くした。
「お……お市様! 北に頼らぬとは……一体どういうことにございますか!? 日本海からの塩は、敦賀を経由して入るのが最大の流通路! 他にどこから塩を手に入れようとお仰るのですか!」
お市は筆を手に取り、絵図面の上に描かれた北近江から南へ延びる街道と水路の線を、筆先でなぞってみせた。
「南と東です」
お市の声が、力強く室内に響いた。
「北陸からの荷が閉ざされたのならば、我が浅井家は、南近江、美濃、尾張、そして上方の町を結ぶ『新たな南の道』を開拓すれば良いのです! 美濃や尾張には、伊勢湾からの塩や東海からの物資が溢れております。さらに、南近江の琵琶湖水運を掌握すれば、上方からの塩や鉄が、はるかに安く北近江へ流れ込んでまいります!」
大野屋宗兵衛がハッと目を見開き、膝を叩いた。
「おお……! 伊勢の塩! 尾張の塩でございますか! 確かに、不破の関や琵琶湖の水路を使えば、北陸の塩に頼らずとも、北近江へ多くの塩を運び込むことが可能にございます!」
だが、阿閉貞征がすぐに不安そうに首を振った。
「しかし……美濃や尾張の塩を北近江へ流すには、織田信長様のご協力を得ねばならぬ。関銭を免じ、琵琶湖の水運を浅井に開いていただくなど、織田家にとっても重大な決断……。織田様がそのような申し出を受け入れられましょうか?」
「必ず受け入れさせてみせます」
お市は迷いなく言い切った。
お市は立ち上がり、朱色の小袖の裾をさっと払うと、当主・長政の目を真っ直ぐに見つめた。
「長政様。私が直ちに岐阜城へ赴き、兄上と直談判をしてまいります」
「市……!? お前が……岐阜城へ行くというのか!?」
長政は驚きのあまり立ち上がりかけた。
だが、長政はすぐにお市の提案に手放しで同意したわけではなかった。長政は眉根を固く寄せ、お市の肩を強く掴んで首を振った。
「市、待て! 岐阜城へ出向くなど、あまりにも危険だ! 信長殿は……単なる妹の甘えなどで動くような甘い男ではないぞ! 越前の塩が止まったからとて、織田家に都合の良い条件で塩を恵んでくれるはずがない。信長殿は苛烈にして冷酷、国益のためなら情に流されぬ御方なのだ。お前に万一のことがあれば……!」
長政のお市を心から案じる強い懸念と、信長という男の恐ろしさを知るゆえの慎重な言い分であった。
お市は長政の制止を受け止め、長政の無骨な両手を、己の温かな手で優しく包み込んだ。
お市の瞳に宿っていたのは、前世で培った高度な知性と、己の夫を救うための確固たる道理であった。
「長政様。ご心配はもっともにございます。ですが……兄上は冷酷にして、利あらば動く御方であるからこそ……私は勝てるのです」
「何……? 利あらば動くからこそ、だと……?」
長政が不審そうに目を細めた。お市は長政の耳元で静かに語りかけた。
「兄上は、情や義理という曖昧な言葉には一文の価値も置きません。単に『助けてほしい』と泣きついても、冷たく追い返されるか、浅井家を屈服させようとするでしょう。……ですが兄上は、算用が立つ話には、必ず耳を貸す男なのです」
お市は長政の目を真っ直ぐに見つめ返し、言葉を重ねた。
「私が携えてまいる『近江荷道の策』――琵琶湖の水運を浅井が握り、領内の関銭を改め、荷の往来を盛んにいたせば、織田家にとっても大きな利が生まれます。兄上が利によって動く男だからこそ、勘定でもって兄上を動かすことができるのです」
長政は息を呑み、お市の言葉をじっと反芻した。
信長という男の恐ろしさ、その冷徹な本性。……お市は、実の兄のその冷酷な性分を完全に理解した上で、その利あらば動く性質を逆手にとって交渉のテーブルにつかせようとしているのだ。
「信長殿の……あの冷徹なお考えを逆手に取るというわけか……。……なるほど、そういうことか!」
長政の瞳に、深い感服の光が走った。長政の胸にあった迷いと懸念が綺麗に消え去り、当主としての力強い覚悟が宿った。
「分かった、市! お前のその理と覚悟を信じよう! 当主直属の精鋭の武者三十名を伴わせる! 岐阜への道中、くれぐれも気をつけてゆけよ!」
「はい、長政様! 必ずや、浅井家を救う吉報を持ち帰ってまいります!」
決断は下された。
お市は直ちに身支度を整え、すずとともに旅立ちの準備を終えた。
翌朝。小谷城の大手門前には、初冬の冷たい朝霧が立ち込めていた。
門前には、当主直属の精鋭武者三十名が馬を揃えて待機していた。お市の差配で米を扶持として与え、塩もまた支給された頼もしい武者たちである。
長政は大手門の外までお市を見送り、その細い肩を愛おしそうに強く抱き寄せた。
「市……待っているぞ。無事に帰ってこい」
「はい、長政様。行ってまいります」
お市は長政に優しく微笑みかけると、すずに手を引かれて、雨除けの油布がかけられた乗物へと乗り込んだ。
出立の太鼓が一打ち鳴り、乗物と荷駄の列が、ゆっくりと小谷城の大手門を離れ、不破の関へ続く東国街道へと踏み出していった。
門前に佇む長政の姿が、朝霧の向こうへと小さく遠ざかっていく。
乗物の木格子越しに、お市は小さく息を吐き出し、膝の上に置いたそろばんをそっと指先で撫でた。
不破の関の手前から舞い始めた初雪が、街道の枯れ草を白く彩り始めていた。
お市は静かに目を閉じ、過酷な冬の街道を進む乗物の揺れに身を預けながら、岐阜城に待つ織田信長との一世一代の談判へ向けて、静かに心を研ぎ澄ませていくのであった。




