第30話:実権掌握
第30話:実権掌握
小谷山の尾根を吹き抜ける風から、かつてこの城を覆っていた重苦しい気配が、すでに薄れていた。
清水谷に深く立ち込めていた暗い霧は晴れ渡り、山肌の木々に降り置かれた初霜が、澄み切った秋陽の光を浴びて美しく輝いていた。
小谷城の城内は、静かでありながらも、かつてなく活気と清々しい緊張感に満ち溢れていた。
さきの大評定において、朝倉家からの裏金で私腹を肥やし、主君を売ろうとしていた不忠の老臣――赤尾美作守清綱や海北若狭守綱親らが失脚し、自邸への閉門・謹慎を言い渡されてから一月余りが経過していた。
かつて老臣たちが横暴を極めていた赤尾屋敷や海北屋敷の重厚な長屋門の前には、当主直属の警護武者たちが厳重に立ち並び、老臣たちが独断で家中へ指図することは許されなくなっていた。
かつて老臣たちの私兵として養われていた千余名の雑兵や足軽たちは、当主・浅井長政から直接手厚い塩と米を扶持として与えられたことで、次第に当主直属の兵となり、本丸や追手門の警護を整然と執り行っていた。
本丸の大広間。
広大な畳の上には、さきの大評定の折の重苦しい空気は微塵もなく、引き締まった空気が満ちていた。
上段の間に坐すのは、当主・浅井長政である。長政は当主の正装を身に纏い、堂々たる威厳を漂わせながら、下段に居並ぶ家臣たちを見下ろしていた。
下段には、老臣たちの不忠に激怒し、長政への忠節を改めて誓った阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、大野木秀俊ら北近江の国人衆がずらりと並んでいた。
その周囲には、浅井一族の若手武者である浅井政澄や、旧老臣派から離脱して長政へ命を預けることを誓った若年の家臣たちが、引き締まった顔立ちで座していた。
老臣たちが私腹を肥やすために若手を抑え込んでいた古く腐った合議の仕組みは形骸化し、いまや浅井家は、当主・長政を中心に一つへと結集しつつあった。
長政は静かに立ち上がり、下段の全家臣へ向けて、当主としての意思を朗々と告げた。
「北近江の諸将、ならびに浅井の家臣ども、良く聞けい!」
長政の力強い声が、大広間に響き渡った。
「我が浅井家は本日より、過去の腐敗と、朝倉家への不当な従属を脱した! これより、我が浅井家の軍事、政務、ならびに領国の差配の一切は、この当主長政が直々に執り行う! 老臣どもの合議に頼る旧弊は、もはや家中を左右するものではないと知れ!」
おおっ……! と、広間に並ぶ武者たちから、感嘆の声が上がった。
長政は前へ一歩踏み出し、当主としての統率力と力強い眼差しで全家臣を見渡した。
「我が浅井家が目指すべきは、朝倉の顔色を窺う家ではない! 織田家との同盟を固め、この北近江を自らの力で富ませ、誰にも侮られぬ真に強き家へと生まれ変わることである! 我とともに国を興さんとする者は続け!」
「「ははっー! 御意!」」
阿閉貞征や新庄直頼をはじめ、家臣たちが一斉に畳に平伏し、鬨の声を上げた。
当主・長政の確固たる統率力と、国造りの明確な構想。
長政は、亮政公の代から浅井家を縛り付けていた老臣政治の旧弊を改め始め、当主としての主導権を確かなものとしたのだ。
さらに長政は手をかざして広間の声を静めると、上段の間の傍らに控えていたお市へ向けて、優しく温かな視線を送った。
「市。前へ」
お市は朱色の小袖の裾を滑らかに引き、気品に満ちた佇まいで、長政のすぐ傍らへと進み出た。
お市の手には、そろばんと、自ら描き上げた『近江国諸道絵図』が携えられていた。
長政はお市を全家臣へ向けて誇らしげに示し、堂々と宣言した。
「皆の者、知るが良い! 我が正室・お市は、ただの織田からの姫ではない! 浅井の家を食い荒らしていた老臣どもの不正を暴き、俺に覚悟を与えてくれた、我が政を支える者である! 本日より、お市に勘定ならびに領内仕置の一切を差配させる! 勘定・領内仕置については、市の申し付けを我が意と思え!」
当主・長政による、お市への権限の付与。
広間に居並ぶ家臣たちは、さきの大評定でお市が見せた知性と冷徹なお裁き、そして没収した財産を民と兵へ還元してみせた手腕を思い返し、誰一人として異論を挟む者は居なかった。
武者たちは心からの敬意を込めて、お市の前に深く深く頭を下げた。
「お市様のお命じに従い奉ります!」
お市の差配により城下の市を潤し、兵たちへ塩と米を扶持として行き渡らせた功績は、いまや浅井家の家中の者にとって、当主長政とともに浅井家を導く賢夫人としての絶大な信頼を集めていた。
お市は家臣たちの平伏を受け止め、気品に満ちた笑みを浮かべて軽く会釈を執った。
お市と長政の二人が並び立つ佇まいは、浅井家の新しき時代の幕開けを象徴する、家中の者が敬う当主夫妻のお姿であった。
評定が終わり、家臣たちがそれぞれの任地へと活気あふれる足取りで散っていった後。
小谷城本丸の最高所に位置する、物見櫓の上。
茜色に染まる夕陽が、小谷山の山肌と、眼下に広がる活気あふれる小谷城下町、そして遠く広がる湖北の田畑を黄金色に染めていた。
長政はお市と並び立ち、秋風に吹かれながら、遠く静かに光る琵琶湖の湖面を見つめていた。
長政はお市の手をそっと握りしめ、感無量の面持ちで語りかけた。
「市……。ようやく、俺たちは己の手で浅井の家を取り戻す第一歩を踏み出せたのだな。老臣どもの不当な支配は薄れ、家臣も領民も、みな俺たちの声に耳を傾け始めている……」
長政の瞳には、当主としての確固たる自信と、お市に対する深い情愛が満ち溢れていた。
お市はそろばんを懐に抱き、長政に向かって柔らかく微笑み返した。
「ええ、長政様。本当に、お見事なご裁定でございました。これで、浅井の家を内側から蝕んでいた長年の禍根は、断ち切られましたよ」
「ああ……お前がいてくれたからだ、市。お前が暗闇の中にいた俺の手を取り、算用の道を示してくれたからこそ、俺は当主として立つことができたのだ」
長政はお市を抱き寄せ、その美しい額にそっと手を添えた。
見知らぬ地に嫁ぎ、政略結婚への恐れと不安に身を縮めていたあの日。
いまやお市と長政の二人は、互いの傷を庇い合い、運命の悲劇を叩き潰すために命を預け合う、真に背を預け合う夫婦となっていた。
長政はお市の手をしっかりと握り直し、力強い眼差しで遠くの西の空――琵琶湖の向こうを見据えた。
「市。ここからが、俺たちの本当の始まりだ」
「長政様……」
「老臣どもを退けたことで、越前朝倉からの塩や物資は途絶える。……だが俺たちは、朝倉の不当な裏金に頼らずとも、お前が描いた流通の策を以て、自らの力で浅井の国を富ませることができる。……俺は岐阜城へ出向き、織田信長兄上と同盟をより強固にし、琵琶湖の水運を活かしてみせるぞ」
長政自身の口から語られた、当主としての力強い決意と新しき展望。
お市は長政の頼もしいお顔を見上げ、心からの微笑みを返した。
「はい、長政様。私もどこまでもあなた様にお仕えし、そろばんを以てその道を支えてまいります」
二人は夕陽に染まる琵琶湖を見つめ、固く手を握り合った。
小谷城の主導権を確かなものとし、主君として立ち上がった長政とお市。
物見櫓を渡る晩秋の風が、肩を並べた二人の小袖を静かに揺らし、遠く湖北の水面に、黄金の光をどこまでも美しく描き出していた。




