第29話:没収財産の再分配
第29話:没収財産の再分配
召し上げられた赤尾屋敷、海北屋敷の白壁の土蔵を改めたところ、その蓄えは小谷城の勘定方も目を見張るほどの規模であった。
塩三千俵、米四千石、鉄百五十貫、そして金銀合わせて三千貫余り――。朝倉より流れた金子も少なからず混じっていたと思われた。
大評定の翌日。小谷城本丸の奥書院には、当主・浅井長政、お市のほか、国人衆の代表である阿閉淡路守貞征、城下の商人代表である大野屋宗兵衛、ならびに新しく任命された算用役たちが集まり、重々しい膝詰めの協議が開かれていた。
文机の上に置かれた膨大な検分帳面を前に、算用役が語気を強めて主張した。
「当主様! 召し上げたこの塩や米、金銀は、一文たりとも無駄にすることなく、すべて小谷城の御蔵へ納めるべきにございます! これだけの蓄えがあれば、織田様との同盟に伴う軍勢の備えも、朝倉との戦の支度も、すぐに整いますぞ!」
算用役として当然の、堅実な意見であった。
しかし、文机の向かいに座る阿閉淡路守貞征が、苦い顔で首を振った。
「算用役殿、事はそれほど容易ではないぞ」
阿閉貞征は長政に向かい、畳に手をついて自領の切実な危機を訴え出た。
「当主様。赤尾や海北ら老臣どもが処罰された噂は、すでに北近江全域に広まっております。……問題は、老臣どもの領地に居る雑兵や農民どもにございます。あやつら雑兵は老臣どもより扶持として塩や米を受け、農民は施しを受けて暮らしておりました。老臣どもが失脚し、物資が止まったと知れば、自領の農民どもが『塩が入らぬ』と動揺し、一揆や暴動を起こしかねませぬ!」
阿閉貞征の思惑は明確であった。老臣たちの不正は憎いものの、自領の領民や配下の侍たちが塩不足で暴走し、己の領国支配が揺らぐことを何よりも恐れていたのだ。
そこへ、商人代表の大野屋宗兵衛が、揉み手をしながら慎重に口を開いた。
「阿閉様の仰る通りにございます。……しかし当主様、もしこの没収した塩や米を、領民救済のためと称してタダで無闇に配り散らすようなことをなされば、今度は我ら城下の塩問屋や米屋が立ち行かなくなりますぞ」
「なに……? それはどういうことだ、大野屋」
長政が尋ねると、大野屋は商人の目ざとさで解説した。
「物資をタダでばら撒けば、市の塩の相場が崩れ、正規に商いを行っている商人が破産いたします。そうなれば、将来にわたり他国から小谷へ荷を運ぶ商人が寄り付かなくなり、浅井領の商いが絶えてしまいます。……配るのではなく、相応の値で市へ売り出す仕組みが必要にございます」
当主の蔵を固めたい算用役。自領の暴動を恐れる国人衆。市が立ちゆかなくなることを警戒する商人。
それぞれの利害と主張が激しくぶつかり合い、奥書院の空気は重く沈み込んでいた。
この大きな蓄えを得ながらも、その扱いを一歩間違えれば、浅井家は内側から破綻する危険を孕んでいたのだ。
その混乱の席で、静かに聴き入っていたお市が、小袖の裾を整えて口を開いた。
手には、さきにそろばんで弾き出した算用を書き付けた書付が握られていた。
「皆様方の苦衷、いずれも至極ごもっともにございます。……ゆえに、この召し上げた財、三つの道に分けて正しく取り計らいいたしましょう」
全員の視線が、お市へと集中した。
お市はそろばんの木玉を指先で軽く弾き、算用を示した。
「第一に、没収した財のうちおよそ三割――金一千貫と鉄百貫、米一千石は、算用役の仰る通り、浅井家の軍資金として御蔵へ厳重に納めます。軍備のため、鉄は特に多めに確保いたします。これは来るべき事態に備える、手を付けてはならぬ蓄えといたします」
算用役が、胸を撫で下ろして頷いた。お市は続けて、阿閉貞征と大野屋宗兵衛に向き直った。
「第二に、残る七割の塩と米のうち、半分を大野屋の手を経て、城下の市へ一升十文を目安に、折を見て売却・放出いたします。タダでばら撒くのではなく、相場に見合う値で市に流すことで、商人の商いが成り立つよう取り計らいます。そして……その売却によって得られた銭は、そのまま浅井家の御蔵へ納まるのです」
大野屋宗兵衛の目が輝いた。相応の値での順次放出であれば、商人の商いは守られ、同時に浅井家の御蔵には銭が入るのだ。
お市は最後に、阿閉貞征の目を真っ直ぐに見つめた。
「そして第三に……残る塩と米を、赤尾や海北の配下であった雑兵には扶持として、極貧の農民たちには救済として、当主長政様から直接給付いたします。阿閉殿、これにより老臣の配下であった兵や領民は、飢えから救われると同時に、自分たちに飯を喰わせているのが老臣ではなく『当主長政様』であることを、身を以て知ることになりましょう」
阿閉貞征はハッと目を見開き、膝を叩いた。
「おお……! それならば、自領の農民どもの不満は収まり、暴動の恐れは消え去りますぞ! それどころか……老臣どもに従っていた武者どもが、皆当主様へ寝返ります!」
お市が提示した案。
単なる「ばら撒き」ではない。軍資金の確保、市の正常化、領内の安定、そして浅井家の蔵入りの増加という、全員の利害が見事に一致する、理にかなった差配であったのだ。
そして、このお市の提案を誰よりも深く、冷徹な当主の眼で理解したのは、当主・浅井長政自身であった。
長政はお市から示された差配案を見つめ、己の胸の中で静かに激しい計算を巡らせていた。
(……見事だ、市。これは単なる救済ではない……!)
長政の内心に、当主としての政と軍略の狙いが、溢れ出していたのだ。
浅井家を長年縛り付けてきた最大の問題――それこそが、赤尾や海北ら老臣たちが自前の私兵(足軽・雑兵)を抱え、当主の命令を聞かない独自の軍勢を持っていたことにある。
いま、老臣たちの蔵から押収した塩と米を、当主・長政の名において雑兵たちへ直接扶持として配ればどうなるか。
雑兵や足軽たちにとって、自分や家族を喰わせてくれる者こそが真の主君である。老臣たちから糧を奪われ、当主長政から手厚い塩と米を与えられた兵たちは、もはや処罰された赤尾や海北のために戦う理由を失う。
つまり、老臣たちの私兵を一旦浅井家預かりとし、改めて当主直属の兵へ取り立て、浅井家の軍勢を束ねる力を当主の一手に握ることができるのだ。
さらに、朝倉からの物資が途絶えることによる領内の動揺を先手で打ち消し、「織田と同盟を結んだ当主長政様のおかげで、塩が安くなり生活が良くなった」という当主の威を全領民に示せるのだ。
長政の胸の中で、お市の算用の道と、自らの当主としての軍略的思惑が、一つとなって噛み合わさった。
長政は力強く立ち上がり、重々しい声で奉行人に向かって命じた。
「決まった! 奉行人に命ずる! 直ちに、この差配の沙汰を城下ならびに領内へ申し渡せ! 遺漏なく取り計らえ!」
「「ははっー! 直ちに沙汰を執り行いまする!」」
奉行人たちが一斉に畳に平伏し、長政の命を受けて速やかに奥書院を辞していった。
十余日を経て、政の改めは始まった。
お市と長政の慎重な検討を経て、奉行人たちによって実行されたこの改めは、浅井領内に目に見える成果をもたらした。
小谷城下の山田の河原市には、大野屋ら問屋の手によって一升十文を目安とした塩がまず並べられ、その後近隣の市へも順次運ばれていった。
一升四十文という途方もない高値に苦しんでいた領民や小商人が殺到したが、市の混乱は起きなかった。商人が間に入り、正当な売買として塩が行き渡ったため、市は久方ぶりの賑わいを見せたのだ。
そして、塩の売却によって得られた銭は、そのまま浅井家の御蔵へと運び込まれ、浅井家の蔵入りは、かつてないほど満ちたのだ。
さらに、最も大きな成果をもたらしたのは、軍制の改めであった。
旧赤尾屋敷、旧海北屋敷の門前にて、当主の奉行人から、老臣の旧配下であった雑兵や足軽千余名に対し、扶持米と救済の塩が手厚く直接支給された。
後日、必要な者には御蔵より新たな具足も支給され、塩と米を当主から直接授けられた兵たちは、深々と頭を垂れて長政の足元に平伏した。
「俺たちを喰わせてくださるのは、赤尾様ではなく、当主長政様だったのだ!」
「当主様のためなら、命など惜しくない!」
老臣たちの私兵であった千余名の武者たちは、一旦浅井家預かりとなり、名簿を改め、改めて各組へ編入された。その後も月余にわたり組替えが続き、日を追うごとに、当主長政に厚い忠節を誓う当主直属の兵へと生まれ変わったのだ。
老臣たちが数十年にわたり築き上げていた軍勢の土台は解体され、長政の手の中に一つにまとめ上げられたのであった。
小谷城本丸の物見櫓。
長政とお市は並び立ち、城下の賑わいと、当主の旗印のもとに整然と訓練に励む直属の兵たちの姿を見下ろしていた。
長政はお市の細く滑らかな手を強く握りしめ、溢れるばかりの達成感とともに呟いた。
「市……見事だ。お前の計算通り……いや、それ以上の成果が出たぞ。不当な財を正しく回すことで、御蔵は富み、市は潤い、老臣どもの兵まで、今や我が兵となった」
長政の瞳には、かつての弱気な面影は微塵もなく、領国と軍勢を束ね上げた本物の英主としての誇りが満ちていた。
お市はそろばんを小袖の懐に収め、長政に向かって柔らかく微笑み返した。
「ええ、長政様。利を整え、出入りを正してこそ国は栄えます。長政様が当主として冷徹なお裁きを下されたからこそ、この成果が得られたのですよ」
「ああ……お前ほど頼もしき伴侶はおらぬ」
二人は深く頷き合い、互いの知性と覚悟を称え合った。
当主の軍略、国人衆の保身、商人の利害、そしてお市の算用の道が一つとなって成し遂げられた、浅井家の政の改め。
長政は当主の威を取り戻し、お市はその傍らで支え続けた。
物見櫓を渡る秋風が、二人の重なる小袖を静かに揺らし、湖北の澄んだ空へ向かって、三ツ星の旗印がどこまでも誇らしくたなびいていた。




