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第28話:当主の裁断

第28話:当主の裁断


 浅井新九郎長政は、下段の広間に平伏し、涙と脂汗にまみれて震える老臣たちの姿を、上段の間から静かに見下ろしていた。

 小谷城本丸大広間。

 百五十畳もの広間に整列していた三百余名の家臣、近江国人衆が発する息遣いすら途絶え、広間は重々しく冷ややかな静寂に包まれていた。

 お市が叩きつけた朝倉義景からの物資割付帳と、老臣たちの当主追放の連署起請文。そして、そろばんが弾き出した、常の知行では到底得られぬ莫大な私利私欲を裏付ける勘定。

 かつて、老臣たちが叫ぶ「朝倉への三代の義理」という大言壮語の前に何も言い返せず、当主でありながら己の無力を恥じて一人深夜に涙を流していた若当主・長政。

 だがいま、上段の間に立つ長政の瞳には、かつての苦悩や迷いは微塵も存在しなかった。

 そこに宿っていたのは、愛する妻・お市から「勘定と証文」という武器を与えられ、浅井の家を自らの手で背負い立つという、本物の英主としての凄まじい覚悟と威厳であった。


 長政はゆっくりと立ち上がった。

 当主の正装である黒漆の打当の裾が重々しい音を立て、腰に差した太刀の金具が、冷たく鳴り響いた。

 長政が前へ一歩踏み出すと、下段に居並ぶ三百余名の武者たちの背筋が、一斉に緊張で強張った。

 長政は下段の中央、お市の目の前で這いつくばる赤尾美作守清綱と海北若狭守綱親を見下ろし、氷のように冷たく、大広間いっぱいに響き渡る力強い声で言い放った。


「赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親。……面を上げよ」


 長政の当主としての威厳に満ちた声に、赤尾清綱と海北綱親は、びくりと身を震わせた。

 赤尾清綱は泥のように汚れ、涙と脂汗でぐしゃぐしゃになった顔を恐る恐る上げた。その老いた瞳には、かつて若い当主を「お前などに何が分かる」と見下していた傲慢さは微塵もなく、己の過去の誇りと、暴かれた不忠の落差に打ちひしがれ、ただ主君の裁きを恐れる罪人としての絶望だけが浮かんでいた。

 長政は赤尾清綱を眼光一閃で射抜き、罪状を突きつけた。


「赤尾、海北! そなたたちが全家臣の前で声高に叫んでいた『朝倉様への三代の義理』という大義名分……その化けの皮の下にあったものが、主君を騙し、領民を飢えさせ、浅井の公金を掠め取り、私利私欲に走っていたこと……もはや言い逃れのできぬ真実である!」


 長政の言葉が、大広間を震わせた。

 赤尾清綱は「と……当主様……! お許しくだされ……! 我らは……我らは浅井の家を……」と、血を吐くような声で絞り出し、ただ畳に頭を擦りつけて沈黙した。亮政公の代からの功臣としての誇りが、己の私欲の前に完全に砕け散っていたのだ。


 しかし――強硬派の海北若狭守綱親は、違っていた。

 海北綱親は、なおも諦めきれず、目を血走らせて跳ね起きると、髪を振り乱して見苦しく叫び散らしたのだ。


「だ……だまされるな! 皆の者、騙されるなあっ!」

 海北綱親は広間に座す阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼に向かって、狂ったように腕を振り回した。

「織田の手先であるお市様の口車に乗るな! 我ら老臣を失脚させれば、浅井の家は織田信長に呑み込まれるのだぞ! 朝倉様を切って塩や鉄が途絶えれば、我が北近江は滅びるのだ! 当主様、目を覚まされよ! このような織田の姫めなど、直ちに首を刎ねるべきにございますっ!」


 海北綱親の、見苦しい最後のあがきと暴言。

 長政の顔に、冷酷極まる殺気が走った。


「黙れ、海北っ!」


 長政の声が、大広間を一瞬にして引き裂いた。

 長政は太刀の鞘を激しく鳴らし、海北綱親を指差して言い放った。


「主君を当主の座から引きずり下ろす密約を交わし、我が妻・お市を捕らえて朝倉へ差し出そうとしていた者が、どの口で浅井の家を語るか! 朝倉の不当な利益に目が眩み、主君を売り、国を食い荒らした不忠の罪……断じて赦しがたい!」


 長政は右手を高く掲げ、全家臣の前で、当主として沙汰を下した。


「赤尾美作守清綱、ならびに海北若狭守綱親! この場をもって浅井家宿老としてのすべての役職を解き、全知行を直ちに召し上げる! さらに、本日より自邸への閉門、ならびに厳重なる謹慎を言い渡す! 双方、一歩も屋敷の外へ出ることは許さぬ! 最終的な処断は、追って評定にて定める!」


 当主・長政の、毅然たる全知行召し上げと謹慎の裁き。

 赤尾清綱は自らの罪の重さに言葉を失い、静かに涙を流して畳に平伏した。

 一方、海北綱親は「な……なんだと……! 我ら宿老を……知行召し上げだと……! 離せ! 離せぇっ!」と、近習の武者たちに取り押さえられながら、見苦しく手足をバタつかせて暴れた。

 近習の武者たちは一切の容赦なく二人の腰から太刀をむしり取ると、這うようにして二人を大広間から引き立てていった。

 海北綱親の見苦しい悲鳴と、赤尾清綱のすすり泣く声が、長廊下の向こうへと遠ざかり、やがて完全に消え去っていった。


 老臣たちが引き立てられ、広間に再び重々しい静寂が戻った。

 しかし、下段に居並ぶ三百余名の近江国人衆、若き武者たちの間には、すぐに手放しの歓喜が訪れたわけではなかった。

 そこにあったのは、生きた心地もせぬ激しい緊迫感と、複雑な迷いであった。


 阿閉淡路守貞征は、冷や汗を流しながら、隣の新庄駿河守直頼と密かに目配せを交わした。

(老臣どもの私腹と不忠は許しがたい……。だが、これで真に朝倉との縁を断ち、織田と同盟を結んで、我が浅井家は北近江を保っていけるのか……? 塩や鉄の途絶に対し、当主様はご成算がおありなのか……?)

 阿閉貞征だけでなく、新庄直頼や大野木秀俊ら国人衆もまた、老臣たちの私利私欲への激怒と、今後の浅井家の生き残りに対する不安との間で、息を詰め、固唾を呑んで上段の長政を見つめていたのだ。


 長政は、国人衆の胸の中にある切実な迷いを、当主の眼で見抜いていた。

 長政はお市の傍らに歩み寄ると、お市から手渡された『近江国諸道絵図』を広間に向け、堂々たる佇まいで言い放ったのだ。


「諸将、案ずるな! 我が浅井家が目指すべきは、朝倉の顔色を窺う家ではない! 美濃・伊勢からの物資を引き入れ、琵琶湖の水運を我が手で動かすことで、浅井の国を北近江一の豊かな国へと変えるのだ! 我ら浅井の手で、新しき道を切り開く!」


 長政の力強い宣言と、示された明確な富国の道。

 当主自らが迷いを完全に打ち払い、家臣たちの不安を包み込む圧倒的な将器を示したのだ。


 その覚悟を目にした瞬間、阿閉淡路守貞征の胸の迷いが静かに解けた。

 阿閉貞征は自らの太刀を脇に置き、畳に叩きつけるように深く深く額を擦りつけた。


「当主長政様ぁっ……!」


 阿閉貞征の声は、深い感服と誓いで震えていた。

「我が当主様のご采配とご決断……真にお見事にございます! 当主様のお考えならば、我らも従い奉ります。我ら北近江の国人衆、本日より不忠の者どもと完全に手を切り、当主長政様のお命じにのみ従うことを、誓い奉ります!」

 新庄駿河守直頼が続いて額を下げ、大野木秀俊、野村定元ら他の国人衆も、阿閉貞征に続いて一斉に前へ進み出て、畳にひれ伏した。

「どうか、我らに当主様への忠節を尽くすお許しを賜りたく……!」


 広間に、低いどよめきが広がった。

 阿閉ら有力国人の平伏を目にした三百余名の武者たちが、なだれを打つように一斉に長政の足元へと額を下げた。

 百五十畳の大広間が、ひれ伏す武者たちの頭で埋め尽くされた。

 かつて、亮政公の代から浅井家を縛り付け、当主の言うことを聞かぬ抵抗勢力となっていた、国人衆による合議が当主を縛ってきた旧き仕組み。

 それが、お市が暴いた「不義の帳簿」と、当主として立った長政の裁断によって、打ち砕かれた瞬間であった。

 北近江の武者たちは、迷いを捨て、真の英主として立った浅井長政の足元へ、心服したのだ。


 長政は平伏する三百余名の家臣たちを見下ろし、力強く手をかざした。

「皆の者、面を上げよ! 本日より、我ら浅井の手によって、新しき浅井を築く!」


 おお……。

 と、広間のあちこちから深い感服の声が漏れた。


 長政は家臣たちの頭越しに、下段の中央に立つ妻・お市を見つめた。

 お市は、手に持ったそろばんをそっと小袖の中に収め、長政に向かって優しく、誇らしげに微笑み返した。

 長政もお市を見つめ返し、深く、力強く頷いた。


 大広間を吹き抜ける秋の風が、金箔の「三ツ星」の屏風を静かに照らしていた。

 老臣たちの不当な支配は解体され、新しき当主・長政とお市のもとに、浅井家は新たな結束を取り戻しつつあった。

 二人が見つめ合う静かな眼差しの中に、これより始まる新体制への揺るぎない覚悟が、強く宿っていた。

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