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第27話:勘定帳の裁き

第27話:勘定帳の裁き


 道理を失った者ほど、最後に『情』と過去の功績にすがりつくものである。

 小谷城本丸大広間。

 さきにお市が叩きつけた勘定帳に記された数字と、関銭を納めずに関所を素通りさせていた関銭逃れの暴露によって、筆頭宿老・赤尾美作守清綱と海北若狭守綱親の「一時預かり」という最後の言い訳は、木っ端微塵に打ち砕かれていた。

 百五十畳もの広間に整列した三百余名の家臣、近江国人衆の視線は、もはや敬意ではなく、主君を騙して私腹を肥やしていた不忠者に対する、激しい不信と軽蔑に満ちていた。

 しかし、強硬派の海北若狭守綱親は、なおも諦めなかった。

 海北綱親は血走った目を激しく見開き、畳に両手を突いて這い上がると、喉を鳴らしながら、最後の見苦しい暴言を叫び立てたのだ。


「だ……だが! 歴史を忘れたか! 昔からの朝倉様との深いご縁があればこそ、我が浅井家は今日まで生き残れたのだぞ!」

 海北綱親は身を乗り出し、髪を振り乱しながら、広間の武者たちに向かって見苦しく手振りを交えた。

「我らが朝倉様から物資を受け取っていたのは……すべて、すべて浅井の家と領民の命を守るための苦肉の策であったのだ! 幾ばくか我らの手元に残ったとて、それが北近江の武者どもを養う糧となっていたのだぞ! 祖父・亮政様の代からの我ら老臣の武功と苦労を無視し、私したなどとなじるか! 恩知らずめがっ!」


 感情論と、過去の武功の切り売り。

 己の犯した生々しい私しとその私腹を直視できず、過去の功績と「家のためだった」という身勝手な自己正当化に逃げ込んだ、見苦しい叫びであった。

 赤尾清綱もまた、すがりつくように頭を上げ、声を振り絞った。

「然り! 我らは浅井の家を思えばこそ、朝倉様との義理を守ろうとしてきたのだ! 織田の姫が弾き出した出鱈目な勘定で、我らの忠節が消え去ると思うなよ!」


 老臣たちの、見苦しい最後のあがき。

 しかし、お市は顔色ひとつ変えなかった。

 お市は下段の中央に凛として立ち、小袖の裾を優雅に払うと、畳の上にへたり込む海北綱親と赤尾清綱を、冷ややかな、深い哀れみの籠もった瞳で見下ろした。

 お市の手の中で、そろばんの木玉が、ぱちりと静かに弾かれた。


「浅井の家を思えばこそ……でございますか。海北殿、赤尾殿」


 お市の声は、恐ろしいほどに澄み切り、静かであった。

 しかし、その声の底に通る気品と圧力が、海北綱親の怒号を打ち消し、広間全体を静寂へと戻した。

 お市は、侍女のすずが捧げ持つ黒漆塗りの文箱から、一巻の折りたたまれた越前奉書をそっと手にとった。

 さきにお市が商人たちの伝手や草の者を駆使し、北国街道の深坂峠で赤尾の密使から人知れず奪取した、あの決定的な書状であった。


 お市はその書状を、広間の三百余名の家臣たちの目の前へと高く掲げてみせた。


「では問いましょう、海北殿、赤尾殿。あなた方が『浅井の家のため』『忠節のため』と仰るならば……この一巻の書状もまた、浅井の家を思ってのお書き付けなのですか?」


 赤尾清綱と海北綱親の目が、その書状を目にした瞬間、恐怖に大きく見開かれた。

 自分たちが夜陰に乗じて朝倉義景、ならびに室町御所へ宛てて送ろうとした、あの極秘の密書であったからだ。

「な……なぜ……なぜそれを……お前が持っている……!?」

 赤尾清綱の声が、震えた。


 お市は老臣たちの動揺を意に介さず、書状を静かに広げると、大広間の隅々にまで響き渡る透き通った声で、そこに記された文面を一行ずつ読み上げ始めた。


「――『越前朝倉義景様、ならびに室町御所様へ。浅井当主長政、織田との同盟に狂奔し、将軍様のお命じを蔑ろにいたす兆しあり。我ら北近江の諸将、一致団結してこれを正すべく、来る大評定の折、当主長政を奥御殿へ押し込め、当主の座を剥奪し、浅井家の弟君を新たなる当主に立て奉るべし』……!」


 お市が読み上げるたび、大広間に激しい衝撃が駆け抜けた。

 お市は手を緩めず、末尾の一文を読み上げた。


「――『なお、織田より嫁ぎしお市は即刻捕らえ、朝倉様への忠誠の証とす。右、手筈に寸分の狂いもなし。赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親』……!」


 お市は読み終えると、書状の末尾に捺された赤尾と海北の自筆の署名と花押、ならびに血判を、大広間の家臣たちへ向けて開いて見せた。


「主君・長政様を当主の座から引きずり下ろして押し込め、弟君を当主に据え、当主の妻である私を捕らえて朝倉義景へ差し出す……! 赤尾殿! 海北殿! 主君を売り、人を売り渡すことが……あなた方の言う『浅井の家を思う忠節』なのですか! 答えてご覧なさい!」


 大広間は怒号と糾弾の声に包まれた。

 広間に座していた阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼ら国人衆、そして三百余名の武者たちが一斉に立ち上がり、老臣たちへ向かって太刀の鞘を鳴らしながら怒号を浴びせかけたのだ。


「不忠者めがっ! 主君を押し込むだと……!?」

「朝倉の金に目が眩み、主君を退けようとしていたのかっ!」

「お市様を捕らえて朝倉へ差し出すだと!? なんという謀反だっ!」

「赤尾! 海北! お前たちは浅井の家臣ではない! 朝倉の走狗だっ!」


 怒号と罵声の嵐が、赤尾清綱と海北綱親の頭上へと降り注いだ。

 さきまで「昔からの義理」や「過去の武功」を免罪符にして逃げ切ろうとしていた老臣たちの不当な主張は、この一巻の密書の存在によって、完全に破滅したのだ。

 彼らが叫んでいた「義理」の正体。それは、朝倉から得た利得を守るためなら、主君を害し、家を売り渡すことも辞さない、醜悪極まる不忠そのものであったのだ。


 赤尾清綱は、全家臣からの激しい殺気と糾弾の視線に晒され、もはや一言も発することができず、顔を畳に擦りつけたまま、小刻みに全身を震わせるばかりであった。

 海北綱親もまた、言葉を失い、開いた口から浅い息を漏らし、絶句していた。


 お市は下段の中央で、手に持ったそろばんをぱちりと力強く弾いた。

 そして、平伏して震える老臣たちを見下ろし、氷のように冷たく、美しき声で言い放ったのだ。


「情に訴えるのは、道理で勝てぬ者のすることにございます」


 お市の言葉が、大広間の高き天井に澄み渡って響いた。

「赤尾殿、海北殿。あなた方が叫んでいた『朝倉への三代の義理』も、『過去の武功』も、『領民のため』という言い訳も……すべては己の私腹を守り、主君を売るための、醜い嘘だったのですよ」


 お市の冷徹なる断罪。

 老臣たちが数十年にわたり築き上げてきた虚飾の権威と既得権益は、動かぬ物証と数字の道理の前に、完膚なきまでに叩き潰され、跡形もなく消滅したのだ。


「ひ……ひぃぃっ……! お許しくだされ……お許しくだされぇっ……!」

 海北綱親がついに膝から崩れ落ち、頭を畳に何度も叩きつけながら、泣き伏した。

 赤尾清綱もまた、誇り高き宿老の面影など微塵もなく、ただ恐怖に身を竦めて平伏し、二度と顔を上げることができなくなった。


 大広間を支配したのは、老臣たちの失脚と、長年の胸のつかえが一気に降りるような、溜飲の下がる思いであった。

 さきまで不当な圧力に苦しんでいた若き武者や国人衆が、お市の圧倒的な知性と気品に深く服し、畏敬の眼差しを向けていた。


 上段の間に坐す浅井長政が、堂々と立ち上がった。

 長政はお市に向かい、心からの感謝と深い信頼を込めた眼差しを送ると、下段の広間全体を見下ろし、当主としての裁定を下すべく、力強く口を開いた。


「これより、当主として裁きを申し渡す。」

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