第26話:裏帳簿の朗読
第26話:裏帳簿の朗読
阿閉淡路守貞征は、改めて畳の上の奉書へ目を落とした。
黒々と躍る越前守護・朝倉義景の自筆の花押。そして、その横に連なる赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親ら、浅井家宿老たちの見慣れた署名と血印――。
小谷城本丸大広間。
百五十畳もの広間に整列していた三百余名の家臣、近江国人衆が、一斉に身を乗り出し、畳の上の紙面に目を凝らしていた。
さきにお市が叩きつけた『越前・北近江同盟物資渡し帳』と朝倉義景の直筆証文。
大広間を支配していたのは、老臣たちの誇らしげな大言壮語などではなく、隠され続けてきた真実を目の当たりにした武者たちの、息を殺したような絶句と動揺であった。
お市は下段の中央に静かに膝をつき、小袖の袖を整えると、手元に広げられた『越前・北近江同盟物資渡し帳』の表紙をそっとめくった。
三百余名の武者たちが放つ、刺すような殺気と重苦しい沈黙。
ふと、そろばんを握るお市の細い指先が、かすかに、一度だけ小さく震えた。
(……ここで一言でも怯めば、すべてが台無しになる……!)
お市の胸の奥で、一瞬だけ不安が疼いた。
だが、お市がすっと上段の間を見上げると、そこには当主・長政が、揺るぎない信頼を込めた眼差しでお市を見つめ返していた。
長政の視線を受けた瞬間、不安は静かに沈んでいった。代わって冷徹な覚悟が全身を満たした。
お市は深く静かに息を吐き出し、そろばんの木玉を、ぱちりと澄んだ音を立てて弾いた。
お市はそろばんを膝の上に構え、大広間の隅々にまで届く澄み渡る声で、和紙に記された文字を一行ずつ読み上げ始めた。
「――永禄八年四月。朝倉家より下賜。筆頭宿老・赤尾美作守清綱殿へ直接受領、塩五百俵、鉄五十貫、金百貫……。同五月、海北若狭守綱親殿へ直接受領、塩四百俵、鉄四十貫、金八十貫……」
お市が読み上げるたび、傍らに控える侍女のすずが、手にした太筆で大きな美濃紙にその数字と人物名を大書し、広間の武者たちへ向けて高く掲げて見せた。
すずの声が、お市の朗読を追うように大広間に響き渡る。
「永禄八年! 赤尾様へ塩五百俵! 海北様へ塩四百俵にございます!」
広間のあちこちから、小さなどよめきが上がり始めた。
お市は視線を一切ぶれさせず、そろばんの玉を素早い手つきで弾きながら、翌年の記録へと読み進めた。
「――永禄九年六月。赤尾美作守清綱殿へ、塩七百俵、鉄五十貫、金二百貫……。海北若狭守綱親殿へ、塩六百俵、鉄四十貫、金百五十貫……」
「永禄九年! 赤尾様へ塩七百俵! 海北様へ塩六百俵にございます!」
すずが掲げる美濃紙の数字が、年を追うごとに膨れ上がっていく。
お市はそろばんの玉を力強く叩き鳴らし、最後の年――永禄十年の頁を読み上げた。
「――永禄十年七月! 赤尾美作守清綱殿へ、塩一千俵、鉄八十貫、金四百貫……! 海北若狭守綱親殿へ、塩八百俵、鉄六十貫、金三百貫……!」
ぱちり!
お市が最後の木玉を力強く叩き置いた瞬間、大広間を揺るがすほどの激しい不満と動揺のどよめきが爆発した。
阿閉貞征や新庄直頼ら国人衆が、一斉に立ち上がりかけた。
「一千俵……!? 永禄十年だけで、赤尾様は塩一千俵も一人で受け取っておられたのか!?」
「海北様も八百俵だぞ! 鉄まで山ほど受け取っておるではないか!」
「な……なんということだ! 我が領地の村々には、塩一俵すら届かず、百姓が塩一升四十文という高値に泣いていたというのに……! 老臣様方は、これほどの塩と金を一人で抱え込んでおられたのか!」
「俺たち足軽や中間には、扶持米すら三割も削っておきながら……自分たちだけ朝倉から莫大な私腹を貪っていたというのかっ!」
一人の武者が、顔を引きつらせて呟いた。
「永禄十年……あの年だ。干飯に塩さえ振れなかった。」
「あの時の塩が……ここにあったというのか。」
武者たちの激しい怒りの声が、大広間に渦巻いた。
お市が解読し、すずが大書して掲げた具体的な数値の年変遷。
それは、老臣たちが隠し続けてきた私しの動かぬ証であった。
老臣たちが叫んでいた「朝倉への三代の義理」という格好のついた美名。
その裏にあったのは、領民や兵たちを塩不足と貧困で飢えさせながら、自分たちだけが朝倉から貰う莫大な私腹を肥やし、贅沢を極めていたという、生々しい強欲の現実であったのだ。
赤尾清綱は、全家臣からの刺すような怒りの視線に晒され、開いた口が塞がらず、額から滝のような脂汗を流して畳の上にへたり込んでいた。
しかし、強硬派の海北若狭守綱親は、なおも諦めず、血走った目で立ち上がると、お市に向かって怒号を張り上げた。
「だ……だまれえっ! 黙れ、織田の女っ!」
海北綱親は身を乗り出し、激しい脂汗を撒き散らしながら叫んだ。
「それは朝倉様から賜った品だ! 我ら老臣は浅井家を支える者として、それを一時預かり、領内の差配に充てていたに過ぎん! 私したなどとは言わせぬ! 言いがかりをつけるな!」
見苦しい、最後の開き直りであった。
しかし、お市は冷たい、美しい笑みを口元に浮かべ、そろばんの玉をぱちりと軽く弾いた。
「『一時預かり』、でございますか? 海北殿」
お市の声は、恐ろしいほどに静かであった。
「では問いましょう。朝倉様からは毎年一千俵の塩が送られておりました。ですが、浅井家の勘定帳に記された受領量は、年間たった百俵に過ぎません。……海北殿、預かっていたとお仰るなら、残りの九割――毎年九百俵もの塩と莫大な鉄、金銭は、浅井家の御蔵のどこに保管されているのですか? 答えてご覧なさい!」
お市の冷徹な追撃に、海北綱親は言葉を詰まらせ、喉を鳴らした。
お市は畳の上の渡し帳を指差し、弁明の余地なく畳みかけた。
「さらに、さきに関守の井口から確認いたしましたよ。朝倉家から送られてきたその物資は、すべてあなた方老臣の私的なお印が捺された手形により、関銭を免れ素通りし、浅井家の御蔵ではなく、あなた方個人の屋敷にある『あの白壁の土蔵』へ直接運び込まれていたのです!」
お市は立ち上がり、海北綱親を見下ろした。
「浅井家の御蔵へ納めず、関銭も払わず、私的な屋敷の蔵へ運び込んで私腹を肥やす行為……。武家では、そのような振る舞いを『私する』と申します。海北殿」
「ぐっ……つ……っ……!」
海北綱親はついに言葉を失い、顔面を蒼白にして、一歩も退けぬ逃げ場のない惨状に、小刻みに全身を震わせた。
「一時預かり」という最後の拠り所すら、お市が事前に叩き出していた勘定帳の数字と、関所で関銭を納めなかった事実によって、封じられたのだ。
海北は何一つ言い返せなかった。
赤尾清綱もまた、開いた口から浅い息を吐き出すばかりで、もはや一言も反論することができなかった。
大広間を包み込んだのは、老臣たちの言い訳がことごとく封じられ、彼らの罪悪が白日のもとに晒されたという、重々しい決着の静寂であった。
さきまで大広間を支配していた老臣たちの威圧感は完全に消え去り、いまや彼らは全家臣の前で、主君を騙し、国を食い荒らしていた不忠者として、平伏するしかなかったのだ。
お市は手元にあるそろばんを、そっと小袖の懐へ納めた。
上段の間に坐していた浅井長政が、静かに立ち上がり、黒漆の打当の裾をさっと払った。
「……すべて聞いた。言い逃れはあるまい。」
その一言だけで、赤尾は肩を震わせた。
長政はゆっくりと老臣たちの前へ歩み寄った。
広間には、その足音だけが重々しく響いていた。




