第25話:裏帳簿を叩きつける
第25話:裏帳簿を叩きつける
黒々と躍る朝倉義景の花押と、鮮やかな朱印。その一巻の越前で漉かれた奉書が、行灯の光の下で冷たく光を放っていた。
小谷城本丸大広間。
百五十畳の広間を、人ひとり息をする音さえ聞こえぬ静けさが支配していた。
お市は、侍女のすずが捧げ持つ黒漆塗りの文箱から、一巻の書状と古い和紙の冊子――『越前・北近江同盟物資渡し帳』の正本を静かに取り出した。
お市の手の中で、そろばんが、ぱちりと指先で軽く鳴らされた。
さきまで「朝倉を切れば塩と鉄が途絶えて浅井が滅びる」「織田の手先に何が分かる」と大声を張り上げていた筆頭宿老・赤尾美作守清綱と海北若狭守綱親の顔から、笑みが消えた。
老臣たちの目が、お市の手元にある黒漆塗りの文箱と、灯火に照らされた和紙の束へと吸い寄せられ、その瞳に底知れぬ動揺が走り始めていたのだ。
お市はそろばんの木玉を指先でそっと撫でながら、前へ一歩踏み出し、澄んだ声で赤尾清綱へ語りかけた。
「赤尾殿、海北殿。さきほどあなた方は、全家臣の前でこう叫ばれましたね。『我ら老臣が身に纏う武具や白壁の土蔵は、朝倉様より浅井家へ賜った御恩の姿に過ぎぬ』と……」
赤尾清綱は、乾いた喉を鳴らしながら強がりを叩きつけた。
「そ……そうだ! 朝倉様は浅井の家を救うために物資を下さっておられるのだ! 何の文句があろうか!」
「では……これは一体何なのですか、赤尾殿?」
お市は腕を高く振り上げた。
重々しい衝撃音が、大広間の静寂を力強く叩き割った。
お市は手にした『越前・北近江同盟物資渡し帳』の冊子と、朝倉義景の直筆の証文を、赤尾清綱と海北綱親のわずか数尺手前の畳の上へと、容赦なく叩きつけたのだ。
文箱から零れ出た美濃紙と、勘定を書き付けた紙が、行灯の光を受けて畳の上に広がった。
赤尾清綱と海北綱親の目の前に、朝倉義景の鮮やかな朱印と、老臣たち自身の自筆の署名と花押が、むき出しとなって晒されたのだ。
「な……っ!?」
赤尾清綱の顔から、一瞬にしてすべての血の気が失せ、土気色を通り越して真っ白に硬直した。
海北綱親が「な……なにを……!」と叫び、這うようにして畳の上の紙面に目を凝らした。
そこに記されていたのは、老臣たちが絶対に公にできぬはずの、生々しく醜悪な利のやり取りの全貌であった。
阿閉淡路守貞征が、思わず畳へ身を乗り出した。
「……その花押。」
声が震えていた。
「赤尾様ご自身のものではありませぬか。」
広間が凍りついた。
お市はそろばんを左手に持ち、そろばんの木玉を弾きながら、大広間に集まった三百余名の家臣、国人領主たちに向かって、氷のように冷徹な声を響かせた。
「諸将方、よくお聞きなさい! ここに叩きつけられたのは、浅井家の古い文庫に納められていた、朝倉家からの物資渡しの記録にございます!」
お市の声が、大広間の隅々にまで透き通って響き渡った。
「朝倉義景様は、過去三年にわたり、浅井家全体を救うためとして、毎年数百俵の塩と、百貫の鉄、そして金品を下されておりました! ですが……我が浅井家の勘定帳に記録されていた受領量は、一体どれほどであったとお思いですか!?」
お市はぱちりとそろばんの玉を叩き置いた。
「年間、わずか塩百俵、鉄十貫! 朝倉様から下されていた物資の……ほんの一割に過ぎません!」
大広間に、激しいどよめきが駆け抜けた。
阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼ら国人領主たちが、一斉に立ち上がりかけた。
「一割……!? 残りの九割は一体どうなったのだ!?」
「朝倉様が数百俵もの塩を下さっていたというのに、なぜ俺たちには塩が届かなかったのだ!?」
お市は赤尾清綱と海北綱親を力強く見据え、白日のもとに真実を曝け出した。
「残りの九割――毎年数百俵もの塩と、九十貫の鉄、そして金銭は、浅井家の蔵に入ることなく……すべて赤尾殿、海北殿ら老臣たちの手によって関銭を免れ素通りさせられ、彼ら個人の屋敷にある、あの白壁の土蔵へ直接己が蔵へ運び込まれていたのです!」
お市の追求は、止まらなかった。
お市は畳の上の朝倉義景の直筆証文を指差し、冷酷に言い放った。
「老臣たちが叫ぶ『朝倉への三代の義理』! その化けの皮の下にあったのは、朝倉から貰うこの莫大な私腹を失いたくないという、ただの不当な強欲だったのです! あなた方が蔵へ運び込んだ一俵の塩は、領民の命でございました。あなた方が私した一貫の鉄は、浅井の兵が手にするはずの槍でございました。奪ったのは銭ではありません。浅井の民の暮らしそのものです」
「ひ……ひぃぃっ……!」
海北綱親が悲鳴のような声を上げ、膝からガタガタと崩れ落ちた。
赤尾清綱は開いた口が塞がらず、額から滝のような脂汗を流しながら、畳の上の証文を見つめて絶句していた。
「違う……それは……」
赤尾の震える指先が、自らの花押へ伸びた。だが触れることさえできなかった。否定する言葉が、喉の奥で崩れ落ちた。
自分たちが「御恩」という名目で浅井家から掠め取っていた私腹の全貌を、お市が『家臣知行留め』や『関所過帳』と寸分なく照合し、全家臣の前で暴いてみせたのだ。
老臣たちが誇らしげに語っていた「朝倉への三代の義理」という美しい看板。
それが一瞬にして、主君を騙し、浅井の家と領民を食い荒らす「最悪の裏切りの証」へと反転した瞬間であった。
「に……捏造だ! 偽文だっ!」
海北綱親が狂ったように立ち上がり、目を血走らせて叫んだ。慌てて証文へ手を伸ばす。
「見るな!」
しかし阿閉貞征がその腕を払いのけた。
「見苦しいぞ、海北殿。我らはその塩を信じて戦ってきたのだ。それを己の蔵へ運んだというのか。」
「織田の手先が……! 織田の女が我らを陥れるためにこしらえた出鱈目の偽文書だ! 朝倉様がそのような私腹を下さるはずがない! 我らが浅井の家を売るはずがないのだ!」
老臣の、見苦しい最後のあがき。
しかし、お市は冷たい笑みを深め、一歩も退かなかった。
「偽文、でございますか? 海北殿」
お市は静かな声で言った。
「では問いましょう。この証文の末尾に捺された、朝倉義景様の直筆の花押……そして、赤尾殿、海北殿、あなた方ご自身の自筆の署名と血印……。これを偽文と言われるのでしたら、ここに居並ぶ奉行衆にも見覚えがありましょう。あなた方の日常の手習いと照合いたしましょうか!」
「ぐっ……っ……!」
海北綱親は言葉を詰まらせ、喉を鳴らした。
照合などされれば、本物であることがすぐに証明されてしまう。逃げ道は、完全に塞がれていた。
さらに、お市は畳の上のもう一巻の密書を指差し、止めを刺した。
「それだけではありません! ここにありますのは、あなた方が夜陰に乗じて朝倉家と取り交わした密書です! あなた方は、織田との同盟を破棄せねば、当主・長政様を奥御殿に押し込めて当主の座を廃し、私を害して首を朝倉へ届けると記しておられますね!」
大広間に、怒号が広間を満たした。
広間に居並ぶ三百余名の武者や国人領主たちが、一斉に立ち上がり、老臣たちに向かって激しい怒りを露わにした。
「当主様を押し込めるだと……!?」
「お市様の首を撥ねるだと……!?」
「赤尾! 海北! お前たちは浅井の家臣でありながら、朝倉の金で買収され、主君を売ろうとしていたのかっ!」
「不忠者! 朝倉の飼い犬どもがっ!」
怒号と糾弾の嵐が、赤尾清綱と海北綱親へと浴びせかけられた。
さきまで老臣たちの演説に同調していた武者たちも、あまりにも醜悪な私しと主取り替えの動かぬ証拠を前にして、完全に老臣たちを見捨てた。
老臣派として座していた武者たちが、一人、また一人と、赤尾から膝を引いていく。
誰一人、赤尾の傍へ歩み寄る者はいなかった。かつて老臣を囲んでいた家臣たちは、潮が引くように距離を空けていく。気づけば、赤尾と海北の周囲だけが、不自然なほど広く畳をさらしていた。
老臣たちが誇らしげに築き上げた「義理という名目」は、跡形もなく瓦解した。
上段の間に坐す浅井長政が、静かに立ち上がった。
長政は、初めて赤尾から目を逸らさなかった。
これまで老臣へ向けていた信頼の眼差しは、もうそこには無かった。
長政は赤尾を見下ろした。
「……もうよい。」
短い一言が、広間を重く支配した。
「余は、そなたらを家の柱と思っていた。だが柱は、家を支えるものだ。家を食う柱は、もはや柱ではない。」
お市は下段の中央でそろばんを静かに構え、膝を突いた。
そして、力なく額を畳へつけた老臣たちを見下ろし、氷のような静かな笑みをたたえて言い放った。
「さあ……赤尾殿、海北殿。続きをお話ししましょうか。あなた方が浅井の家を売り渡していた本当の勘定と……当主・長政様が切り開かれる、浅井の真の未来についてを」
広間を包み込んだのは、老臣たちの不忠が暴かれ、長年の鬱屈が一気に晴れ渡るような胸のすく心地であった。
赤尾は助けを求めるように周囲を見回した。しかし、先ほどまで「赤尾様」と声を揃えていた老臣派の武者たちは、一人として目を合わせようとはしない。阿閉は静かに顔を背け、新庄は深く目を閉じた。気づけば赤尾と海北の周囲だけが、不自然なほど広く畳をさらしていた。二人は初めて悟った。自分たちは、浅井家すべてを敵に回したのだと。
上段から下りてきた長政の足音が、静まり返った大広間に重々しく響くだけであった。




