第24話:老臣たちの逆襲
第24話:老臣たちの逆襲
海北若狭守綱親は、弾かれたように畳を蹴って立ち上がると、太刀の金具を激しく打ち鳴らした。
小谷城本丸大広間。
先ほど、お市は赤尾清綱の知行高と軍役負担、家臣への扶持を照らし合わせ、帳面上では説明のつかぬ金の流れを指摘した。その追及に対し、赤尾が「捏造だ!」と叫んだ、まさにその時であった。
海北綱親の顔は激しい怒りで赤黒く高潮し、白髪混じりの眉を震わせ、その眼光には長年浅井を支えてきた者だけが持つ凄まじい意地が宿っていた。
海北は広間の中央へ一歩踏み出し、お市を見据えて怒号を叩きつけた。
「口を慎まれよ、織田より参られた御方!」
広間の空気を震わせる怒声であった。
海北は下段に座す三百余名の家臣、国人領主たちに向き直り、腕を振り上げて叫んだ。
「皆の者、惑わされるな! この織田の姫は、お女子の浅知恵と出鱈目な数字を並べ立て、我ら老臣の長年の忠節を汚そうとしているのだ! 帳面だけで国は治まらぬ! 戦場を知る者なら分かるはずだ! 帳面に飢えた兵の顔は映らぬ! 村を焼かれた者の恨みも、戦場で死ぬ若者の命も、そろばん玉では測れぬのだ!」
赤尾清綱もすかさず立ち上がり、声を揃えた。
「然り! 我ら老臣が身に纏う武具や白壁の土蔵は、朝倉様より浅井家へ与えられた御援助の証に過ぎぬ! 命がけで越前と交渉し、物資を引き出してきた我らの苦労を、紙切れ一枚の計算で私腹を肥やしたなどとなじるか! 無礼千万なり!」
老臣たちの開き直りと激しい反論。
海北はお市のわずか数歩手前まで詰め寄り、上から見下ろすように冷酷な嘲笑を浮かべた。
「お市様! 貴女は『塩が高騰している』『扶持が減っている』と我らを責め立てられたが……では問おう! 我らが朝倉様との同盟を破棄し、朝倉様を切ったとして……明日からこの北近江に入る塩や米、鉄材は一体どうなるのだ! 貴女はその答えをお持ちなのか!」
海北の声が大広間に不気味に響き渡る。
海北は阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼らを順に見据え、生々しい現実の脅しを叩きつけた。
「北近江の田畑は、南の六角との長年の戦で荒れ果てている! 我らが日々の糧の塩を得、鍛冶に必要な鉄材を手に入れられるのは、ひとえに越前敦賀を押さえる朝倉家との結びつきがあるからだ! もし朝倉様を切れば、北国からの荷は今までのような量では届かなくなるのだぞ!」
海北はお市を力強く見据え、威圧的に迫った。
「織田の姫よ! 貴女の兄・信長が、尾張・美濃からこの北近江へ塩や鉄材を運んでくれるとでも言うのか! 不破越えの険しい山道を越えて荷を運ぶのに、どれほどの月日と莫大な運賃がかかるか知っておるのか! 越前の塩を切れば、北近江の領民は塩不足で飢え苦しみ、兵たちは戦う武具すら失うのだ! 織田の意を受けておられる貴女に、北近江の民の命の責任が取れるというのか! 答えてみよ!」
海北の突きつけた、生々しく切実な物資断絶の主張。
その言葉は三百余名の家臣、国人領主たちの胸を鋭い刃となって貫いた。
さきほどまでお市の数字の暴露に納得し、老臣たちに疑念の目を向けていた武者たちの間に、激しい動揺と恐れが広がり始める。
浅井家中でも発言力を持つ阿閉淡路守貞征が、顔を強張らせ、隣の新庄駿河守直頼に不安そうに話しかけた。
「新庄殿……海北様の仰ることも、一理あるのではないか。お市様の勘定のお話は見事だが……朝倉様を切って北陸からの塩や鉄材が途絶えれば、我が領地の民や兵は立ち行かぬ……」
新庄直頼も苦い顔で首を振った。
「うむ……。尾張・美濃から運ぶとしても、不破越えや山道はあまりにも険しい。北陸の塩なしでは、我が浅井家が干上がるのは目に見えている。……たしかに老臣の不正は許せぬ。しかし、朝倉様との関係を切るわけにはいかぬのではないか……」
広間全体の空気が、再び老臣たちの側へ傾き始める。
家臣たちにとって、老臣たちの不正や私腹は不快であったが、それ以上に「明日の暮らしに必要な塩が絶える」「鍛冶に必要な鉄材が入らなくなる」という恐れは耐え難いものであった。
老臣たちが叫ぶ「朝倉への義理」という言葉が、北近江の生存を賭けた防壁として、再び家臣たちの心に重くのしかかる。
赤尾清綱は場の調子が自分たちへ戻ってきたことを察し、胸を張って声を張り上げた。
「せいぜい笑うがよい、お市様! これが北近江の武者どもの真の実情にございます! 勘定の計算などという小細工で、北近江の民の命を繋ぐことはできぬのだ! 当主様、もはやお分かりになりましょう! 直ちに織田との同盟を破棄し、お市様を岐阜へお戻りくだされ!」
老臣派の武者たちが「そうだ! 朝倉様を切るな!」「お市様はお引き取りくだされ!」と口々に叫び、広間は再び老臣たちの声によって占められつつあった。
そこへ、上段の間に坐す浅井長政が静かに口を開いた。
「阿閉殿、新庄殿。……案ずるな」
当主・長政の、静かで揺るぎない一言。
広間のざわめきがピタリと収まり、全家臣の視線が上段の長政へと注がれる。
長政は膝の上で静かに太刀の柄を握り締め、下段の海北を見下ろして語りかけた。
「海北殿。そなたの言う『塩と鉄材の途絶』という恐れ……もっともな懸念に見える。……だが、俺とお市が、何の策もなくこの場へ臨んだと思うか?」
「な……なにを……とお仰いますか、当主様!?」
海北が目を見開くと、長政は下段のお市へ向けて、力強く頷いてみせた。
「お市。……そなたの考えを、海北や赤尾、そして全家臣へ聞かせてやってくれ」
「承知いたしました、長政様」
大広間の誰もが、お市の次なる言葉を待った、まさにその時であった。
お市は静かに小袖の裾をさっと払った。
そして、手に持ったそろばんの木玉を、指先で力強く叩き鳴らしたのだ。
澄み渡る音が大広間に響き渡り、騒いでいた老臣派の武者たちの声が完全に止まる。商人でもない武家の姫が算盤を扱う姿に、古参の家臣たちは戸惑いを隠せなかった。
お市はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、恐怖も動揺も微塵もなかった。
そこに浮かんでいたのは、海北や赤尾の激しい反論を、すべてあらかじめ見透かしていたかのような、氷のような静かな笑みであった。
お市は海北の目を真っ直ぐに見つめ返し、静かな、しかし大広間の隅々にまで透き通る声で言い放った。
「ご心配には及びませんよ、海北殿」
海北が「な……なに……!?」と息を詰める。
お市は凛とした佇まいで、言葉を続けた。
「朝倉様との古き盟約を改めた後、どこから塩と鉄材を手に入れ、いかにして浅井家を富ませるか……。その答えも、すでに用意してございます」
お市は横に控える侍女のすずへ向けて、静かに手招きをした。
すずは恭しく、両手で抱えていた黒漆塗りの文箱の蓋を押し開けた。
その文箱の中に収められていたのは、さきにお市が描き上げた『近江国諸道絵図』と、老臣たちの隠された悪事を白日のもとに晒す二通の証文であった。
お市は文箱の中から一巻の和紙を取り出し、老臣たちの目の前へと向けた。
「ですが海北殿……その『新たな富の道』をお示しする前に、あなた方がひた隠しにしておられる、もう一つの恐ろしい書付について……お話しさせておいただきましょうか」
お市の手の中で、朝倉家当主・義景公の花押と奉行衆の副署まで備えた『廻送手形』と、老臣たちの連署した『当主追放の密書』が、行灯の光を浴びて白々と浮かび上がった。
それは二人が最も恐れていた名――朝倉義景の花押であった。
赤尾清綱と海北綱親の顔から、一瞬にしてすべての血の気が失せ、目を見開いて硬直した。
大広間を吹き抜ける冷たい風が、黒漆塗りの文箱の縁を静かに揺らしていた。




