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第23話:一段目の攻撃

第23話:一段目の攻撃


 白紙に記されたのは、一升の塩につけられた異様な高値であった。

 小谷城本丸大広間。

 お市が広間の中央に膝をつき、文机の上に広げた美濃紙には、浅井領内の不穏な現実を示す数字が並ぶ。傍らでは侍女のすずが硯を整え、緊張した面持ちで控えていた。

 上段の間からは当主・浅井長政が威厳ある眼光で広間を見下ろし、下段には筆頭宿老・赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親をはじめとする宿老、北近江の諸将、三百余名の武者たちが息を詰めてお市を見つめていた。

 赤尾清綱は紙面を苦々しく睨みつけ、太刀の鞘を鳴らして鼻で笑った。

「ふん……! お市様、何を思わせぶりに紙面など広げておられる! 我らは当主様に対し、朝倉様との三代の義理を守るべきか否かという、浅井の家の命運を賭けた評定を行っているのだ! 勘定などという小細工で、我らの義理を邪魔立てなさるな!」

 海北綱親も腕を組んで高慢に言い放った。

「然り! 朝倉様との同盟こそが浅井の命脈! 織田から嫁がれたお市様が、どれほど妙な数字を並べ立てようと、北近江の武者どもの心が動くはずもございませぬ!」


 老臣たちのあからさまな見下しと威圧。

 しかしお市は顔色ひとつ変えず、左手のそろばんの木玉を指先で力強く弾いた。澄んだ硬い音が広間に響き、ざわついていた三百余名の武者たちの視線が再びお市の手元へ集まる。

 お市はそろばんを膝の上に置き、静かな、しかし凛と響く声で諸将へ問いかけた。


「諸将方。日々の領国の治め、ならびに手勢の扶持において……何かお気づきのことはございませんか?」


 阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼ら国人領主たちが、互いに顔を見合わせる。

 お市は美濃紙を指差し、言葉を続けた。

「現在、ここ小谷の城下町におきまして、塩の値が例年を大きく上回る高値に跳ね上がっております。……この異様な高値が意味するものがお分かりになりますか?」

 そろばんの玉を素早く弾きながら、お市は畳みかけた。

「近ごろの小谷では、平時のおよそ三倍近い高値が続いております。北近江は敦賀津からの塩が運ばれる道筋にございます。……なぜ、この小谷の地にこれほど恐ろしい高値がついているのでしょうか?」


 下段の若侍や国人領主たちの間に、小さなどよめきが走る。

 阿閉貞征が身を乗り出し、呟いた。

「た……確かにそうだ。我が領地の村々でも、塩の値段が高すぎて農民どもが買えず、味噌や保存食すら作れぬと悲鳴を上げている……」

 新庄直頼も深く頷く。

「我が手勢へ配る賄い塩すら、ここ一年は半分以下だ。塩不足で兵たちの力が出ぬのが実情だ……」


 お市は彼らの不満を逃さず、さらに言葉を重ねた。

「塩だけではございません。この小谷城の勘定帳を改めましたところ、扶持帳を見る限り、城中の兵や役人たちに支払われる扶持米も、過去三年で三割以上も減じております。……浅井の領民も末端の兵たちも、日々の糧の塩気すら満足に得られず、貧困と飢えに苦しんでいるのです」

 広間全体に、重々しい不満と納得の溜め息が広がる。武者たちは互いに顔を見交わした。誰もが減らされる扶持と塩不足を思い起こしていた。


 赤尾清綱は場の流れがお市へ傾くのを感じ、焦りを隠せず声を荒げた。

「な……何をぬけぬけと! 領内が塩不足なのは、北陸からの荷が減っているからだ! 朝倉様からのご加勢があるからこそ、我が浅井家はこれでも持ちこたえているのだぞ! それを織田の姫にとやかく言われる筋合いはない!」

「朝倉様からのご加勢、でございますか」

 お市はふっと冷たい笑みをたたえ、そろばんの玉を弾き鳴らした。小気味よい木玉の音が静まり返った広間に響く。

 お市は身を正し、朱色の小袖の裾を払うと、赤尾と海北を力強く見据えた。


「では問いましょう、赤尾殿! 海北殿! 浅井の領民や兵たちが塩不足と貧困に苦しんでいるというのに……なぜ、あなた方老臣の御屋敷だけは、年々恐ろしいほどの贅沢を極められているのですか!?」


 静寂を切り裂く一撃の告発。

 赤尾清綱と海北綱親の顔色が、一瞬にして土気色に変色した。

「な……なにを……!?」

「すず、読み上げなさい!」

 すずが美濃紙を高く掲げ、朗々と読み上げる。


「筆頭宿老・赤尾美作守清綱様! 帳面上の知行高二千五百貫文取り。その実入りを勘案し、軍役や家臣の扶持を差し引いた年間の手元に残る銭は、多くとも三百貫ほど。三年間で差し引きの余財は、高く見積もっても一千貫!」

 お市がそろばんを叩いて追撃した。

「ですが赤尾殿! あなたの屋敷には、ここ三年で一棟数百貫もかかる豪華な土蔵が二棟も新築されておりますね! 手勢の武者に新調した具足を買い与え、門前には連日のように越前から上酒や絹、大量の塩俵が運び込まれている! 勘定帳を照らし合わせれば、あなたがこの三年間に費やされた金品は、到底知行では賄えぬ額に上っているのです!」


 お市はそろばんを文机の上に置き、静かに問いただした。

「帳面上の収入に対し、現実の支出ははるかにこれを上回る……! その出所知れぬ金子は、一体どこから湧いて出たのですか!? 赤尾殿! 答えてご覧なさい!」


 大広間に重い衝撃が走る。

 下段の三百余名の家臣たちが、一斉に目を見開き、赤尾清綱へと視線を集めた。

「そんな大金が……!? 赤尾様の屋敷に……!?」

「俺たちには塩の一俵すら満足に下さらぬのに……自分たちだけそんな贅沢をしていたというのか!?」

「知行では到底賄えぬ額など、どうやって手に入れたのだ……!?」


 疑惑と不信の視線が、赤尾清綱と海北綱親へと突き刺さる。

 赤尾清綱は額から脂汗を噴き出させ、顔を激しく引きつらせた。嫁いできたばかりの若い姫が、己の知行高と土蔵普請、手勢の具足新調までを正確に計算し、帳面上の収入との差額を全家臣の前で暴露してくるとは、思いも寄らなかったのだ。


 しかし赤尾清綱と海北綱親は、ここで崩れ落ちるような甘い男たちではなかった。長年浅井家を裏で牛耳ってきた老臣の意地と、私腹を守る執念が、彼らを必死の抗弁へと駆り立てた。


 赤尾清綱は顔を真っ赤にして立ち上がり、太刀の柄に手をかけて怒号を上げた。

「黙れっ! 黙れ黙れえっ! お女子の浅知恵で算出した出鱈目な数字で、我ら老臣を不忠者と決めつけるかっ!」


 海北綱親も脂汗を拭い、目を血走らせて詰め寄った。

「言いがかりだ! それは織田の意を受けておられるお市様が、我ら老臣を失脚させるためにこしらえた、捏造の数字に過ぎぬ! 我らが三十年間にわたり浅井の家を命がけで支えてきた武功と忠節を、さような一枚の書付で汚されてたまるかあっ!」


 老臣たちの必死の抗弁と抵抗。彼らはお市の計算を「織田による捏造」と断定し、三十年の武功と忠節を盾に押し通そうとした。老臣派の武者たちも「そうだ! その帳面が偽りだ!」「お市様の捏造だ!」と声を上げ、広間の空気が再び張り詰める。


 お市は顔色ひとつ変えず、冷ややかな美しい笑みを口元に浮かべたままだった。手元の黒漆の文箱を指先で撫で、そろばんの玉を静かに弾く。

 老臣たちが叫ぶ「捏造」という最後の抵抗。お市は目の前で見苦しく叫び散らす赤尾と海北を、冷徹な瞳で見つめ返した。

 そして、文箱の蓋へ静かに手を掛けた。

 大広間を吹き抜ける秋風だけが、静まり返った畳を冷たく渡っていった。

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