第22話:お市の乱入
第22話:お市の乱入
ぱちり――と、硬く乾いた木玉の音が、熱狂に沸いていた大広間の重々しい空気を一瞬にして切り裂いた。
小谷城本丸大広間。百五十畳の広間に整列していた三百余名の武者たちが、一斉に息を呑んで後ろを振り返った。
金箔の桐の襖が開け放たれた大広間の最後方に立っていたのは、朱色の鮮やかな小袖を纏い、黒髪を高く結い上げたお市であった。
お市の傍らには、重々しい黒漆の文箱と予備の美濃紙を両手に抱えた侍女のすずが、緊張に肩を強張らせながらも、凛として胸を張って控えていた。
お市は、立ち並ぶ武者たちの放つ荒々しい殺気と、裸刃の圧力を意に介することなく、すっと背筋を伸ばし、畳の上を堂々と進み出た。
「お……お市様……!? な……なぜ、このような武家の評定の場に……!?」
広間の中央で勝ち誇っていた筆頭宿老・赤尾美作守清綱の顔が、激しい狼狽と怒りで赤黒く高潮した。
海北若狭守綱親が立ち上がり、太刀の金具を激しく鳴らして、割れんばかりの怒号を張り上げた。
「織田の女が! ここをどこだと心得る! 我らは浅井の家の命運を賭けた重大なる評定を重ねているのだ! お女子の出る幕ではない、直ちに失せよ!」
「そうだ! なぜ織田の姫が評定の間に入るのだ!」
「武門の合議の場にお女子を上げなどしては、北近江の武者の面目が廃りますぞ! 当主様、お下げくだされ!」
老臣派の国人領主や武者たちからも、口々に怒号と見下しの声が上がった。
百五十畳の大広間を揺るがすほどの、凄まじい威圧と見下しの嵐。
武家の習いとして、女子が軍事や政を議論する評定の場に足を踏み入れるなど、極めて異例とされていたのだ。老臣たちは「織田から来た女」という偏見を露骨に剥き出しにし、大声で威圧することでお市を追い払おうと必死になっていた。
普通の姫君であれば、あまりの恐怖に足腰を抜かし、泣き叫んで逃げ出すような極限の状況であった。
お市の後ろに控える侍女のすずも、武者たちの放つ殺気に思わず悲鳴を上げそうになり、小刻みに膝を震わせ、お市の小袖の裾を強く握りしめていた。
しかし、お市は顔色ひとつ変えなかった。
お市は小袖の裾を滑らかに引きながら、畳を踏みしだく優美な足取りで、罵声を浴びせる武者たちの間を通り抜けていった。
その佇まいからは、人を従える天賦の威風と、己の尊厳を何者にも踏みにじらせまいとする気品が漂っていた。
お市の冷徹にして澄み切った瞳が見つめているのは、広間の中央で怒り狂う赤尾清綱、ただ一人であった。
お市が進むにつれ、周囲の武者たちの怒号が、次第に途切れがちになっていった。
怒鳴り散らしていた武者たちが、お市の近くを通り過ぎる折、その凛然たる美しさと、一切の怯えを知らぬ隙のない眼光に気圧され、息を呑んで口をつぐんでしまったのだ。
「この美しさは一体……」
「織田の姫か……。だが、何という気品だ……」
「この殺気の中で、一歩も足が鈍らぬとは……」
広間に漂う空気が、罵声から、戸惑いと感嘆の交ざり合った異様な静寂へと変わり始めていた。
お市は赤尾清綱のわずか数歩手前で静かに足を止めた。
すずが恭しくお市の傍らにひざまずき、黒漆の文箱を畳の上に置いた。
お市は左手に持った木製の算具――そろばんを、指先で軽く鳴らし、赤尾清綱の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「赤尾殿、海北殿。大層なお声でのお怒り……しかと拝見いたしましたよ」
お市の声音は、恐ろしいほどに滑らかで、静かであった。
しかし、その声の底に通る強い圧力に、さきまで罵声を上げていた武者たちが、思わず言葉を失って口をつぐんだ。
赤尾清綱は、お市の手にある木製の算具――そろばんを睨みつけ、太刀の柄を固く握りしめた。
「お市様……! お引きくだされ! 我らは当主様に対し、朝倉様との三代の義理を守るべきと説いているのだ! 武門の誇りを知らぬお女子にとやかくなじられる筋合いはござらん!」
「武門の誇り、でございますか」
お市はふっと不敵な、美しくも冷ややかな笑みをたたえた。
「赤尾殿。武家の定めに照らし、正室たる者が奥向きの出納を預かる権義をご存じないとお仰るのですか?」
「な……なにを……!?」
「あるいは……そなたは、当主・長政様が私に授けられた、この直筆のお印判を無視なさるおつもりなのですか?」
お市は小袖の懐から一巻の書状を取り出し、赤尾清綱の目の前へと静かに掲げてみせた。
和紙の表面に躍る、浅井家当主・浅井長政の直筆の署名。そして、末尾に鮮やかに捺された、当主の赤印判――。
赤尾清綱と海北綱親の目が、激しい動揺に大きく見開かれた。
「これには、当主・長政様が、私に小谷城の奥向きならびに勘定方の監督を委ねると明記されております。織田家から持ち込んだ膨大な結納品や調度品を正しく管理し、城中の賄いや勘定方の出納を改めるのは、正室である私の正当な権利であり、当主より仰せつかった務めです。そなたは、当主の印判よりも、自らの怒号を通されるのですか?」
お市の隙のない追撃に、赤尾清綱は言葉を詰まらせ、口をパクパクと開閉させた。
当主の直筆と赤印判が捺された命書を拒むことは、それ自体が即座に「当主に対する明確な不忠」を意味する。全家臣が集う大評定の場で、公然と当主の命印を無視することなど、老臣といえども到底不可能なことであったのだ。
「く……くそっ……! だが……だがここは、武士の評定の場ぞ! 勘定の計算などを持ち出して、この大事な裁定を邪魔立てするなど……!」
海北綱親が必死に反論しようと声を荒げた、まさにその時であった。
上段の間から、雷鳴のごとき重々しいお声が響き渡った。
「黙れ、海北!」
下段の広間全体が、びくりと跳ね上がった。
声の主は、当主・浅井長政であった。
長政は静かに立ち上がり、黒漆の打当の裾をさっと払うと、堂々たる威厳を全身から放ちながら、上段の間の前へと進み出た。
さきまで老臣たちの勢いに押されているかのように見えていた若き当主の顔からは、迷いも気負いも完全に消え去っていた。そこにあったのは、浅井の家を自らの手で率いるという、本物の英主としての覚悟と力であった。
長政は漆黒の瞳で下段の広間全体を見下ろし、力強いお声で全家臣に言い放った。
「お市の言う通りである! 市は織田家より嫁いだ正室である! 俺が小谷城の奥向きと勘定方の監督を委ねた、我が名代である!」
長政のお言葉が、大広間の天井を震わせた。
赤尾清綱が「当主様……!?」と呆然とお声を出そうとしたが、長政はその言葉を鋭い眼光で制した。
「市は、俺の命を受けて小谷城の勘定を改め、浅井の家が抱える『歪み』を正すためにここへ参ったのだ! 市の発言を遮り、非礼を働くことは、この長政の発言を遮り、当主に非礼を働くことと同じと心得よ! もしなおも市を侮辱する者がおれば、俺直々に……不忠の者として処断いたす!」
当主・長政からの、力強い後ろ盾。
さきまでお市を「お女子の分際で」と見下していた老臣派の武者たちが、長政の眼光と覚悟に気圧され、一斉に首をすくめて平伏した。
広間は水を打ったように静まり返った。
「当主様が……そこまでお市様を信頼しておられるのか……!」
「あの優しかった当主様が……これほどの威厳を放たれるとは……!」
「当主のお印判と、当主直々のお言葉……もはや誰も、お市様の発言を拒むことはできぬ……!」
若手の武者や中立を保っていた国人領主たちが、ざわざわと囁き合い、長政とお市の存在を「当主の名代」として受け入れ始めた。
赤尾清綱と海北綱親は、返す言葉を失い、顔面を土気色に変えて震えるばかりであった。
お市は上段の長政に向かい、感謝と親愛の情を込めて静かに深く礼を執った。
長政もお市を見つめ返し、固く頷いた。
二人の視線が交錯した瞬間、大広間の誰もが、浅井家の未来を照らす主君夫婦の気品と絆に、深く心を打たれていた。
お市は再び赤尾清綱へと向き直った。
お市の手の中で、そろばんの木玉が静かに構えられる。
「赤尾殿、海北殿。さきほど、あなた方が全家臣の前で声高に叫ばれた『朝倉様への三代の義理』……そして『朝倉を切れば塩や鉄が途絶え、浅井の領民や兵が破滅する』というお説……大変に感銘を受けましたよ」
赤尾清綱はお市の冷たい言葉に嫌味を感じ取り、苦々しく胸を張ろうとしたが、さきほどの長政の威圧に気圧され、声がかすれた。
「く……理解されたなら……直ちに下がられよ……! 朝倉様との義理こそが……浅井の家を支える大柱なのだ……!」
「ええ。その大柱とやらが……真に浅井の家を支えているものなのか、それとも浅井の家を腐らせている病根なのか……」
お市はそろばんの玉を指先で力強く弾き、氷のように研ぎ澄まされた眼光で、赤尾清綱を射抜いた。
「私がいまから提示する『数字』の前に……どちらが真実か、証明して差し上げましょう」
お市は静かにそろばんを膝前に構え、手元の美濃紙にそっと指先を添えた。
大広間に並ぶ三百余名の武者たちが、固唾を呑んでお市の手元を見つめる中、誰一人として身じろぎひとつしなかった。
赤尾清綱の額に、じわりと脂汗が浮かんだ。
ぱちり――と、そろばんの木玉が、最初の一音を静かに鳴らした。




