第21話:老臣たちの訴え
第21話:老臣たちの訴え
小谷城本丸の大広間。百五十畳に及ぶ広大な畳の上に、甲冑や重厚な正装に身を包んだ三百余名の武者がずらりと陣取っていた。
吹き抜ける秋の風に、上段の間の背後に掲げられた浅井家の象徴――「三ツ星」の金屏風が重々しい光を跳ね返している。
広間に満ちていたのは、息を呑むような重苦しい熱気と、太刀の鞘が擦れ合うかすかな金属音であった。
上段の間に坐すのは、当主・浅井長政である。長政は当主の正装である黒漆の打当を纏い、背筋を太い芯が通ったようにピンと伸ばしていた。その瞳には、かつて老臣たちの前で一人涙を流していた弱気な陰影はなく、己の力で浅井の家を裁き、率いるという、当主としての威厳が宿っていた。
下段の広間には、筆頭宿老・赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親、遠藤直経らをはじめ、阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼、大野木秀俊ら、北近江の国人領主たちが所狭しと顔を揃えていた。
誰もが言葉を発することなく、ただ室内を覆う重々しい不穏な気配に身を硬くしていた。
やがて、当主・長政が手をそっとかざすと、広間の隅に置かれた大きな陣太鼓の音が、どん……と重々しく一打ち鳴らされた。
大評定の始まりを告げる、当主からの合図であった。
太鼓の余韻が静まり返るや否や、広間の最前列に座していた筆頭宿老・赤尾美作守清綱が、勢いよく立ち上がった。
赤尾清綱は黒塗りの甲冑の胸を強く張り、威圧的な足取りで広間の中央へと躍り出た。
その顔は怒りと自負で赤黒く高潮し、周囲に座す三百余名の家臣たちを射抜くような鋭い視線で見回した。
「北近江の諸将、ならびに浅井の家臣ども、良く聞けい!」
赤尾清綱のダミ声が、大広間の天井を激しく揺らした。
「我が浅井家はいま、家始まって以来の重大なる『家の命運を分かつ時』に立たされている! 祖父・亮政様、父・久政様、そして当主・長政様に至るまで、我が浅井の家が幾度も討ち死にの危機を免れ、この小谷の地に城を構えておられるのは、一体誰のおかげであるか!」
赤尾清綱は腕を大きく振り上げ、声を一段と張り上げた。
「越前朝倉家である! 朝倉家は三代にわたり、我が家に手厚い塩や米、鉄を下さり、南の六角の脅威から命がけで我らを助けてくださった! 朝倉様との『三代の義理』こそが、我が浅井家の命脈であり、北近江の武者どもの生きる誇りであるはずだ!」
赤尾清綱の威勢の良い訴えに、海北若狭守綱親がすかさず立ち上がり、声を合わせた。
「然り! 朝倉様は我が浅井家にとって、切っても切り離せぬ大恩あるお方! にもかかわらず、織田弾正忠などという尾張の成り上がりと同盟を結び、朝倉様との義理を捨てようとするなど……天地神明が許さぬ不義理にございます!」
老臣たちの叫び声に、広間に居並ぶ阿閉貞征や新庄直頼ら国人領主たちが、ざわざわと動揺し始めた。
赤尾清綱は、その動揺を逃さず、懐から一巻の紫色の絹の巻き物を取り出し、高く掲げてみせた。
「皆の者、見よ! これは、京の室町御所――十五代将軍・足利義昭様より、我が浅井家へ直々に下された『信長追討の御内書』である!」
赤尾清綱は絹を解き、将軍の朱印が捺された書状を家臣たちの目の前に見せつけた。
「将軍様は『織田信長は天下の秩序を乱す朝敵なり、即刻討伐すべし』とお命じになられたのだ! 将軍様のご威光と、朝倉様からの三代の恩義! これ以上の大義名分がどこにありましょうや!」
海北綱親もまた、一歩前へ出て、不敵な面持ちで語った。
「朝倉様は仰せられた! 我らが将軍様のお心に応え、朝倉様とともに立ち上がるならば、北近江の諸将に対し、従来の二倍の塩と鉄、莫大な金銭のご恩賞を新しく進上いたすと! 将軍様のご威光に背き、朝倉様を切って織田に従属すれば、我が北近江は塩も鉄も失い、武士としての面目も潰れ、飢え苦しむ他ないのだぞ!」
老臣たちの怒涛のような訴えと、将軍の御内書という絶対の大義名分。
そして、朝倉家から約束された恩賞の提示。
広間に集まった若手の侍や、平の国人領主たちの顔色が、次第に変わっていった。
もともと武家社会において、朝倉家への恩義や将軍家のご威光は、何よりも重い価値観であったのだ。老臣たちの熱弁に、武者たちは口々に拳を突き上げ、叫び始めた。
「そうだ! 赤尾様の仰る通りだ! 朝倉様への恩義を捨てるなど、武士の面目が立たぬ!」
「将軍様のご命じに背いて織田につけば、我が浅井家こそ朝敵となってしまうぞ!」
「塩や鉄が途絶えては、我ら領民も手勢も生きていけぬ!」
訴えの熱気が、大広間全体を呑み込んでいった。
老臣たちが誇る「三代の義理」と「武士の面目」という大義名分が、広間全体を支配していたのだ。
しかし、その大合唱に対し、上段の間に坐す当主・浅井長政は、微動だにせず落ち着き払っていた。
長政は静かに手を挙げ、広間の喧騒を制した。
「静まれ、赤尾殿、海北殿」
当主・長政の、重々しくも冷徹なお声。
広間に響いていた怒号がピタリと止み、家臣たちの視線が上段の長政へと注がれた。
長政は下段の赤尾清綱を見下ろし、力強い眼差しで言い放った。
「赤尾殿の申す朝倉家への恩義、将軍様へのお敬い……至極ごもっともな筋道に見える。……だが、我が浅井家が織田と同盟を結び、領内を富ませようとすることもまた、北近江の何万の領民と家臣の命を守るための当主としての決断である。……そなたの言う『義理』だけで、我が浅井の国が真に治まると思っているのか?」
当主・長政自らが提示した、正当なる問いかけ。
赤尾清綱は不服そうに胸を張り、言葉を返した。
「当主様! 勘定や商いの計算などという小細工で、武士の道は治まりませぬ! 我ら北近江の武者が従うのは、朝倉様との義理を守る正義の当主様にございます! もし当主様が朝倉様を切られるとお仰るなら……我ら家臣団は承服いたしかねますぞ!」
赤尾清綱の居直り。
しかし、長政は顔色ひとつ変えず、冷ややかな微笑を浮かべた。
長政は、さきにお市と密かに練り上げた手筈に従い、場を完全に支配したまま、次の言葉を発したのだ。
「なるほど……そなたたちの言い分はよく分かった。……ならば、その『朝倉家からの下賜』と『浅井の家の勘定』について、真実を確かめようではないか」
長政は下段の傍らに控える侍女に向かい、朗々と命じた。
「お市をこれへ。当主より小谷城の出納を預かるお市の言葉を聞く!」
当主・長政自らが下した、正式な命。
赤尾清綱と海北綱親の顔に、一瞬の動揺が走った。老臣たちが事態の急変に息を呑んだ、まさにその瞬間であった。
大広間の最後方――重々しい葵の文様が施された金箔の襖が、からり……と静かな音を立てて開け放たれた。
「――お呼びにより、参上いたしました」
静かな、しかし氷のように透き通った声が、大広間の空気を一瞬にして凍りつかせた。
立ち並ぶ三百余名の武者たちが、一斉に後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、朱色の美しい小袖を纏い、髪を高く結い上げた、お市であった。
お市の傍らには、重々しい黒漆の文箱と、木製のそろばんを両手に抱えた侍女のすずが、胸を張って控えていた。
お市は当主・長政の命を受け、凛とした気品と圧倒的な威厳を漂わせながら、畳の上を堂々と歩み出してきたのだ。
赤尾清綱と海北綱親の顔色が、激しい怒りと不快感で赤黒く変色した。
「お……お市様……!? 当主様、なぜこのような場にお女子をお呼びになられるのですか! 我らは浅井の家の命運を賭けた軍議を行っているのですぞ!」
老臣たちの不満の声に対し、上段の長政が、鋭い眼差しで言い放った。
「黙れ、赤尾! お市は俺が小谷城の勘定の一切を委ねた者である! 市の言葉は、この長政の言葉と同じと心得よ! 市、遠慮なく申せ!」
「ははっ、長政様」
お市は下段の中央へ進み出て、黒漆の文箱の前で恭しく一礼すると、手元にあるそろばんを膝前にそっと構えた。
大広間に並ぶ三百余名の武者たちが、一斉にお市の手元へと固唾を呑んで視線を注ぐ。
赤尾清綱はお市の隙のない瞳に射抜かれ、言葉を詰まらせて身を硬くした。
秋の冷たい山風が、金箔の襖をかすかに揺らしているだけであった。




