第20話:大評定の宣言
第20話:大評定の宣言
じゃらり、と重々しい甲冑の小札が擦れ合う粗々しい音が長廊下に遠ざかると、小谷城本丸の奥書院には、冷ややかな静寂が戻っていた。
格子戸の隙間から吹き込む秋の木枯らしが、文机の上の行灯の火影をかすかに揺らしている。
浅井長政は静かに立ち上がり、さきまで老臣たちが威張り散らしていた畳の上の空間を見つめると、深いため息を吐き出した。
そして、己の傍らに凛として立つ妻・お市に向き直った。
「市……見事な啖呵であった。赤尾も海北も、まさかお前が全家臣を集めた大評定の挙行を口にするとは思ってもみなかっただろう」
長政の声には、お市の凄まじい胆力と知性に対する、深い感服の色が宿っていた。
お市は小袖の裾を整え、柔らかく、しかし引き締まった眼差しで答えた。
「それこそが、私の狙いでございます、長政様」
「狙い……?」
「ええ。老臣たちは、将軍の御内書と朝倉の手形を手にし、自分たちが優勢にあると思い上がっております。彼らは、奥書院であなた様を脅し、力づくで当主追放を強行しようとしておりました。しかし、私が『大評定』という公開の場を提案したことで、彼らは『全家臣の前で誇らしげに義理を叫び、堂々と当主を屈服させてやろう』という、油断に囚われたのです」
お市は文机の上の黒漆の文箱を指差し、言葉を重ねた。
「彼らが全家臣の前で高らかに語り、大義名分を打ち立てたその瞬間に……さきに手に入れた『不義の帳簿』と『当主追放の起請文』を提示するのです。彼らが誇った義理がただの私腹であったと判明した時、老臣たちの言葉はすべて自らを縛る不忠の証へと変わります」
長政の胸が、重々しい決意で高鳴った。
「よし……直ちに小谷城内、ならびに北近江全域の家臣、国人衆へ、明朝の大評定の触れを出そう」
長政は直ちに当主の花押を据えた触状をしたため、城内の伝令たちを走らせた。
「明朝早朝、本丸大広間にて緊急の大評定を挙行す! 北近江の諸将、家臣、国人に至るまで、一人残らず参集せよ! 遅参は許さぬ!」
当主・長政からの厳重な触れは、夜の小谷城内から北近江の隅々にまで、疾風のごとく駆け巡った。
赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちもまた、この触れを聞いて胸を張った。
彼らは自らの屋敷に配下の国人領主や武者たちを集め、不敵な面持ちで語り合った。
「若当主め、ついに観念したか! 明日の大評定の場で、全家臣の前で織田との同盟破棄を認めさせ、もし往生際悪く拒むならば、その場で当主追放を言い渡してやるわ!」
「織田の姫も、明日で終わりよ! 我ら老臣の手によって、浅井の家を正して見せる!」
老臣たちは、自らの優勢を信じて疑わず、明朝の大広間での勝利を疑っていなかった。
――しかし、その夜半過ぎ。
奥御殿のお市の自室に、予期せぬ危急の報せが舞い込んできたのだ。
小谷城下の油問屋・大野屋宗兵衛が、身を低くして長廊下を駆け込み、青ざめた顔でお市の前に手をついた。
「お市様! 大変にございます……! 老臣どもが、評定を目前にして不気味な手を打ってまいりました!」
お市は文机の前のそろばんから手を離し、眉を寄せた。
「どうしたのです、大野屋」
「ははっ……! さきに関所の脱税を自白いたしました関所改め役の井口が、今夜未明、赤尾様の配下の武者どもによって拘束され、自邸に閉じ込められました! 明日の大評定で申し立てられぬよう、口を塞がれた模様にございます!」
「なに……!?」
お市の傍らに居た侍女のすずが、血の気を失って声を上げた。
大野屋はさらに汗を拭いながら言葉を重ねた。
「それだけではございませぬ! 勘定方に残されていた今年度の過帳の控えの一部が、さきほど老臣派の役人によって密かに持ち出され、破棄されたとの報が入りました! 老臣ども、お市様の動向を警戒し、自らの手で証拠を消しにかかっております!」
味方の動揺。
関所役人の拘束と、一部の過帳の破棄。
老臣たちもまた、長年浅井家を裏で牛耳ってきた百戦錬磨の古狸であったのだ。ただ手をこまねいて押されるのではなく、大評定の前にこちらの突きつける『証拠』と『申し立てる者』を根こそぎ潰しにかかってきたのだ。
すずが震える声でお市にすがった。
「お、お市様……! 関所の役人様が喋れず、過帳も燃やされてしまっては……明日の大評定で、老臣様方の不正を証明しきれなくなってしまいます……! このままでは、我が方が不利に陥ってしまいますぞ……!」
室内を包む、手に汗握るような極限の緊迫感。
すべてがお市の思い通りに進むわけではなかったのだ。敵の手強い反撃により、お市側の完璧だったはずの仕掛けに、大きな『穴』が開けられたのだ。
だが――お市は深呼吸をし、固く拳を握りしめた。
その瞳から迷いは消え去り、かえって冷徹な不敵の光が宿ったのだ。
「焦ることはありません、すず。大野屋」
お市の声は、驚くほど静かであった。
「関所の役人を塞ぎ、過帳の一部を燃やしたところで……老臣たちの罪が消えるわけではありません。彼らが消すことができたのは、表面の端切れに過ぎないのですから」
お市は文机の上の黒漆の文箱を静かに撫でた。
「私には、先に手に入れた『朝倉義景からの割当手形原本』と『当主追放の起請文』があります。そして何より……私には、このそろばんが弾き出す『知行高と納入高の差額』があります。役人が喋らずとも、過帳が一部消えようとも……朝倉の直筆花押と数字の矛盾さえ叩きつければ、老臣どもの言い訳など一溜まりもなく砕け散りますよ」
お市は立ち上がり、大野屋を見つめた。
「大野屋。そなたは明朝、城下の商人たちを集め、市場の塩価の推移を大広間の外から声高に申し述べられるよう、準備を整えなさい。申し立てる者が一人減ったなら、城下すべての商人を申し立てる者とすれば良いのです」
大野屋はお市の圧倒的な不屈の胆力に感服し、強く頷いた。
「ははっー! お市様! 直ちに手配いたしますぞ!」
大野屋が去り、深夜の室内に当主・長政が入ってきた。
長政もお市側の申し立てる者が塞がれた噂を聞きつけ、心配そうな面持ちであった。
「市……大丈夫か? 老臣ども、評定を目前にして汚い手を打ってきたようだが……」
お市は長政の手を優しく取り、温かな笑みを送った。
「ご心配には及びません、長政様。少しばかり道が険しくなっただけに過ぎません。……長政様、明朝の大評定、私を信じてついてきてくださいますか?」
長政はお市の手のぬくもりを確かめ、力強く頷いた。
「当たり前だ、市。俺はお前とともに立つ。どんな嵐が吹こうと、俺がお前を護る」
二人で深く手を握り合い、覚悟を固め合った。
老臣たちの最後の抵抗により、お市側は決して完全無欠の優勢ではなかった。
申し立てる者の拘束と証拠の一部喪失という、薄氷を踏むような緊張感を抱えたまま、決戦の刻限が刻一刻と迫っていたのだ。
やがて、小谷山の東の空が白み始めた。
初冬の冷たい朝霧が清水谷を覆い、小谷城本丸の大広間には、甲冑や重厚な正装に身を包んだ、浅井家の全家臣、ならびに北近江の国人領主たちが、続々と参集し始めていた。
上段の前に陣取る赤尾清綱、海北綱親ら老臣たちは、証拠は潰したと信じ込み、高慢な眼光で大広間を支配していた。
どん……! どん……! どん……!
評定の始まりを告げる重々しい陣太鼓の音が、小谷山の山肌を激しく揺らし、大広間全体へと轟き渡った。
文箱とそろばんを手に抱えたお市、そして当主としての覚悟を秘めた浅井長政が、堂々たる足取りで、大広間へと歩み出していった。
格子戸の向こうから吹き抜ける初冬の風が、大広間の緊張感を冷ややかに包み込んでいた。




