第19話:当主追放の最終通告
第19話:当主追放の最終通告
どん、と鈍い音を立てて、紫色の絹に包まれた一巻の巻物が浅井長政の文机の上に叩きつけられた。
小谷城本丸の奥書院。
秋の木枯らしが格子戸をがたがたと打ち揺らす中、室内に漲っていたのは、太刀の鐺や鞘が触れ合う微かな音と、男たちの荒い殺気であった。
書院に押し入ってきたのは、浅井家の筆頭宿老・赤尾美作守清綱を先頭に、海北若狭守綱親、遠藤直経、阿閉淡路守貞征ら、家臣団の重鎮たちであった。
彼らは普段の平服ではなく、小札を打ち連ねた重厚な胴丸に打当を重ね、腰には太刀を帯びていた。その背後に控える十数名の武者たちもまた、柄に手を添えたまま、長政を取り囲むようにして立ち並んでいた。
文机の前に坐す当主・浅井長政は、微動だにせず、文机の上に叩きつけられた紫の巻物を見つめた。
さきに夜陰に紛れて小谷城へ運び込まれた、室町幕府十五代将軍・足利義昭からの『信長追討の御内書』であった。
赤尾清綱は、黒漆の胴丸の胸を強く張り、長政を見下ろして言い放った。
「当主様! もはや猶予はございませぬぞ! 将軍様より直々に『織田は朝敵なり、即刻討伐すべし』との御内書が下されたのだ! これ以上、織田弾正忠などという成り上がりと同盟を続けること、断じて許されませぬ!」
海北綱親もまた、一歩前へ踏み出し、太刀の鞘を鳴らしながら声を張り上げた。
「然り! 朝倉様からも、将軍様の御命に従い、起ち上がるならば、北近江の諸将に対し、塩数千俵・鉄材多数のご恩賞をくださるとの書状が届いております! 将軍様のご威光と、朝倉様との三代の恩義! これ以上の大義名分がどこにありましょうや!」
老臣たちの声は、書院の梁を揺らすほどの凄まじい勢いであった。
だが、その利欲に溺れた赤尾や海北の横で、一人の老将が、苦渋に満ちた強い眼差しで長政を見つめていた。
浅井家屈指の猛将・遠藤直経であった。
遠藤直経は、赤尾たちとは異なり、純粋な武士の誇りと、浅井の家への深い忠誠心から、信長との同盟を危ぶんでいた男であった。
遠藤直経は前へ進み出て、畳に深く手をつくと、絞り出すような悲痛な声で長政に訴えかけた。
「当主様……! お聞きくだされ! この遠藤直経、朝倉様からの金や物資などどうでも良いのでございます! ですが……我が浅井家は三十年前、六角の大軍に追われ滅びかけた折、朝倉軍宗滴様率いる越前軍の助けによって命を繋ぎ、この小谷の地に返り咲くことができたのです! 朝倉様への恩義を捨て、織田へ従属すれば、武士の誇りは廃れ、北近江の武者どもの心は離れ去りましょうぞ!」
遠藤直経の言葉には、私利私欲ではない、古き武士としての真摯な情念と苦しみが溢れていた。
長政は遠藤直経の顔を見つめ、胸を突かれる思いを抱いた。
(直経……。お前は本当に浅井の家を思い、武士の恩義を信じておるのだな……。この男だけは、他の老臣どもとは違う。ただ家を案じ、誇りを守ろうとしているだけなのだ……)
だが、その直経の純粋な恩義を利用し、己の私腹を守ろうとしているのが、赤尾や海北らなのであった。
赤尾は直経の言葉が終わるのも待たず、鼻で笑った。海北もまた耳を貸さず、肩をすくめた。
赤尾清綱は直経の頭越しに長政を睨みつけ、威圧するように一歩踏み出した。
「当主様! 直経の申す通りだ! 我ら老臣一同、もはやこれ以上、当主様の迷いにお付き合いいたす気はございませぬ! ここに『最終の通告』を申し上げます!」
「最終の……通告だと……?」
長政が声をひそめると、海北綱親が陰惨な笑みを浮かべて畳に両手をついた。
「然り! 明日までに、織田との同盟を完全に破棄し、お市様を離縁して岐阜へ送り返すとお誓いくだされ! そして、朝倉様とともに信長追討の先陣を切るとお決めくだされ!」
「もし……俺がそれを拒んだら、どうするつもりだ」
長政が真正面から問い返すと、赤尾清綱の顔から笑みが消え、冷酷極まる殺気が室内に満ち溢れた。
「決まっております! 当主様が織田に執着し、朝倉様との義理を捨てられるとお仰るなら……我らは当主様を当主の座から引きずり下ろします!」
もはや謀反を隠そうともしない言葉であった。
赤尾清綱は手をかざし、周囲の武装した武者たちへ合図を送った。武者たちが一斉に太刀の柄に手を添え、長政の周りを半円状に取り囲む。
「父・久政様が六角に従属しようとされた折と同じく……当主様を直ちに奥の別殿へ押し込め、当主の座を退いていただきます! 代わりに弟君を新たな当主に立て、我ら老臣の手によって朝倉様とともに織田を討ちます!」
遠藤直経が「赤尾殿! 当主様をお押し込め奉るなど、過激に過ぎるのではないか!」と慌てて制しようとしたが、私腹を守ろうとする赤尾や海北は、直経の制止を黙殺した。
「直経、口を挟むな! 当主様がお聞き入れくださらぬ以上、こうするより他ないのだ!」
追い詰められた若当主の絶体絶命の構図。
老臣たちは、将軍の御内書と朝倉の手形を背景にして、長政に逃げ道はないと信じていた。彼らの瞳には、若き当主を力で屈服させたという、傲慢な確信が満ちあふれていた。
長政は固く拳を握りしめ、悔しそうに頭を垂れた。
だが、その垂れ込められた前髪の奥で、長政の瞳は氷のように冷たく澄み切っていた。
(……思う存分、語ったな、赤尾、海北。直経のような忠義の者の心まで利用し、お前たちが自ら謀反を口にするこの瞬間を……俺と市は待っていたのだ!)
老臣たちが「さあ、当主様! 二つに一つ、今すぐここでお決めくだされ!」と怒号を浴びせかけた、まさにその極まった瞬間であった。
からり……と、静かな竹の滑る音が響いた。
奥書院の脇にある控えの間の襖が、静かな手つきで開け放たれたのだ。
立ち並ぶ武装武者たちが一斉に振り返り、太刀の柄に手をかけた。
そこに立っていたのは、朱色の鮮やかな小袖に身を包んだ、お市であった。
お市の背後には、重々しい黒漆の文箱を両手に抱えた侍女・すずが、緊張に肩を強張らせながら控えていた。
お市は武者たちの殺気と威圧を意に介することなく、すっと背筋を伸びやかに立て、気品に満ちた足取りで室内に足を踏み入れた。
「お……お市様……!?」
赤尾清綱と海北綱親の顔に、あからさまな不快感と動揺が走った。
赤尾清綱は太刀の柄を握り直し、お市を射抜くような視線で睨みつけた。
「織田の姫……! なぜこのような場所に姿を現す! 我らは当主様と浅井の家の重大な儀を議論しておるのだ! 女子の出る幕ではない、失せられよ!」
海北綱親もまた、凶悪な声を張り上げた。
「聞こえなかったか! お前はもはや離縁される身ぞ! 直ちに部屋へ戻り、岐阜へ送り返される準備でもしておれ!」
老臣たちの怒号と罵声が、お市へと浴びせかけられた。
普通の姫であれば、膝が震え、息を詰めてしまうほどの威圧。
しかし、お市は顔色ひとつ変えず、冷ややかな笑みを口元にたたえたまま、長政のすぐ傍らへと進み出た。
そして、赤尾清綱の顔を、真っ直ぐに見つめ返したのだ。
「赤尾殿、海北殿。当主様に対する大層なお迫り……控えの間より、しかと拝聴いたしました」
お市の声音は、恐ろしいほどに澄み切り、静かであった。
だが、その声の底に通る絶対の気品と、一切の怯えを知らぬ強烈な圧力が、怒号に満ちていた書院を、水を打ったように静まり返らせた。
赤尾清綱はお市の隙のない瞳の奥に宿る光に、なぜか背筋に冷たい蛇が這い上がるような恐怖を覚え、言葉を詰まらせた。
「な……なにを言うか……! 我らは浅井の家と朝倉様との義理のために、当主様に覚悟を迫っているのだ! 織田の手先にとやかく言われる筋合いは……!」
「『義理』、でございますか」
お市は赤尾の言葉を静かに遮り、ふっと不敵な笑みを深めた。
「あなた方がどれほど浅井の家を思い、朝倉様との恩義を重んじておられるか……そのご忠義、ようく分かりましたよ。あなた方の言い分、しかと伺いました」
お市は長政に向き直り、優しく微笑みかけた。長政もお市を見つめ返し、固く頷いた。
お市は再び老臣たちに向き直り、その冷酷な視線で赤尾と海北を射抜いた。
「ならば――明日、小谷城の全家臣を集めた『大評定』を開きなさい」
静かな宣言であった。
しかし、その言葉は、老臣たちの頭上に轟く雷鳴となって響き渡った。
赤尾清綱が絶句し、目を丸くした。
「な……大評定だと……!?」
「左様でございます」
お市は小袖の袖をさっと払い、凛とした佇まいで言い放った。
「当主様を当主の座から引きずり下ろし、織田との同盟を破棄するというほどの重大な決断。そのような重要な儀を、このような奥書院で、あなた方数人だけで勝手に決めるなど、武家の道理が通るはずもございません」
お市は文箱を抱えるすずに目配せをし、さらに言葉を重ねた。
「明日、小谷城のすべての家臣、国人どもを大広間に集めなさい。あなた方が叫ぶその『朝倉への恩義』とやらを、堂々と全家臣の前で存分にお述べになればよろしいでしょう。そこで……すべてに決着をつけます」
お市の放つ圧倒的な威厳と、反論を許さぬ道理。
老臣たちは、自分たちが当主追放の完璧な罠を仕掛けたつもりでいたが、いまやお市によって、彼ら自身が大評定という全家臣の前へ引きずり出されようとしているのだ。
赤尾清綱は額にじわじわと脂汗を浮かべ、不服そうに歯を噛み鳴らした。全家臣の前で堂々と恩義を説くこと自体は、彼らにとっても断る理由のない望むところであったからだ。
「ふ……ふん! 望むところにございます!」
赤尾清綱は胸を張り、長政とお市を指差した。
「明日、大評定の場で、北近江の武者どもが全員、我ら老臣と朝倉様につくことを思い知るが良い! 当主様、明日の朝、大広間にてお待ちしておりますぞ!」
老臣たちは捨て台詞を残すと、お市を苦々しく睨みつけながら、足早に奥書院を辞していった。
老臣たちの足音が遠ざかるのを見届けると、お市は静かに文箱へ手を置いた。
「長政様。いよいよ明日でございます」
長政はお市の手を強く握り返し、二人は深く視線を交わした。
木格子の向こうから吹き抜ける秋の冷たい風が、行灯の火影を静かに揺らしていた。




