第18話:密書を巡る攻防
第18話:密書を巡る攻防
合戦は、槍を交える前より始まっている。
秋風が小谷山の黒ずんだ杉林を激しく揺らし、清水谷に不穏な風鳴りを響かせていた。
小谷城の奥御殿、お市の自室では、行灯の火影の下で、密やかな、しかし凄まじい熱量を帯びた水面下の駆け引きが繰り広げられていた。
さきに侍女のすずが命からがら持ち帰った、老臣たちの恐ろしい陰謀――当主・浅井長政を力づくで押し込めて当主追放を強行し、お市をも捕らえんとする主取り替えの計画。
その報告を受けたお市と長政は、ただ怯えて逃げ惑うことはしなかった。
文机を挟んで座すお市の前には、侍女のすずと、小谷城下の市場で油問屋を営む初老の商人・大野屋宗兵衛が、畳に深く額を擦りつけていた。
「大野屋。さきに頼んだ手配、ぬかりはありませんね?」
お市が静かに問いかけると、大野屋は頭を上げ、固い面持ちで答えた。
「ははっ! お市様! 深坂峠の宿の主人や、街道筋の馬方どもに銀銭を握らせ、老臣様方の密使の動きを探らせております。……ですが、お市様、敵もさるものにございますぞ」
「ほう……何か動きがありましたか?」
「へい。お市様が城の勘定改めを始められたことに危機感を抱いた赤尾様や海北様が、大評定の前に己の不義を隠さんとして、赤尾家配下の奉行人の屋敷や古い蔵から、過去の通行手形や朝倉様との割当帳面を人知れず持ち出し、焼き捨てて破棄しようと企んでおります!」
帳面を闇へ葬ろうとしていた――。
老臣たちもまた、長年培った政治の勘で、己の不当な私腹の証拠を消し去ろうと、陰で手を打っていたのだ。
すずが息を呑み、顔を蒼白にした。
「お市様……! もし過去の帳面を燃やされてしまっては、大評定で老臣様方の不正を証明することができなくなってしまいます……!」
お市は冷ややかな笑みを口元に浮かべ、手元に置いた木製の算具――そろばんの木玉を、指先で軽く鳴らした。
(己の罪を消し去ろうと焦り始めたか……。だが、焦って動いた時こそ、決定的な綻びを出すものよ)
「大野屋。老臣たちが帳面を処分しようと動くその場所……今夜が勝負ですよ。処分を命じられた役人や足軽を、金と将来の利で抱き込みなさい。焼き捨てられる前に、原本を奪い取るのです」
「ははっ! 実は、勘定方の老役人・竹内の配下に、多額の借財を抱えて苦しんでいる小侍がおります。その者に十分な金と、お市様からの救済のお約束を与えれば、必ずや帳面をこちらへ回すよう手引きさせることができますぞ!」
「頼みますよ、大野屋。……急ぎなさい」
「ははっー!」
大野屋宗兵衛はお市から証文を懐に深く抱え込むと、影のように部屋を辞していった。
その夜、小谷城の勘定所の裏手に建つ古い土蔵の陰で、人知れず息詰まる暗闘が繰り広げられていた。
老臣・赤尾清綱の命を受けた赤尾家配下の奉行人が、竹籠に詰め込んだ古い過帳や手形留めの束を運び出し、油を注いで火を放とうとしていたのだ。
「急げ! 織田の姫に見つかる前に、すべて灰にせよ!」
奉行人が火打ち石を打ち鳴らし、火花が飛び散った、まさにその瞬間であった。
暗闇の中から、数人の影が猛然と飛び出してきた。
大野屋が金を握らせて手引きさせた小侍と、街道筋から呼び寄せた草たちであった。
「だ、誰だっ!?」
奉行人が叫ぶ間もなく、草の手によって口を塞がれ、その場で一瞬にして取り押さえられた。
小侍が手早く竹籠の中から油紙に包まれた和紙の束を抜き取り、代わりに用意しておいた不用の紙を竹籠へと押し込んだのだ。
だが、すべてを奪い取ることはできなかった。一冊の過帳が火の粉を浴び、燃え始める。草の一人がそれを蹴散らそうとして足を滑らせ、軽く傷を負った。
「火を付けろ! 燃え尽きるのを見届けてから逃げるのだ!」
小侍たちが不用の紙に火を放ち、激しい黒煙と炎が立ち上る中、残された帳簿と手形を抱えた草たちは、夜陰に紛れて姿を消したのであった。
老臣たちが「証拠はすべて灰となった」と高を括っていたその裏で、彼らが喉から手が出るほど隠したかった『不義の記録』の大半は、お市の手元へと引き渡されていたのだ。
それから数刻後。深夜の小谷城本丸の奥書院。
行灯の灯を落とした室内に、お市と浅井長政、そして大野屋の手から密書を受け取ったすずが顔を揃えていた。
お市は慎重な手つきで油紙を解き、中に納められていた白い越前で漉かれた奉書の密書を広げた。
長政が固唾を呑んで、行灯の光に紙面を寄せた。
そこに記されていたのは、赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親ら、一部の宿老が連署し、越前朝倉家の当主・朝倉義景、ならびに室町御所の取次へ宛てて送ろうとしていた、驚くべき「起請文」であった。
『越前朝倉義景様、ならびに室町御所様へ。
浅井当主長政、織田との同盟に狂奔し、将軍様のお命じを蔑ろにいたす兆しあり。我ら北近江の諸将、一致団結してこれを正すべく、来る大評定の折、当主長政を奥御殿に押し込め、当主の座を剥奪すべし。
なお、織田より嫁ぎしお市は即刻捕らえ、朝倉様への忠誠の証とす。右、手筈に寸分の狂いもなし』
紙面の末尾には、赤尾清綱、海北綱親をはじめとする一部の宿老たちの、自筆の署名と花押、そして血判が、克明に据えられていた。
「な……なんということだ……!」
密書の文面を読み終えた瞬間、長政の顔から血の気が失せ、激しい絶句と身の震えが襲いかかった。
長政の手が、激しく震え、太刀の柄を破らんばかりに握りしめられた。
「赤尾……海北……! あやつら……ここまで……ここまで俺と浅井の家を売り渡していたのか……! 当主追放どころか……俺を閉じ込め、市を捕らえて朝倉へ差し出すだと……!?」
長政の喉から、血を吐くような悲痛な叫びが漏れ出た。
祖父の代からの臣であり、自分が幼い頃から浅井家を支えてきたと信じていた老臣たち。彼らが、自分を当主の座から引きずり下ろし、最愛の妻であるお市を捕らえようとしていたという、あまりにも残酷な裏切りの現実。
「許せぬ……! 断じて許せぬ……! 奴らは……奴らはもはや家臣ではない! 朝倉の不当な金で狂った、ただの野犬だ……!」
長政は激しい憤怒のあまり、唇を噛み締め、文机の上の太刀の鞘を強く鳴らした。
お市は長政の傍らに静かに寄り添い、長政の震える肩を優しく抱きしめた。
長政の激しい息遣いが、お市の小袖を揺らす。
だが、お市の瞳には、悲しみも動揺も一切存在しなかった。
そこに宿っていたのは、前世の知性と、見知らぬ地に嫁ぎながらも愛する夫を得た一人の女性としての、凛とした決意であった。
(……そこまでやる気なのね、老臣どもは)
お市は長政の手から密書をそっと受け取ると、その紙面へ静かに指を滑らせた。
老臣たちは、自分たちが証拠を燃やし尽くし、完璧な陰謀を張り巡らせて大評定の場で長政を当主追放へと追い込めると思い上がっている。
だが、彼らが極秘裏に進めていたはずの主取り替えの密約も、お市を捕らえる計画も、そして燃やしたはずの不義の出納帳も、その大半は、いまやお市と長政の手の中に揺るぎない証として握られたのだ。
「長政様。お心を痛められることはございません」
お市は長政の手を優しく包み込み、その目を真っ直ぐに見つめ返した。
「老臣たちは、証拠を滅ぼしたと信じ込み、自らの勝利を確信して油断しきっております。彼らが大評定の場で誇らしげに『朝倉への義理』を叫び、あなた様を脅しにかかったその瞬間に……私たちは、さきに手に入れた『不義の帳簿』と、この『当主追放の起請文』を、全家臣の前で叩きつけてやるのです」
お市の声は、氷のように冷たく、美しかった。
「彼らが誇る『義理』の大義名分が、ただの私腹の横領と、主君を売る不忠であったことが暴かれた時……彼らは家臣団全体から見捨てられ、二度と立ち上がれぬ地獄へと落ちていきましょう」
長政はお市の冷徹にして凛とした佇まいに息を呑み、力強く深く頷いた。
長政の瞳に、絶望を完全に拭い去った、当主としての揺るがぬ覚悟が宿った。
「ああ……お前の言う通りだ、市。俺はもう、一片の情けもかけぬ。老臣どもを厳しく裁き、浅井の家からあの腐った病根を、俺自身の手で叩き切ってみせる……!」
「ええ、長政様。私たちが、勝利するのです」
長政はお市の手を強く握り返し、二人は深く視線を交わした。
お市は静かに立ち上がると、文机の上に残された不義の起請文と帳簿の控えを、黒漆の文箱の中へと慎重に納めた。
文箱の蓋が、硬い音を立てて閉ざされる。
木格子の向こうから吹き抜ける秋の冷たい風が、行灯の火影を静かに揺らしていた。




