第17話:老臣たちの暗躍
第17話:老臣たちの暗躍
さら、さら……と、砥石が冷たい鋼を削り落とす乾いた金属音が、小谷城の山裾に広がる武家屋敷街の暗がりから、途切れなく響いていた。
秋の冷気が立ち込める赤尾美作守清綱の屋敷。その敷地奥深くに建つ厚い土壁の蔵の中では、行灯の火影の下、数十頭の荷馬から運び込まれたばかりの越前からの物資が、所狭しと積み上げられていた。
俵からこぼれ落ちる粗塩の潮臭さと、新調された鉄製具足に塗られた黒漆の匂いが、蔵の空気を重く沈ませている。
赤尾清綱は、職人が研ぎ上げたばかりの十文字槍の刃先を指先でそっと確かめると、冷たい満足の笑みを浮かべた。
「良い切れ味だ。……朝倉様から下された越前鍛冶の槍は、やはり出来が違う」
蔵の奥には、赤尾清綱のみならず、海北若狭守綱親、そして浅井家傘下の近江国人領主である阿閉淡路守貞征や新庄駿河守直頼らの姿があった。
文机の上に広げられているのは、先般搦手門から極秘裏に運び込まれた、室町幕府十五代将軍・足利義昭からの『信長追討の御内書』と、朝倉義景からの手形であった。
阿閉貞征は、将軍の朱印が捺された御内書と、手形に記された「千貫文・塩二千俵」という途方もない数字を見つめ、喉を鳴らして唾を呑んだ。
「赤尾殿……これは真に、将軍様からの直々の御命令なのか? 朝倉様からも、これほどの物資が約束されているというのか……」
「疑うか、阿閉殿」
海北綱親が割り込み、重々しく首を振った。
「御内書の朱印も、朝倉様の花押も本物にございます! 将軍様が『織田は朝敵なり』とお命じになられ、朝倉様がこれほどの手厚いご庇護を下さっているのだ! これで全国の大名も動くやもしれぬ。我ら北近江の武者が、織田などという成り上がりと同盟を続ける理由がどこにありましょうや!」
新庄直頼が、不安そうに眉をひそめた。
「しかし……当主・長政様は、織田信長との同盟を強く望んでおられる。お市様をお迎えし、祝言を挙げられたばかりではないか。長政様のお気持ちを無視して朝倉様につき、織田を背後から襲うなど……」
「当主様はお若いゆえ、織田の口車に騙されているのだ!」
赤尾清綱が声を荒げ、畳を力強く叩いた。
「織田は自らの野心のために浅井を利用し、いずれ我ら北近江の国人どもをひれ伏させ、領地を奪うつもりなのだ! 織田と結べば、朝倉様からの塩も鉄も途絶え、我が領民は飢え苦しむことになる! 当主様が織田に眩まみれておられるなら、我ら老臣が浅井の家を正さねばならぬ!」
赤尾清綱は身を乗り出し、阿閉や新庄らの顔を順に見回しながら、陰惨な笑みを浮かべた。
「父・久政様が六角に従属しようとされた折、我ら家臣団がどのような措置を執ったか、お忘れではあるまい。もし長政様がなおも織田に執着し、朝倉様との義理を捨てられるとお仰るなら……我らは当主様を奥御殿に押し込め、弟君を新たな当主に立ててでも、朝倉様とともに立つ覚悟にございます!」
主取り替えの、生々しい威嚇であった。
阿閉淡路守貞征と新庄駿河守直頼は息を呑み、顔を見合わせた。
将軍の御内書という絶対の大義名分。朝倉家から約束された莫大な手形。そして、浅井家の実権を握る赤尾・海北ら老臣たちの絶対的な脅迫。
浅井家傘下の国人領主たちは、己の領地と立場を守るため、一人、また一人と、老臣たちが仕掛けた暗躍の罠の中へと巻き込まれていったのだ。
だが、老臣たちも決して油断していたわけではなかった。
お市が奥向きの勘定帳を改め始めたと知った赤尾清綱は、自らの屋敷周辺や小谷城の要所に手勢の見張りを増やすよう厳しく命じていたのだ。
お市の手配によって動いていた城下の問屋・大野屋宗兵衛の手代は、まさにこの夜、老臣側の厳しい警戒網に引っかかりかけていた。
手代が赤尾屋敷の裏手で密使の出入りを探っていた折、突如として見回りの老臣派の武者に見咎められたのだ。
「誰だ! そこで何をしている!」
刀が抜かれる甲高い音。手代は生きた心地もせず、必死で小路を駆け逃げた。
追手の手から這う這うの体で逃げ延びたものの、その拍子に手代の手から控え帳が暗闇の中へ滑り落ちてしまった。幸いにも老臣派の武者はそれに気づかぬまま行き過ぎ、翌朝すずが密かに人をやって回収させたものの、お市側の調査は一時、危うく露見しかける事態となったのだった。
「お市様……! 申し訳ございませぬ! 赤尾様の警護が厳しく、こちらの動きが悟られそうになってございます……!」
大野屋宗兵衛がお市の自室で冷や汗を流して平伏した。
すべてが思惑通りに進むわけではない。老臣たちの老練な警戒と、一歩間違えればお市たちの命が危うくなるという、生々しい死線の恐怖。
しかし、お市は慌てなかった。
「大野屋、焦ってはなりませぬ。敵が警戒を強めたということは、それだけ『暴かれたくない不義』があるという証拠です。表からの探りが塞がれたのなら……城内の『声』に耳を澄ませなさい」
お市は冷徹に気持ちを切り替え、侍女のすずを通じて、城内の給仕や裏方の動きへ注視を絞り込ませた。
そして、その一手こそが、決定的な陰謀の証拠を掴み取ることとなったのだ。
その日の昼下がり。
すずは奥御殿の賄い所から、お市の自室へ差し出す茶を受け取りに向かっていた。
賄い所の裏手、長廊下の曲がり角にある荷置き場の物陰を通った折、すずの耳に、低く押し殺した侍たちの話し声が飛び込んできたのだ。
すずは足音を殺し、木格子の陰からそっと覗き込んだ。
そこに居たのは、赤尾屋敷に出入りする足軽頭の男と、城内の警固を務める老臣派の武士であった。
「……おい、手筈は整ったのか」
「ああ。赤尾様と海北様のお言付かりだ。近々開かれる大評定の場で、当主様に最後のお迫りをなさる。もし当主様が朝倉様との同盟を突っぱねられたなら……その場で当主様を取り囲み、奥の別殿へ押し込める」
「織田から来たお姫様はどうなさるのだ?」
「ふん、織田の姫など、もはや人質としての価値もないわ。当主様を押し込めると同時に、お市様は捕らえて奥御殿に軟禁する。岐阜へ送り返すか……最悪の場合は、朝倉様への誓いの証として、首を撥ねて一乗谷へ届けることになるやもしれぬ」
「呵々、冷酷なことだ。だが、これで我らにも朝倉様からたっぷりと塩と銭が下されるのだな」
「間違いない。老臣様方につけば、思いのままよ……」
男たちの不当な嘲笑声。
木格子の陰で話を聞いていたすずは、全身の血が凍りついたかのような恐怖に襲われた。
両手で口を強く覆わなければ、悲鳴が漏れ出そうであった。
(当主様を押し込め……お市様の首を撥ねる……!? な……なんて恐ろしい……! 老臣様方は、本当に主取り替えを起こすおつもりなのだわ……!)
すずはがたがたと膝を震わせながら、男たちに気づかれぬよう必死に足音を殺し、命からがらその場を離れた。
「お市様っ……! お市様ぁっ……!」
奥御殿のお市の自室の襖が激しく開かれ、すずが転がり込むようにして入ってきた。
すずの顔は土気色に蒼白となり、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。
文机でそろばんを手に帳簿の照合を行っていたお市は、すずの異様な様子に即座に立ち上がった。
「すず! 一体どうしたのですか! 何があったのですか!」
「お……お市様……! 大変にございます……! 老臣様方が……赤尾様や海北様方が……!」
すずはお市の小袖の裾に食らいつき、がたがたと身体を震わせながら、さきに賄い所の裏手で盗み聞いた恐ろしい密談の内容を、途切れ途切れに打ち明けた。
当主・長政を力づくで押し込めて当主の座から引きずり下ろすこと。
そして、お市を捕らえ、最悪の場合は首を撥ねて朝倉義景への土産にするという、老臣たちの残酷な主取り替えの陰謀を。
すずの告白を聞き終えた瞬間、お市の美しい顔から一切の表情が消え去った。
室内に、氷のように冷たく、刃のように鋭い静寂が降り積もる。
(……当主追放どころか、長政様の身を拘束し、私を殺すつもり……!?)
お市の手の中で、そろばんの木玉が軋むように音を立てた。
胸の奥から湧き上がってきたのは、恐怖ではない。
己の夫であり、共に未来を歩むと誓い合った長政を傷つけ、己をただの犠牲者として殺そうとする老臣たちの醜悪な強欲に対する、激しい怒りであった。
(許さない……。断じて許さないわ……!)
お市の中で、前世の知性と冷徹な観察が、凄まじい速度で回転し始めた。
老臣たちは、将軍の御内書と朝倉の手形を背景にして、完全に正気を失っている。彼らはもはや浅井家に仕える家臣ではない。自らの私腹を守るためなら、主君を倒し、国を売り渡すことも辞さない「不忠の者」そのものなのだ。
彼らが企んでいるのは、大評定の場での実力行使。
長政が拒絶した瞬間、力づくで長政を捕らえ、主取り替えを強行する気なのだ。
(こちらが手をこまねいていれば、長政様は本当に討ち取られてしまうわ……! 敵が実力行使に出る前に、彼らの密謀の証拠を完全に固め、こちらから大評定を仕掛けて息の根を止めなければ!)
お市はすずの肩を強く抱き起こし、その目を真っ直ぐに見つめた。
「すず、よく教えてくれましたね。そなたのおかげで、私たちは敵の仕掛けを事前に知ることができましたよ。そなたは、我が家を救った大きな働きをしました」
「お……お市様……! お市様はお怖くはないのですか……!? 老臣様方は、お市様の命まで狙っておられるのですよ……!」
「怖くなどありません」
お市は凛とした美しき笑みを浮かべ、力強く言い切った。
「嘘と買収で固めた不義の刃など、真実の数字の前には折れ曲がるのみです。私と長政様には、彼らが絶対に逃れられぬ『不義の帳簿』と『近江物流の未来』があるのですから」
お市はすずの肩からそっと手を離すと、文机の上の黒漆の文箱を抱え直した。
「行きましょう、すず。長政様のもとへ」
「はいっ、お市様!」
お市は朱色の小袖の裾を払い、すずを伴って長廊下へ踏み出していった。
秋の冷たい風が、奥御殿の木格子を優しく撫でていくだけであった。




