第16話:信長討伐の密使
第16話:信長追討の密使
夜陰に紛れて、北国街道の深坂峠を越えてきた一騎の馬があった。
馬上の男は頭から深く深編笠を被り、雨上がりでぬかるんだ山道を、馬を操りながらひた走っていた。その懐には、京の室町御所、ならびに越前一乗谷の朝倉館から放たれた、決して公にできぬ秘印の文書が厳重に納められていた。
だが、その男が峠の麓にある宿場町で馬を休めた折、宿の主人は目ざとく使者の着物の下に覗く越前絹の質の高さと、馬の鞍に刻まれた朝倉家の紋章を見逃さなかった。
宿の主人は、先般小谷城下の油問屋・大野屋宗兵衛からたっぷりと銀銭を握らされ、「越前や京からの怪しげな使者が通れば、直ちに報せよ」と固く言い含められていたのだ。
使者が湯を浴びている隙に、宿の主人は裏口から小者に走らせ、大野屋の手配した者へと密かに報せを飛ばしたのである。
万能の忍びだけに頼るのではない。金で動く宿の主人や、街道筋の馬方、関所の小役人といった市井の人々の目が、お市の手によって張り巡らされた草と結びつき、敵の動向を確実に捉えていたのだ。
そうとは知らぬ越前からの密使は、夜半過ぎ、小谷山の北側に位置する搦手門――山背の険しい岩壁に隠された裏門の前で、馬から下り立った。
暗闇の中から、提灯の灯火を持った二人の武者が静かに姿を現した。
武者たちの着物の襟元には、浅井家の宿老・赤尾美作守清綱の家紋が彫られた小柄が覗いていた。
「越前からの使者殿か」
武者が低く問うと、男は無言で頷き、懐から一本の竹筒を取り出して差し出した。竹筒の封印には、越前朝倉家の朱印が鮮やかに押されていた。
「よくぞ参られた。筆頭宿老・赤尾様がお待ちかねにございます。当主様や織田の姫の耳に入らぬよう、こちらへ」
使者は手綱を武者に預けると、足早に搦手門の暗がりの中へと消えていった。
その夜、当主・浅井長政が眠りにつく本丸の奥御殿から遠く離れた、清水谷の対岸――赤尾清綱の豪華な屋敷の奥間では、秘密の会合が開かれていた。
黒塗りの文机を囲むのは、赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親、そして遠藤直経の三人であった。
部屋の隅には、追手門からではなく搦手門から潜入した深編笠の男――朝倉家の密使である使僧が、畳に深く伏していた。
赤尾清綱は、手元に差し出された一巻の紫色の絹の巻き物を、恭しく両手で掲げ持っていた。
絹の紐を解き、慎重に広げられた和紙の表面には、高貴にして威圧感に満ちた筆跡で、言葉が連ねられていた。
紙の末尾に捺された、鮮やかな朱印――室町幕府十五代将軍・足利義昭の直筆たる『御内書』であった。
「……『織田弾正忠信長は、幕府の権威を蔑ろにし、天下の秩序を乱す朝敵なり。浅井家におかれては、朝倉家と深く手を携え、即刻信長追討の兵を挙げられるべし』……!」
赤尾清綱が声を出して読み上げると、海北綱親の顔に、暗い歓喜の笑みが浮かび上がった。
「おお……! 将軍様直々の、信長追討の御内書……! これぞ、我らが待ち望んでいた大義名分にございますぞ!」
使僧が静かに頭を上げ、濁った声で付け加えた。
「朝倉義景様からのご伝言にございます。『浅井家が将軍様のお心に応え、織田との同盟を破棄し、背後から織田を撃たれるならば、朝倉家は北近江の諸将に対し、従来の二倍の塩と鉄、ならびに金を新しく進上いたす』と……」
使僧が文机の上に置いたのは、朝倉家の花押が捺された新たな手形であった。
海北綱親は膝を打った。
「見られよ、赤尾殿! 将軍様のお命じがあり、朝倉様からはこれほどの手厚い手形が約束されたのだ! もはや、あの若当主の『織田との同盟』などという戯れ言に付き合っている暇はございませぬ!」
赤尾清綱もまた、手形を愛おしそうに撫でまわし、暗い眼光を輝かせた。
「然り、然り……。これで勝負は決した。長政様がどれほど織田兄上を敬愛しようと、将軍様と朝倉様のお命じとあらば、北近江の国人どもは一人残らず我らに従う! もし長政様がなおも織田に執着されるならば……父・久政様と同じく、奥御殿に押し込め、弟君を当主に立ててでも、織田を背後から撃つまでよ!」
老臣たちの部屋に、忍びやかな、しかし不当な笑い声が満ちていった。
浅井家の当主である長政の頭越しに、将軍の権威と朝倉の莫大な不当利益を使った、完全な当主追放と織田襲撃の陰謀が、着々と形作られていたのだ。
翌朝、城内を覆う空気は、昨日までとは打って変わって不穏な緊迫感を帯びていた。
長政は何も知らされぬまま、本丸の中広間で日常の政務を執っていたが、出入りする家臣たちの態度には、どことなく当主を軽視し、遠巻きに見るような冷やかさが混じっていた。
そして、その異変を察知したのは、奥御殿に居るお市であった。
お市の自室に、お世話係の侍女・すずが、顔を蒼白にして駆け込んできた。
「お、お市様……大変にございます……! 今朝がた、奥の台所や井戸端で、老臣様方の配下の侍たちが不気味な噂話を囁き合っておりました……!」
お市は文机の上のそろばんからそっと手を離し、すずを見つめた。
「すず。落ち着きなさい。何を聞いたのですか?」
「は、はいっ……! 老臣様方の配下が……『もうすぐ、小谷城の主が変わる』『織田から来たお姫様も、せいぜい今のうちに贅沢を楽しんでおくがいい』と、あからさまに私どもを嘲笑っておりました……! さらに、昨夜遅く、越前や京の方角から、怪しげな使者が赤尾様の御屋敷へ入っていったと、出入りの商人から密かに報せが入ってございます……!」
すずの報告を聞いた瞬間、お市の脳裏に、氷のような冷絶な危機感が突き走った。
(……京と越前から、同時に怪しげな使者が。しかも赤尾の屋敷へ……)
お市の中で、前世で学んだ歴史の知識が急速に繋がり始めた。
京といえば室町御所。将軍・足利義昭が、信長に実権を奪われたことに激怒し、諸国の大名や国人へ「信長追討」の御内書を極秘裏にばら撒いていた、という記憶が蘇る。
そして越前は朝倉。義昭の意を受け、あるいは自らの利益のために、浅井家を動かそうとする勢力だ。
(将軍の御内書が、この城に届いた……? しかも当主の長政様ではなく、赤尾や海北ら宿老の手に……!)
本来の歴史において、織田信長を突如襲った包囲網。
世間の噂では、浅井長政が突如裏切ったとされていた。しかし、実際の裏側で糸を引いていたのは、義昭と朝倉義景であったのだ。
そして、この小谷城において、その御内書を受け取ったのは、当主の長政ではなく、朝倉の不当な利益に染まっていた赤尾や海北ら老臣たちだったのだ!
(そうだったのね……! 将軍の御内書と朝倉の莫大な不当利益を手に入れた老臣たちが、長政様を当主の座から引きずり下ろす『当主追放』を盾にして、長政様を無理やり織田襲撃へと追い込もうとしているのだわ!)
お市は激しい怒りと危機感に、小袖の袖を固く握りしめた。
老臣たちは、将軍の御内書という大義名分を手に入れたことで勢いづいている。彼らは近いうちに、長政に対して「朝倉とともに織田を撃て。嫌なら当主を辞めよ」という、最終通告を突きつけてくるはずだ。
長政は今、己の知らぬところで、当主追放という絶体絶命の崖っぷちに立たされているのだ。
「もう……悠長に構えている時間はないわ……!」
お市は力強く立ち上がった。
文机の上には、以前に解読した老臣たちの『不義の帳簿』と、お市が描き上げた『近江物流構想』の絵図面が置かれている。
敵が将軍の御内書という大義名分を武器に当主追放を狙ってくるのであれば、こちらが仕掛ける大評定を、一刻も早く開催させねばならない。
老臣たちが家臣団を完全に掌握する前に、彼らの腹の底にある「不当な横領」を全家臣の前で暴露し、息の根を止めねばならないのだ。
「すず! 直ちに長政様のお部屋へ向かいますよ!」
「は、はいっ! お市様!」
お市は朱色の小袖の裾をさっと払い、気品と決意を漂わせながら、奥御殿の長廊下を滑らかな足取りで進み出した。
将軍と朝倉の陰謀が忍び寄る城内。
夫・長政を当主追放の危険から救い出し、悲劇の筋書きを完全に塗り替えるための大評定に向けて、お市の命がけの戦いは、いよいよ一刻の猶予も許されぬ緊迫の局面へと突入していくのであった。




