第15話:夫婦の誓い
第15話:夫婦の誓い
黒漆の文箱に納められた不義の記録、朱の鮮やかな線が描かれた『近江諸国交通絵図』、そして滑らかな木肌を持つそろばん――。
小谷城の奥御殿、お市の自室の文机の上には、浅井家の不当な旧弊を根底から覆すための「三つの道具」が整然と並べられていた。
大評定を明後日に控えた夜。秋風が木格子を優しく叩き、行灯の柔らかい火影が、畳の上に坐すお市と当主・浅井長政、そして侍女のすずの姿を赤々と照らし出していた。
そこへ、お市の計らいにより奥御殿の裏手から密かに招き入れられた一人の男が、息をひそめて入ってきた。
小谷城下の市場で油問屋を営む初老の商人・大野屋宗兵衛であった。
大野屋はすずの実家である小問屋と深い繋がりを持ち、かつて織田家が治める美濃や尾張の商人とも商いを行っていた、目端の利く男であった。
大野屋はお市の前に膝を突き、深々と頭を下げた。
「お市様、当主様……。夜分のお呼び出し、一体いかなるご用向きにございますか」
お市は静かに大野屋を見据え、文机の上の美濃紙を一包み差し出した。
「大野屋。そなたに頼みたい『特別の商い』があります。……老臣たちが越前朝倉家や他国と取り交わしている、極秘の手紙や密使の動きを……城下の商人たちの目を使い、私のもとへ届けて欲しいのです」
お市の言葉を聞いた瞬間、大野屋の顔から一瞬にして血の気が失せた。
大野屋はガタガタと膝を震わせ、畳に手をついて必死に頭を振った。
「お……お市様っ! 滅相もございません! ご勘弁くだされ!」
大野屋の声は、恐怖で途切れ途切れであった。
「赤尾様や海北様ら宿老様方の裏を探るなど……もし露見すれば、私はお引き回しのうえ即刻打ち首! 大野屋の暖簾も一瞬にして潰され、一族郎党路頭に迷うことになります! 恐ろしかとです! 商人の分際でさような恐ろしい火中の栗を拾うことなど、到底できませぬ!」
大野屋の拒絶は、商人として当然の反応であった。
宿老たちの絶大な権力と恐ろしさを知る大野屋にとって、命と店を危険に晒してまで、嫁いできたばかりの姫の策略に乗る理由などどこにもなかったのだ。
しかし、お市は動じなかった。
お市は大野屋の「命と店の危険」という損得勘定を冷静に見抜き、懐から一巻の木札を取り出して畳の上に置いた。
そこには、兄・織田信長が美濃で発行した関所免除の『楽市楽座の免状』の写しと、当主・長政の赤印判が捺された琵琶湖水運の優先手形が輝いていた。
「大野屋。そなたの恐れ、至極ごもっともにございます。ですが……計算してみなさい」
お市はそろばんの木玉をパチリと一叩きした。
「赤尾らが朝倉から無税で塩や物資を横流しし、市場の価格を吊り上げているおかげで、そなたたち小谷の正当な商人はどれほど苦しい思いをしてきましたか? 利益のほとんどを彼らに吸い上げられ、店を細らせるばかりだったはずです。このまま宿老どもの支配が続けば、大野屋の暖簾もいずれ干上がって潰れるのではありませんか?」
大野屋はハッと息を呑んだ。お市の指摘は、大野屋が長年胸の奥で血を吐く思いで耐えてきた、商人の生の苦しみそのものであった。
お市は大野屋の目を逃さず見つめ、決定的な未来の大利を提示した。
「私と長政様は、明後日の大評定において彼らの不忠を暴き、この北近江に関所の全廃と楽市楽座を敷きます。……大野屋、もしそなたが私に力を貸すならば、浅井家が琵琶湖の水運を掌握した折、そなたを北近江一番の商いを一手に任せる者に引き立て、琵琶湖の舟運の権利を優先して与えましょう。……不義の宿老どもとともにじり貧で沈むか。それとも、私と長政様とともに、北近江を代表する豪商となるか。……どちらを商人の眼で選びますか?」
お市の放つ、圧倒的な知性と未来の大利。
大野屋宗兵衛は息を詰め、お市が提示した「命の危険」と「生涯一度の巨大な利益」を、必死に胸中で量った。
冷や汗が額を伝い、畳を握りしめる大野屋の手が激しく震える。
本当にそこまでになるのか……。だが、この姫ならば……。
やがて……大野屋の瞳に、覚悟を決めた商人としての熱い光が宿った。
「……くっ! 分かりました……! お市様、当主様! この大野屋宗兵衛、一世一代の賭け……乗らせていただきますぞ!」
大野屋は畳に叩きつけるように深く頭を下げた。
「城下の商人ども、ならびに街道筋に潜む草の手配、すべて私にお任せくだされ! 命を懸けて、宿老様方の裏の手紙を引きずり出してご覧に入れます!」
「頼みますよ、大野屋」
大野屋が去り、小谷城下に密かに草が解き放たれた。
宿老たちが知らぬところで、商人たちの目と耳が、彼らの屋敷や街道筋の動きを監視し始めたのだ。
大野屋を辞させた後、自室にはお市と浅井長政の二人だけが残された。
長政はお市の傍らに歩み寄り、文机の上に広げられた『近江諸国交通絵図』と、清書された出納帳面を見つめた。
長政はお市の手をそっと取り、己の温かな掌で包み込んだ。
「市……見事な手回しであったな。大野屋のような商人まで味方に引き入れるとは」
「いいえ、長政様。大野屋が動いたのは、私に与されたからではありません。長政様が当主として立ち上がり、浅井の国を富ませようとされるお覚悟に、望みを託したからにございます」
お市は長政の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「長政様。明後日の大評定での手筈、すべて整いました。評定の冒頭においては、あなた様からは一切反論なさらず、赤尾殿や海北殿らに『朝倉家への三代の義理』を存分に語らせてくださいませ」
長政は頷いた。
「うむ。あやつらに『自分たちは浅井家を守っている』という虚飾の大義名分を存分に叫ばせるのだな。奴らが最も油断し、高高と誇ったその瞬間に……」
「はい。私がそろばんを持って評定の間へ入ります。朝倉義景からの割当手形と、改めた過帳の数字を突きつけ、塩や物資の九割が彼らの私的な蔵へ横流しされていた事実を、全家臣の前で暴露いたします。『義理』がただの私腹の横領と判明した時……彼らの立場は完全に崩壊いたします」
「そして俺が立ち上がり、『近江物流構想』を宣言して、浅井の真の未来を示す」
長政の胸に、熱い覚悟が満ちあふれた。
長年、宿老たちの「義理」という大言壮語の前に何も言い返せず、一人涙を流してきた長政。
だが、お市が授けてくれたこの見事な算段があれば、彼らの脅迫を打ち砕き、浅井家を自立した富国へと生まれ変わらせることができるのだ。
長政はお市の手を強く握りしめ、お市の美しい肩を愛おしそうに抱き寄せた。
「市……。お前という妻を得たこと、俺は生涯の誇りと思う。お前の立てた筋道、見事という他ない。俺は……明後日、お前が作ってくれた舞台の上で、当主として最高の裁定を下してみせよう」
「はい、長政様。あなた様なら、必ず真の英主として立つことができます」
二人は見つめ合い、手に込められた温もりを確かめ合った。
夜が深まり、行灯の火が小さく揺れていた。
長政はお市をそっと抱きしめ、お市もまた長政の胸に顔を寄せ、その力強い鼓動を聞いた。
「市……お前が俺の鎖を解き放ってくれた。……俺はもう、二度と迷わぬ。お前と子どもたち、そして浅井の家を護るために……俺は退かぬ」
「はい、長政様。曖昧な義理や言葉に振り回されるのは、もう終わりです。私たちが信じるのは、嘘をつかない数字と、二人で掴み取る未来だけです」
白布の布団の中で、二人は深く寄り添い合い、互いの体温を分け合った。
初夜の折の躊躇いや見知らぬ地への恐れは、いまや完全に消え去っていた。二人の間にあるのは、深く重なり合った愛と、明後日訪れる大決戦に向けた、何者も挫くことのできぬ「心を一つにした契り」であった。
深まりゆく秋の風を格子戸の向こうに聴きながら、お市と長政は静かに手を重ね合わせた。
翌々朝、小谷城大広間。
浅井家の命運を左右する評定が、ついに開かれようとしていた。




