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第14話:近江物流構想の立案

第14話:近江物流構想の立案


 北近江の真の富は、田畑から実る米の石高などではない。琵琶湖という水面に広がる、巨大な水上の動脈にこそ眠っている。

 長かった秋雨が上がり、小谷山の山肌を澄み切った秋陽が鮮やかに照らし出していた。清水谷を渡る風は爽やかで、木格子の向こうには、遠く静かに光る琵琶湖の湖面がかすかに望めた。

 小谷城の奥御殿、お市の自室の文机の上には、大きな一枚の和紙が広げられていた。

 それは、近江一国を中心に、越前、美濃、山城、そして摂津・堺に至る街道と水路を詳細に描き出した『近江諸国交通絵図』であった。

 お市は小袖の袖をたすきがけできりりと結び、朱筆を手に取って絵図面の上に静かに墨線を引き始めていた。

 文机の傍らには、夫・浅井長政と、侍女のすずが腰を下ろし、お市の手元を息を呑んで注視していた。


「お市様……その朱の線は、一体何を描いておられるのですか?」

 すずが不思議そうに尋ねると、お市は朱筆を置き、文箱から木製の算具――そろばんを取り出し、膝の上に置いた。

「すず。そして長政様。浅井家がなぜこれほどまでに貧困に苦しみ、老臣たちが朝倉の不当な利益に依存せざるを得なかったのか……その根本的な理由は、浅井領の『物の運び方』の拙さにあったのです」

 長政は眉を寄せ、絵図面に描かれた北近江の地をじっと見つめた。

「物の運び方……だと? 市、浅井領の石高はおよそ二十万石。南の六角に比べれば貧しく、田畑も荒れている。ゆえに越前朝倉からの物資に頼らざるを得なかったのではないのか?」

「いいえ、長政様」

 お市は凛とした首を振った。

「たしかに田畑の収穫(石高)だけを見れば、北近江は決して恵まれてはおりません。しかし、浅井家は、日本国の中で最も計り知れぬ宝の山を、その手の中に抱えているのです」

「宝の山……?」

「琵琶湖です」

 お市は朱筆で、琵琶湖の最北端に位置する三つの港――塩津と海津、そして今浜の地を強く丸で囲んでみせた。


「長政様。老臣たちが朝倉から受け取っていた塩や鉄は、すべて敦賀から陸路――木ノ芽峠や深坂峠の険しい山道を、荷馬や人夫の背に揺られて運ばれておりました。陸路というものは、運べる荷の量に限度があり、人夫の手間賃や関所の手数料がかさみ、運搬の途中で物資の値段が何倍にも跳ね上がってしまいます。老臣たちは、その高騰した塩や鉄に関所で手形を使い、私腹を肥やしていたのです」

 お市はそろばんの玉をパチパチと素早い手つきで弾いた。

「ですが、ご覧ください。北陸の越前や出羽から日本海を経由して敦賀に届いた莫大な物資を、陸路ではなく、深坂峠をわずかに越えて琵琶湖の北港――塩津や海津へ運び込んだら、どうなると思われますか?」

 長政はハッと目を見開いた。

「塩津や海津から……船に乗せるということか!?」

「左様でございます!」

 お市はそろばんの玉を弾き、鮮やかな数字の計算を提示してみせた。


「馬一頭が運べる荷の量は、高々二石から三石。ですが、琵琶湖を往来する丸子船一艘が運べる荷の量は、数十石、多いものでは百石余……! 馬数十頭分以上の物資を、たった数人の船手で一気に水上へ浮かべることができるのです!」

 お市の指先が、朱筆で塩津の港から琵琶湖の水上を南下し、南近江の大津・坂本、そして京都や摂津・堺へと続く青い水路の線を、一気呵成に描き抜いた。

「陸路を使えば何日もかかり、関所の手数料で高騰する塩や米、鉄が……丸子船による琵琶湖の水上輸送を使えば、遥かに多くの量を、遥かに安い費用と日数で、京都や上方へと流し込むことができます。北近江は、北陸や東国の物資を、日本の中心である京・堺へと流し込むための『天下の物流の要衝』そのものなのですよ!」


 長政は息を呑み、絵図面とお市の顔を交互に見つめた。

 中世の近江において、琵琶湖の水運が重要であることは誰もが知っていた。しかし、それをこれほど巨額の数字と、物流の費用計算として道理立てて語った者など、過去に一人もいなかったのだ。

 長政は尋ねた。

「素晴らしい構想だ、市。だが……琵琶湖の水運には、昔からの『座(同業組合)』や、南近江の六角家、比叡山延暦寺といった古き勢力が、関所や船手銭の既得権益を張り巡らせている。彼らが勝手な舟運を許すはずが……」

「ふふ、だからこそですよ、長政様」

 お市は美しく、不敵に微笑んだ。

「だからこそ、我が兄・織田信長との同盟が『絶大な意味』を持つのではないですか!」

「何……!?」

「我が兄・信長は、間もなく南近江の六角を打ち破り、上洛を果たします。兄が進める新しき政……それこそが、不要な関所を廃し、『楽市楽座』――古い座の特権を打ち払い、商業を自由化しようとすることです!」


 お市は絵図面の上で、織田家の治める岐阜・美濃と、浅井領の北近江、そして信長が目指す京都と南近江を、朱色の線で力強く結び合わせた。

「織田家が陸の関所を撤廃して商業を自由化し、浅井家が琵琶湖の北港(塩津・海津・今浜)と丸子船の船手を完全に掌握し、北陸と上方(京・堺)を結ぶ水上輸送を一手に引き受けるのです! 織田と浅井が手を結べば、古い座や関所を打ち崩してゆけます!」


 パチリ!

 お市はそろばんの玉を力強く叩き置いた。

「浅井家が琵琶湖の水運を動かし、自由に物資を往来させれば、北陸の塩や鉄は破格の安さで浅井領内に入り、領民も兵も豊かな暮らしを得ることができます。さらに、琵琶湖を通過する全国の商人たちから徴収する正規の『船手銭』と港の市場税だけで……浅井家の公的な収入は、年に数千貫――いまの数倍以上に跳ね上がります!」

「数千貫……! 年に数千貫だと……!?」

 長政は絶句し、文机に両手をついて立ち上がりかけた。

 すずもまた、お市の口から弾き出された桁違いの数字に、呆然と口を開けていた。


「そうです、長政様」

 お市は静かに立ち上がり、長政の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「老臣たちが朝倉義景から貰っていた不当な利益など、年にせいぜい千数百貫程度の、露ほどの利に過ぎません。彼らは、朝倉から与えられる目先の私腹のために、浅井家が手にするはずだった『年に数千貫の莫大な富』をドブに捨て、浅井の家を貧困に縛り付けていたのです!」


 お市の言葉が、長政の胸を雷鳴のように撃ち抜いた。

 老臣たちが叫ぶ「朝倉への義理」。

 それは、浅井家を富ませるどころか、浅井家が持つ潜在的な巨大な富(琵琶湖水運)の可能性を破滅させ、朝倉家の従属下に留め置くための、最悪の足枷であったのだ。

 朝倉を切れば浅井が破滅するのではない。

 朝倉に固執し、琵琶湖の価値を理解できぬ老臣たちこそが、浅井家を死に至らしめる病根だったのだ!


「老臣ども……! なんという愚かな……なんという浅ましい奴らだ……!」

 長政の顔に、激しい怒りと、完全に目が開かれた決意の光が同時に爆発した。

 長政はお市の手を強く握りしめ、力強い声で叫んだ。

「市……! お前の言う通りだ! 昔の恩義や裏金などというみみっちい小銭にしがみつく老臣どもに、浅井の未来を潰されてたまるか! 俺たちが目指すべきは、朝倉の従属国ではなく、北国と京を結ぶ要――織田と対等に天下の商いを握る浅井なのだ……!」


「ええ、長政様」

 お市は柔らかく微笑み、長政の手を強く握り返した。


「ですが長政様。老臣たちを大広間の評定で沙汰に処し、この構想を押し進めるためには、慎重なる準備が必要です。単に言葉で攻めるだけでは、老臣どもは『捏造だ』『言いがかりだ』と逃げを打つでしょう。彼らを完全に言い逃れできぬところまで追い詰めるための『証人』と『手続き』を整えねばなりません」


 お市のお言葉に、長政は深く頷いた。

「うむ。老臣どもを裁判(沙汰)にかける以上、北近江の諸将が納得する完璧な手続きが必要だな」


 それから丸一日をかけ、お市と長政は、大評定に向けた慎重な手回しと準備を執り行った。

 第一に、関所改め役の井口をはじめ、老臣たちの「特別の荷」の横流しを目撃していた城下の塩問屋や手代たちを密かに呼び出し、大評定の場で証言を行う起請文を取り付けた。

 第二に、お市がそろばんで弾き出した『年度別老臣受領推移表』と『勘定帳』を美濃紙に清書し、誰が見ても一目で不正が分かる算用帳面を整えた。

 第三に、当主・長政の命として、北近江全域の国人領主や若手武者たちへ、「明後日早朝、小谷城大広間において、浅井家の命運をかけた大評定を執り行う。遅参は許さぬ」という正式な召集状を発送させたのだ。


 一日をかけた、隙のない完璧なる手回し。

 老臣たちが知らぬところで、彼らの言い逃れを完全に封殺するための罠は、完璧な精度で出来上がっていた。


「長政様。準備はすべて整いました」

 お市は手元のそろばんと清書された帳面を見つめ、静かに立ち上がった。

「証拠(不義の帳簿)は揃いました。そして、老臣たちの『朝倉を切れば塩と鉄が途絶える』という言い訳を根底から打ち砕く『新たな富の道理』も完成いたしました。……大評定の場で、老臣たちの不忠を暴くと同時に、この『近江物流構想』を提示し、全家臣をあなた様の味方へと引き入れて見せましょう」


「ああ! 頼むぞ、市! 我ら夫婦の手で、小谷城の闇をすべて叩き潰そう!」


 二人の間には、もはや一切の迷いは存在しなかった。

 過去の怨念と腐敗した既得権益を打ち破り、浅井家を真の大名国へと生まれ変わらせるための「最高の切り札」は、いま完璧な手筈をとって揃ったのだ。

 小谷城の全家臣が集う運命の大評定。

 老臣たちへの「裁きと引導」の刻が、いよいよ目前にまで迫っていた。

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