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第13話:赤尾清綱の過去

第13話:赤尾清綱の過去


『享禄四年五月、赤尾美作守清綱、小谷合戦において身を挺して敵の槍を防ぎ、当主亮政の命を救う。その忠節、浅井の家ある限り忘れまじ』


 古びた和紙の巻物に記された文字は、朱の印章とともに黒々と力強く躍っていた。

 小谷城の奥御殿、お市の自室を行灯の柔らかい火影が照らしていた。

 清水谷から吹き上げてくる秋の冷ややかな夜風が、木格子の隙間から滑り込み、畳の上に置かれた行灯の火影をかすかに揺らしている。障子紙が微かに鳴り、香炉の煙が細く流れる室内に満ちていたのは、焚かれた伽羅の重厚な香りと、古びた和紙が放つ煤けた墨の匂い、そして二人きりの空間を包む重々しい静寂であった。

 お市はその古い感状の文字を指先でそっと撫で、向かいに座す夫・浅井長政を見つめた。

 さきにお市が『旧文庫蔵』から手に入れた不義の記録により、筆頭宿老・赤尾美作守清綱が朝倉義景からこの三年にわたり、数千俵にも及ぶ塩や大量の鉄、そして密かな金品を受け取っていた事実は動かぬものとなっていた。

 しかし、お市は長政に向かい、静かな声で問いかけたのだ。


「長政様。赤尾清綱殿は、なぜこれほどまでに朝倉家に執着し、不当な利に手を染めるに至ったのでしょうか。単に私腹を肥やすためだけに、私に取り込んでおられたのでしょうか」


 長政は深いため息をつき、文机の上に置かれたその古い感状を慈しむように見つめた。

「市……。赤尾清綱という男は、最初から浅井の家を売るような悪人であったわけではないのだ。あやつには……祖父・亮政様の代より続く、血と涙に塗られた朝倉家への深き恩義があったのだ」


 長政の声には、家臣の裏切りに対する不快感と同時に、かつて浅井家を支えた大柱に対する悲痛な惜別の情が滲んでいた。

 長政は黒地の小袖の胸元をそっと押さえ、遠い目をして自らの幼き頃の記憶を静かに手繰り寄せ始めた。


「俺がまだ新九郎と呼ばれていた幼き頃……俺はよく、赤尾殿の膝の上に抱かれ、その胸や太腿に残る古傷を見せてもらったことがある。白く太く盛り上がったその槍傷の跡を、赤尾殿は撫でながら、誇らしげに語ってくれたものだ。『この傷こそ、我が浅井の初代主君・亮政様をお守りした武士の誇りにございます。新九郎様、浅井の当主をお守りすることこそが、我ら赤尾の一族の命にございます』とな……。あの折の赤尾殿の澄んだ眼差しを、俺は今でも忘れられぬのだ」


 長政の言葉に、お市と侍女のすずは息を殺して聴き入っていた。

 長政はお市を見つめ、三十有余年前の北近江の惨絶なる戦乱の記憶を静かに語り継いだ。


「今から三十有余年の昔……享禄、天文のころ。我が浅井家は、南近江の巨魁・六角定頼の大軍によって幾度も小谷城を追われ、壊滅の淵に立たされていたのだ」

 長政の言葉に合わせ、お市の脳裏に前世で学んだ歴史の光景が生々しく浮かび上がる。

 浅井家の初代当主・浅井亮政。北近江の領主たちの中から頭角を現した亮政であったが、南の観音寺城を本拠とする六角氏の圧倒的な武力の前に追い詰められ、小谷城は焦土と化し、浅井一族は湖北の深山へと逃げ延びるしかなかったのだ。


「当時、若かりし赤尾清綱は、祖父・亮政様の側近として常に身を挺して戦っていた。小谷の山裾での激戦の折、六角の鋭い槍が亮政様の胸を突こうとした瞬間、赤尾清綱はその身を躍らせて割り込み、己の太腿と腹を貫かれながらも、亮政様を馬に乗せて逃がしたのだ」

「赤尾様が……そこまでの命がけの忠義を……」

 すずが思わず息を呑み、両手を口に当てた。

「ああ。この感状は、その折に祖父・亮政様が赤尾殿へ下し置かれたものだ。だが……六角の軍勢は猛悪を極め、浅井一派の滅亡は時間の問題であった。その絶体絶命の浅井家を救ったのが……越前朝倉家であったのだ」


 長政の声音が、重々しく低く沈んだ。

「朝倉家の名将・朝倉宗滴殿が、一万を超える越前軍を率いて深坂峠を越え、北近江へと怒涛の進撃を開始されたのだ。朝倉軍の圧倒的な軍略と武勢の前に六角軍は打ち破られ、祖父・亮政様は再び小谷城へと返り咲くことができた。……朝倉家が来なければ、浅井の家も、北近江の武者どもも、三十有余年前に跡形もなく滅び去っていたのだ」


 お市は静かに頷いた。

 浅井・朝倉同盟。後世の史書が義理と一言で片付けるその結びつきの原点には、死の淵から助けられたという生々しい歴史的体験が存在していたのだ。

「赤尾清綱をはじめとする宿老たちにとって、朝倉家は単なる隣国の大名ではない。己の命と家を救ってくれた絶対の恩人であり、朝倉家に従うことこそが浅井家の生き残る唯一の道だと、身の奥底に刻み込まれていたのだ」


「ですが、長政様」

 お市は静かな、しかし確かな声で言葉を挟んだ。

「かつての高潔な恩義が、なぜこれほどまでに醜い私腹への執着へと成り下がってしまったのでしょうか」


 長政は唇を噛み締め、苦々しく腕を組んだ。

「……時代が、変わったのだ。祖父・亮政様が亡くなり、父・久政様の代になると、六角との長年の戦によって浅井領内の田畑は荒廃し、国が疲弊していった。米も、塩も、鉄も……すべて朝倉領からの供給に頼らざるを得なくなったのだ」


 お市の中で、前世で培った知性と長政の言葉が、寸分違わず噛み合った。

(純粋だった恩義が、時代の変化と過剰な恩恵によって、歪められてしまったのね……)


 お市の頭脳の中で、赤尾清綱という一人の武将の転落の筋道が、鮮やかに解き明かされた。

 最初は純粋な恩義であり、窮乏する浅井の家を救うための助けであったはずなのだ。

 しかし、朝倉義景の代へ移ると、朝倉家はその純粋な恩義を、極めて巧妙な手厚い恩恵へとすり替えていった。

 朝倉家は、北近江の困窮に乗じ、赤尾清綱ら老臣たちに対し、恩義の印と称して、私的な関銭免除の塩や鉄、そして莫大な金銭を「直接」与え始めたのだ。

 永禄三年、野良田の戦いで長政が当主となった折までは正常であった配分が、永禄四年を境に急変している。

 赤尾清綱たちは、最初は浅井家を維持するための手助けとしてそれを受け取っただろう。だが、一度無税の物資と莫大な富の味を覚えると、その過剰な財によって自らの屋敷を豪華にし、私兵を養い、奢侈な暮らしに深く浸っていった。

 年を経るごとにその量が増えるにつれ、老臣たちは朝倉家からの物資なしでは自分たちの贅沢な生活も、私兵の維持も成り立たない、朝倉の恩顧に深く絡め取られた立場へと変えられていったのだ。

 かつての誇り高き命がけの恩義は、いつしか自分たちの私腹を肥やすための「旨味」へと腐敗し、彼らは自らが朝倉の毒に冒されていることすら気づかぬまま、買収の正当化のために『朝倉への三代の義理』という言葉を叫び続けていたのだ。


 お市はそっと溜め息をつき、文机の上のそろばんの冷たい算珠を優しく撫でた。

「悲しいものですね……」

「市……」

「長政様。私は、赤尾殿や海北殿が過去に捧げられた命がけの忠節までを、偽りだとなじるつもりはございませぬ。彼らもまた、過去の光栄と恩義に引きずられ、時代の波に取り残された哀れな老武者に過ぎなかったのでしょう」


 お市の瞳には、宿老たちに対する人間的な深い哀れみが宿っていた。

 自らの夫・長政を苦しめ、浅井の家を裏切っていた敵。しかし、その根底にある悲しい人間の業を理解したお市は、ただ怨悪をぶつけるのではなく、一度その過去の傷を受け止めたのだ。

 しかし、長政を見つめ返すお市の瞳の奥には、優しさを呑み込む静かな覚悟が光り輝いていた。


「ですが、長政様。過去の恩義に引きずられ、腐りかけた利得にしがみつく老臣たちに付き合って、浅井の家と領民を破滅させるわけにはまいりません。時代の流れを理解できぬ者たちには、引いていただく他ないのです」

「ああ……分かっている」

 長政もまた、深く頷き、太刀の柄を固く握りしめた。

「俺も、もはや迷いはしない。赤尾殿たちの過去の武功には心から感謝する。だが、浅井の未来を奴らの強欲に売り渡すわけにはいかん」


 お市は文机の上に新しい美濃紙を広げ、磨り下ろした濃い墨に筆を執った。

「長政様。老臣たちを評定の間で言い逃れできぬように追い詰め、失脚させるためには、単に彼らの不正を責めるだけでは足りません。彼らが『朝倉を切れば塩と鉄が途絶えて浅井は破滅する』と叫ぶ言い訳を、根底から打ち砕く新たな道を示さねばなりません」

「新たな……道……?」

「ええ」

 お市は不敵にして美しき笑みをたたえ、長政の目を真っ直ぐに見つめ返した。


「朝倉家から下される密かな利益や塩など、比べるべくもない莫大な富と物資を、浅井家自らの力で生み出す『新たな商いの道筋』です。朝倉の不当な利益を上回る未来の利益を提示してこそ、北近江の若い家臣や国人どもは、真にあなた様に服するでしょう」


 お市の手によって、美濃紙の上へ、琵琶湖の絵図と水運路が朱と墨の線で描かれていく。

 前世の知識を余すところなく発揮した、朝倉頼みを脱却するための巨大な構想――『近江水路構想』の立案である。

「私に考えがございます。……織田家との同盟を真の力とし、浅井家を近江随一の豊かな領国へと変えるための大仕掛けを」


 お市の澄み切った知性と、長政の熱き誓い。

 過去の怨念と腐敗した利権を乗り越え、真の自立へと向かう浅井家の反撃が、いま静かに動き出そうとしていた。

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