想いを、食べ切れ
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
玲奈の背後から、
闇が剥がれ落ちた。
べたり。
黒い液体みたいに床へ広がり、
ゆっくりと形を持つ。
女だった。
スーツ姿。
くたびれたOL風。
髪は乱れ、
目の下には濃い隈。
なのに。
口元だけが、
異様に嬉しそうに笑っていた。
「……あぁ」
女は僕を見る。
「やっと……会えた」
その声に、
無数の声が重なる。
若い声。
老いた声。
泣く声。
笑う声。
全部が混ざっている。
おやみが低く呟く。
「積層型や……」
「せきそう?」
「恋心の残骸が、何代も混ざっとる」
OLの女は、
ゆらりとこちらへ歩く。
足がない。
下半身は黒い霧になっている。
でも。
“想い”だけは異様に重い。
「ご飯……作ったんです」
女が笑う。
「好きな人のために」
ぞわりとした。
その瞬間。
闇が爆発的に膨れた。
黒い腕。
長い髪。
無数の指。
実態のない“恋心”が、
一斉に僕へ襲いかかる。
「うわっ!?」
空気が裂ける。
腕が頬を掠めた瞬間、
頭の中へ感情が流れ込んできた。
――振り向いてほしい。
――好き。
――なんで気づいてくれないの。
――会いたい。
――帰らないで。
苦しい。
感情が重すぎる。
恋というより、
洪水だった。
僕は床へ転がり込む。
祖父の石が激しく光った。
『やはり運命は、正人を選んだか』
「今それ言う!?」
『聞け!!』
祖父の声が鋭い。
『怪異には理屈がある!』
黒い腕が迫る。
僕は転がって避ける。
掠めた畳が、
じゅう、と黒く変色した。
「うわ怖っ!!」
『あれは悪霊ではない!』
「見た目完全に悪霊だろ!!」
『“想い”だ!!』
祖父が叫ぶ。
『だから斬っても消えん!
祓っても戻る!』
おやみが、
棚の上から真顔で補足する。
「恋は理不尽やからな」
「今それ!?」
OLの女が、
涙を流しながら笑う。
「食べて……」
その言葉で。
僕は食卓を見た。
豪華だった料理。
肉じゃが。
味噌汁。
焼き魚。
全部。
全部が。
ぐにゃりと揺れた。
次の瞬間。
幻が剥がれる。
「……え」
そこにあったのは。
たった一つの、
小さなおにぎりだった。
ひどく歪な形。
少し焦げている。
不格好で。
でも。
ぎゅう、と強く握られていた。
『本来、
料理は一つだけだった』
祖父が静かに言う。
『想いが形を膨らませていたんだ』
「じゃああの料理は……」
『全部“愛情”だ』
ぞっとした。
つまり。
あれほどの食卓に見えたのは、
“好き”という感情だけ。
おやみが頬杖をつく。
「実らんかった恋やろなぁ」
OLの女は、
苦しそうに胸を押さえる。
「作ったんです……」
涙を流しながら。
「頑張って……頑張って……」
黒い腕が伸びる。
「でも……渡せなかった……」
その瞬間。
僕の頭へ、
映像が流れ込んだ。
深夜のオフィス。
コンビニ袋。
一人暮らしの部屋。
何度も練習した料理。
スマホの未送信メッセージ。
“好きです”。
送れなかった言葉。
誰にも届かなかった想い。
胸が痛い。
苦しいくらいに。
祖父が言った。
『答えてやれ』
「……どうやって」
『食え』
「は?」
『想いとは、
受け取られねば終われん』
黒い腕が、
僕の首へ伸びる。
『食べ切れ!!』
僕は震える手で、
おにぎりを掴んだ。
冷たい。
でも。
妙に温もりが残っている。
OLの女が、
泣きながらこちらを見る。
「……食べて、くれるんですか」
その声が、
あまりにも弱かった。
僕は目を閉じる。
そして。
おにぎりを、
一口食べた。
瞬間。
世界が、
感情で埋め尽くされた。
――好き。
ただ、
それだけだった。
憎しみでも呪いでもない。
ただ。
好きだった。
それだけの想いが、
何年も、
何十年も、
この土地へ沈殿していた。
涙が、
勝手に零れた。
OLの女が、
ゆっくり笑う。
疲れ切った顔で。
でも。
少しだけ救われた顔で。
「……おいしかったですか?」
僕は泣きながら頷いた。
「……うん」
その瞬間。
女の身体が、
静かに光へ変わっていく。
黒い闇が剥がれ落ちる。
最後に残ったのは。
少し照れたように笑う、
普通の女性だった。
「……よかった」
彼女はそう言って。
春の湯気みたいに、
消えた。
部屋に静寂が落ちる。
おやみが、
ぽつりと呟く。
「……重すぎる恋って、
時々“怪異”になるんよ」
祖父の石が、
静かに瞬いた。
『正人』
「……なに」
『おかわりが来るぞ』
「は?」
次の瞬間。
スマホが震えた。
知らない番号。
メッセージが一件。
『ずっと見てました』
僕は静かに天井を仰いだ。
「……恋愛難易度バグってない?」




