想いの器
玲奈は、いつの間にか床に倒れていた。
まるで、電池が切れたみたいに静かに。
「……玲奈!?」
慌てて駆け寄る。呼吸はある。熱もない。
ただ、深く眠っているだけだった。
おやみは腕を組みながら、
ふむ、と頷く。
「抜けたな」
「何が」
「積もってたやつ」
祖父の石も、
静かに光っている。
『共感が切れたんだろう』
僕には、正直よく分からなかった。
でも。
さっきまで部屋を埋めていた、あの異様な圧迫感だけは消えていた。
恋という名の濁流が、静かに引いていく。
玲奈はそのまま客間へ寝かせた。
本当に疲れ切っていたのだろう。
一度も起きなかった。
そして翌朝。
何事もなかったみたいに、朝日が差し込んでいた。
鳥の声。
味噌汁の匂い。
いつもの古い家。
怪異の翌日は、案外普通だ。
玲奈はゆっくり目を覚ました。
「……あれ?」
少しぼんやりした顔。
昨夜の異様さが、
綺麗に抜け落ちている。
「大丈夫?」
「う、うん……」
玲奈は額を押さえた。
「なんか……ご飯作ったあたりから記憶が曖昧で……」
「……そう、美味しかったよ。」
「変なことしてない?」
していた。
ものすごく。
でも説明不能だった。
「いや……まあ……」
玲奈は恥ずかしそうに俯く。
「その……正人くんのこと好きすぎて、
ちょっと舞い上がってたかも」
好き。
そこだけは残っているらしい。
でも。
昨日までの、“絡みつくような重さ”は無かった。
普通の恋心。
ちゃんと人間の範囲へ戻っている。
玲奈が帰ったあと。
おやみは縁側で寝転びながら、
ぽつりと呟く。
「相性最悪やったんやろなぁ」
「相性?」
「この土地との」
風が吹く。
おやみの巻き髪が揺れた。
「後から調べたけど、あの子めっちゃ努力家やん」
「え?」
「大学で評価された理由」
僕は思い出す。
確か、表彰されていた。
詳しくは知らない。
おやみは指を折りながら数える。
「研究。ボランティア。資格。サークル運営」
「……そんなに?」
「しかも全部、異常レベルでやっとる」
祖父が低く呟く。
『固執型だな』
「こしつ?」
『一つ決めると、限界まで積み上げる人間だ』
僕は昨日の玲奈を思い出す。
料理。
視線。
言葉。
全部が、真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐだった。
「やるならちゃんとやる。……そういう人なんだろうな」
おやみは真顔だった。
「その“積む”性質が、土地と共鳴したんやろ」
「共鳴……」
「この家、積もった想いの巣窟やし」
言い方が最悪だ。
でも否定できない。
玲奈は知らない。
この家の地下に、
何百年分もの“未練”が沈んでいることを。
そして彼女自身も、感情を積み上げる人間だった。
だから繋がった。
恋心が。
時代を超えた“誰か”と。
僕は縁側で、
おやみを見ていた。
彼女はスイカバーを齧っている。
幽霊なのに食うんだな。
「……なあ」
「んー?」
「なんで昨日、
ヤキモチ妬いてたの」
おやみの動きが止まる。
「あー」
気まずそうな声。
「いやあれは、うちというか」
祖父の石が先に答えた。
『おやみは“器”だ』
「器……」
『あれ自身に、固定した人格は薄い』
おやみが苦笑する。
「周りに引っ張られるんよ」
「引っ張られる?」
「悲しい人がおったら悲しくなるし、怒っとる人がおったら腹立つし」
彼女は空を見上げる。
「恋しとる人がおったら、恋したくなる」
風が吹く。
おやみの影が、
一瞬だけ何人分にも揺れた。
『共感と共有』
祖父が静かに言う。
『それがおやみの本質だ』
「だから昨日、
玲奈ちゃんの想いに当てられてもうて」
おやみは頭を掻く。
「ちょっとラブコメ脳になった」
「ちょっとじゃなかったけど」
「うちも大変なんよ?」
彼女はむっとした。
「周りの感情、勝手に流れ込んでくるし」
「……疲れそう」
「せやで」
おやみは珍しく、
少しだけ寂しそうに笑った。
「だから“自分”って、たまによぉ分からんなる」
その言葉は、妙に静かだった。
僕は少し考えてから言う。
「でも、おやみはおやみじゃん」
「……へ?」
「変な巻き髪で、ネイルしてて、急にポテチ食うし」
「褒めてる?」
「たぶん」
おやみはきょとんとしたあと、
ふっと笑った。
その笑顔だけは、誰かの借り物じゃない気がした。
その瞬間。蔵の方角から。
カラン。
小さく鈴の音がした。
祖父の石が、
静かに光る。
『……次が来るな』
「もう来るの!?」
おやみは空を見ながら、
面倒くさそうに呟く。
「この家、恋愛相談所か何かなん?」




