蔵の奥
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
祖父に言われた翌日。
僕は庭の端に立っていた。
本家の敷地は広い。
無駄に広い。
子供の頃は探検気分で走り回っていたはずなのに、
成長するにつれて行かなくなった場所がいくつもある。
その一つが、
蔵だった。
庭の隅。
木々に半分隠れるように建っている古い土蔵。
白い壁はひび割れ、
黒ずんだ瓦には苔が浮いている。
妙に大きい。
改めて見ると、
「蔵」というより小さな建物だった。
「……こんなの、あったっけ」
『あった』
ポケットの石から祖父の声。
『お前が見てなかっただけだ』
風が吹く。
蔵だけが、
妙に静かだった。
蝉の声すら、
ここだけ避けているみたいに。
僕は喉を鳴らした。
祖父の神妙な口調のせいか、
昨日からずっと胸の奥がざわついている。
怖い。
けれど、
引き返してはいけない気もした。
蔵の前に立つ。
その瞬間。
――……ぅ。
何か聞こえた。
「え?」
耳を澄ます。
微かだった。
風ではない。
人の声にも似ている。
泣き声。
笑い声。
怒鳴り声。
全部が混ざって、
遠い水の中みたいに響いている。
『聞こえるか』
祖父が低く言う。
「……うん」
『村だった頃の残りだ』
「残り?」
『人は土地に染みる』
石がかすかに温かい。
『ここは長く人が住みすぎた』
意味は分からない。
でも、
蔵の前にいるだけで、
誰かに見られている気がした。
『開けろ』
僕は深呼吸をした。
錆びた取っ手を掴む。
重い。
まるで向こう側から誰かが押さえているみたいだった。
ギギギ……。
扉がゆっくり開く。
同時に、
冷たい空気が流れ出てきた。
夏なのに。
冬の押し入れみたいな匂い。
「……っ」
薄暗い蔵の中。
埃が舞う。
光の筋が、
長い年月を切り取っていた。
見たことのない農具。
古い壺。
縄で縛られた木箱。
用途不明の鉄器。
どれも時代が違う。
明治、
昭和、
もっと前。
時間そのものが積み重なっているみたいだった。
『触るなよ』
「なんで?」
『触ると起きるものがある』
「怖いこと普通に言わないで」
祖父は笑わなかった。
代わりに、
石がわずかに暗くなる。
『昔はな。ここに“持ってきていた”』
「何を?」
『捨てられないものを』
その言い方が妙に嫌だった。
僕は視線を逸らしながら奥へ進む。
床板が軋む。
ミシ。
ミシ。
誰かが後ろを歩いている気がして、
何度も振り返った。
でも誰もいない。
蔵の空気だけが、
じっとこちらを見ている。
そして。
一番奥まで辿り着いた時、
僕は思わず足を止めた。
「……何これ」
そこだけ、
空間が違った。
蔵の奥に、
小さな境内があった。
本当に、
“境内”だった。
石灯籠。
注連縄。
小さな賽銭箱。
古びた狐の像。
畳二枚ほどの空間なのに、
空気だけは神社そのもの。
室内のはずなのに、
どこか外の夜みたいな匂いがする。
そして中央には、
黒い木で作られた祠。
妙だった。
古いのに、
傷一つない。
まるで昨日作られたみたいに静かだった。
僕は息を呑む。
その瞬間。
カラン。
賽銭箱の中で、
何かが鳴った。
誰も触っていないのに。
僕は凍りついた。
『……来たか』
祖父の声が低くなる。
「何が」
答えは、
祠の中から返ってきた。
――おそい。
声だった。
小さい。
けれど、
はっきり聞こえた。
子供の声。
男とも女ともつかない、
乾いた声。
祠の隙間。
暗闇の奥で、
何かが動いた。
『見るな!』
祖父が怒鳴る。
その瞬間。
バン!!
蔵の扉が勝手に閉まった。
闇が落ちる。
埃が舞う。
そして祠の奥から、
笑い声がした。
ひとつじゃない。
何人もの、
重なった笑い声。
まるで、
長い間そこで待っていたみたいに。




