沈む悲しみの輪郭
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
大学という場所は、不思議だ。
出会いがあり、
別れがあり、
そして何事もなかったように日常が続く。
その冷たさを、
僕はまだ上手く飲み込めていなかった。
ある日。
キャンパスに噂が流れた。
田中くんが、亡くなったらしい。
最初はただの言葉だった。
誰かの聞き間違い。
誰かの勘違い。
そうであってほしいと思った。
でも、時間がそれを否定していく。
掲示板。
連絡網。
沈黙。
どれもが、
“事実”へと収束していった。
田中くん。
同じ講義で隣に座ることがあった。
試験前に少しだけ問題を教え合った。
帰り道に一度だけコンビニへ行った。
それくらいの関係だ。
深くない。
親友でもない。
でも。
軽くはなかった。
胸の奥が、
静かに沈んでいく。
言葉にすると薄くなるのに、
言葉にしないと耐えられない。
矛盾だけが積もっていく。
「……なんで」
理由を探してしまう。
でも理由なんて、世界は用意してくれない。
ただ起きる。
ただ、消える。
その夜からだった。
感覚が少しずつずれていった。
講義の声が遠い。
笑い声が平坦に聞こえる。
景色の色が、一段だけ薄い。
まるで、自分だけが一枚違う膜の内側にいるようだった。
悲しみは静かだった。
叫ばない。
暴れない。
ただ、
じわじわと内部を占領していく。
気づいた時には遅い類のものだ。
「……あれ」
机に座ったまま、
動けなくなる瞬間が増えた。
何をしているのか分からない。
何を考えているのか分からない。
ただ、
田中くんの名前だけが、
頭の奥で小さく反響している。
そのときだった。
ポケットの中の石が、
かすかに熱を持った。
『正人』
祖父の声。
「……なに」
『飲まれるな』
短い言葉。
それだけだった。
でも十分だった。
飲まれている。
その自覚だけが、
かろうじて浮かび上がる。
おやみが隣に現れる。
珍しくふざけない。
「それ、“溜まり”やな」
「……溜まり?」
「悲しみって、流れへんと残るんよ」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「放っとくと、沼になる」
その言葉が、やけに現実的だった。
僕はようやく気づく。
これはただの気分ではない。
以前から何度も見てきたものだ。
恋の重さ。
怒りの圧。
筋肉の異常な執念。
それらと同じ構造。
――感情が、形を持ち始めている。
胸の奥に、黒い沈殿がある。絡みつく何かがある。
田中くんの死は、
ただの出来事ではなく。
“残留している何か”になりつつあった。
意識の端で、
祖父の言葉が重なる。
『感情は消えない』
『ただ溜まるだけだ』
祠の存在が、
頭の奥で静かに鳴った。
僕は息を吐くと胸の奥に冷たい重りが沈む。
「……これも、引き受ける側なのか」
誰に向けたでもない問い。
おやみは答えない。
ただ、
少しだけ頷いた気がした。
窓の外では、
何事もない夜が続いている。
世界は変わらない。
けれど。
僕の内側だけが、
確かに重く沈んでいた。




