その後の物理学科 ―観測不能恋愛理論―
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
あの日以降。
物理学科がおかしくなった。
いや、正確には。
もともと少しおかしかった連中が、
本格的に壊れ始めた。
原因はもちろん、
あの教室で起きた“感情の相転移”。
教授は認めなかった。
「非科学的だ」
「再現性がない」
「感情論だ」
口ではそう言う。
だが。
全員、目が死ぬほど輝いていた。
特に。
あの教授。
鬼気迫る勢いで研究を始めた。
「感情と空間振動には、明確な因果が存在する可能性がある」
「教授、それ論文通ります?」
「通す」
強い。
物理学者の狂気は、時々怪異より怖い。
一方。
あの日、
教授へ真っ向から反論していた女子学生――
天城澪。
彼女もまた、変わっていた。
元々、
優秀だった。
論理的。
冷静。
成績トップクラス。
教授にも物怖じせず、
正論をぶつけるタイプ。
だからこそ、
教授とは最悪に相性が悪かった。
会えば衝突。
議論すれば口論。
ゼミでは毎回空気が爆発していた。
だが。
あの日から、
二人の“ぶつかり方”が変わった。
「教授、
その理論は観測者効果を軽視しすぎです」
「君は感情を特別視しすぎだ」
「でも、
現実に空間歪曲が起きました」
「だからこそ数式化が必要なんだ!」
以前なら。
そこで終わっていた。
しかし今は違う。
二人とも、
相手の言葉を最後まで聞く。
否定だけで終わらない。
気づけば。
研究室に残る時間が増えていた。
夜。
誰もいない研究室。
積み上がった資料。
冷めたコーヒー。
ホワイトボードいっぱいの数式。
そして。
「……教授」
「なんだね」
「この式、
感情波動を変数にしたら、
位相ズレ説明できません?」
教授が止まる。
沈黙。
数秒後。
「……続けたまえ」
嬉しそうだった。
まるで。
長年探していた答えを、
ようやく一緒に考えられる相手を見つけたみたいに。
澪も、
少しだけ笑っていた。
その頃。
僕は食堂でうどんを食べていた。
「なんか物理学科が怖い」
「恋やなぁ」
おやみが適当に言う。
「いや研究だろ」
「研究者の恋なんて、
だいたい“理解者見つけた!”から始まるで」
祖父の石が低く唸る。
『昔からそうだ。
共鳴とは、
理解の別名でもある』
「ロマンチックっぽく言うなぁ」
しかし。
実際、
二人は少しずつ変わっていった。
教授は、
以前より怒鳴らなくなった。
澪は、
以前より無茶な反論をしなくなった。
代わりに。
互いの理論を、
本気で磨き始めた。
「教授、
徹夜続きですよね」
「君もだろう」
「私は若いので」
「ずるいな」
そんな会話が増えた。
周囲の学生たちは気づき始める。
「……あれ仲良くない?」
「物理学的距離は近い」
「感情的距離も近い」
「観測できるレベルで近い」
学科全体がざわつき始めた。
だが本人たちは、
研究しか見えていなかった。
ある冬の日。
雪が降っていた。
研究室には、
二人だけ。
ホワイトボードに残る、
大量の数式。
その中心に。
最初の式が、
まだ小さく残っていた。
x+y=z(仮)
教授がそれを見る。
「……馬鹿みたいな式だ」
「ええ」
「だが、
ここから全部始まった」
澪は少し黙り、
静かに言った。
「私は、
好きですよ」
「式がかね?」
「……教授がです」
沈黙。
物理学的に言えば、
完全停止。
教授は、
本当に数秒固まった。
それから。
人生で初めてみたいな顔で、
困ったように笑った。
「……観測不能だったな」
「今、
観測されました」
窓の外では、
雪が静かに降っていた。
後日。
物理学科に新しい噂が流れる。
「感情と空間振動の共同研究、
ついに論文化されるらしい」
「マジ?」
「しかも共同執筆」
「タイトル何?」
誰かが資料を見る。
『感情共鳴による空間位相変換の可能性について』
その下に。
連名。
教授と、
天城澪の名前。
そして小さく。
参考式。
x+y=z(仮)
物理学科の歴史上、
最も意味不明で、
最も幸福な論文だった。




