5話
五
あの後、事の仔細に調べがつくまでは、父からは一人での外出禁止を言い渡された。悠玄なんて父より過保護で、門の外の掃除をすることさえ怪訝そうな顔をした。
つけられたのだって、ただ春になって気が大きくなっただけだろうという朱莉の意見が、二人に受け入れられることはなかった。
最近は妖ものの動きも活発化しているのだと兄が言った。何かと物騒な世の中である。何も見えない朱莉には、この世界は平和そのものにしか見えないけれど。そうして家にいるうちに、葉桜の頃も終えて、立派に緑が繁っていると使用人から聞いた。
悠玄と父は何か考えがあるようで、相変わらず忙しく動き回っている。二人は仕事中毒なのだとよく母は言った。
父は朱莉が物心つく頃からそのような働き方しかしていないので、普通がわからない。そういうものかと小さく頷くと、母は呆れたようにため息を吐き出した。
軍の仕事は掃いて捨てるほどあると聞く。
軍の規定だ守秘義務だなんだと言って詳しくは教えてもらえないが、二人は朱莉たちが寝ついた頃に帰ってくることも多々あった。
休みのたびに呼び出しがかかることもままあり、三日分の着替えだけを届けて欲しいと、部下を使いっ走りさせる事もあった。その度母はぶつくさと文句を言うのだ。部署は違うとは言え、前線で戦う兄の方がよっぽど家にいると思う。
――と、まあそんな風に仕事に振り回されているそんな二人が珍しく早々に帰宅したかと思えば、部下を数人連れて帰ってきた。現在、使用人と母と朱莉、総出で宴会の準備に追われていた。
来てしまったものは仕方がないと、母はテキパキと台所を仕切っている。朱莉も夕方から台所と宴会の行われている広間を、酒や料理を抱えて行ったり来たりしている。
部下と言っても、父の所属する部はそもそも人員が少ないらしく、誰も彼も顔見知りの人間ばかりである。幼い頃の朱莉を膝に乗せて酒を飲んでいた人もいるし、そういう意味ではむしろ悠玄の方が新顔なのだ。
宴会の日は忙しいし、悠玄と食事をすることは出来ないけれど、料理上手な母がご馳走を作ってくれる。台所で話をしながら、普段とは違った形で食事をする特別感が朱莉は嫌いではなかった。
悠玄は、普段は父に付き合って最初の一杯を飲むだけだが、人がくれば悠玄は意外と酒を飲むし、大口を開けて笑う。普段より砕けた口調も新鮮だ。
そういった普段は見られないところを見るのが楽しかったのだけれど、そうやって新たな一面を見つけてときめくのが今は少しだけ恐ろしく思えた。
それに、最近は悠玄と顔を合わせるたびに「嘘をついている」という言葉が脳裏を過って、うまく顔を合わせられない。
幸いなことに、悠玄は仕事ばかりで最近は家を空けていることが多い。前はあれほど会いたいと思っていたくせに、今は少しホッとしている。
なるべく顔を合わせないようにと、空いた徳利を下げにこっそり広間に入る。が、目敏い父は朱莉を見つけるや否や、書斎から蒸留酒を持ってこいと言った。秘蔵の酒で、ケチ臭くちびちび飲んでいるあの酒を部下に振る舞うというのだから、よほど機嫌が良いのだろう。
朱莉は渋々書斎に部屋に向かえば、広間に戻る途中で部下の一人に会った。朱莉を見ると表情を緩めて、柔らかく笑う。
「朱莉嬢、息災でしたか?」
「はい、お久しぶりです」
「しばらく見ない間にお綺麗になられましたね」
「ふふ、飲み過ぎではないですか?」
「はは、耳の痛い話です」
彼は父の部下の中でも一等若い。
朱莉が初めて出会った時は、青年というよりはまだ少年らしさの残る人だったけれど、久しぶりに会った彼は、知らぬ間に大人の男性になってしまっていた。
初めなど慣れない酒にすぐに酔い潰れていたのに、今はすっかり紳士らしく、「朱莉嬢」などと畏まった呼び方で朱莉を呼ぶようになった。
父の所属するのは陸軍言えど、鬼代局と呼ばれる鬼代のみで構成される特殊なところだ。普通の陸軍の軍人さんとは扱いが違うものの、戦いと隣り合わせの軍であることに変わりはない。
時々心や体を病んでしまう人も少なくはない。時々面子が入れ替わることもあった。だから、一番歳の近かった彼とこうしてまた、父の部下として会えるのが素直に嬉しかった。
最近の軍での父の様子や、彼の仕事の話を聞いていると、そういえばと改まって彼は居住まいを正した。
「……実は、最近、見事な八重桜が見られるところを見つけまして」
あまりに突拍子もない会話の切り口に、朱莉はそうなのですか? と首を傾げた。
「桜は、お好きですか?」
「はい、花は大好きです」
「朱莉嬢さえ良ければ、その、……週末にでも見に行きませんか?」
突然の誘いに朱莉は目を見開いた。
彼は鬼代だ。そして、上官の娘である私に力がないことを知っている。それをわかった上で誘っているのだろうかと、朱莉はすぐに答えを口にする事は出来なかった。
「ダメですか?」
「……私で、その、誘う相手は間違いではないですか?」
「どう間違えるんですか」
「だって」
「ええ、あなたが良いのです」
力がなくても、何もできない自分でも良いのか。彼の素直な言葉は、朱莉の荒んだ心に良く響いた。これはきっと自分の人生を変える大きな一歩になる筈だ。
「もちろん、私でよければ……」
「――何をしている」
朱莉の言葉を遮る地を這うように低い声が、廊下の奥から響いた。足音を消し気配を殺すように闇からぬらりと現れたのは悠玄だった。
声に温度はない。思わず朱莉まで背筋が伸びるような、ピシャリとした声に、目の前の彼なんてまるで怯えて尻尾を逆立てる猫みたいな身慄いをした。
「片桐殿……」
「俺は何をしていると聞いたが」
「いえ、その、」
「行け」
「……すみません。失礼します」
何か言いたげな顔で一度だけ私を見るが、彼は素直に頭を下げて広間の方へ行ってしまった。
悠玄はその背を目で追うこともせず、じっとこちらを睨み付けるように見た。普段の悠玄からは想像もできないほど、あまりに威圧的な態度だ。
彼の本音はさておき、ただのお出かけの誘いだったと思う。悠玄が普段朱莉を街へと連れ出すのとなんら変わりないはずだ。
「……職場でもこんな感じなの?」
「何が」
「あんな風に、追い返すことないじゃない」
「何故」
「ただ話をしていただけで」
「何を」
「何って桜を見に誘われただけよ」
ずいと悠玄に歩み寄られて、朱莉は思わず後ずさる。いつもと様子が違う。彼はそんなに酒に弱かっただろうか。乱暴でいつもよりぶっきらぼうだ。この様子のおかしい様は一体なんなのだろうか。
「それで喜んでたのか」
「……え?」
「この間の件もそうだ。お前はもう少し自覚と危機感を持った方がいい」
「……彼は、私に危害なんて加えないもん」
「わからないだろ」
「……どうしたの?」
「恋人でもない男と花なんて見てどうする」
「……私たちだって、違うわ」
後ずさって後ずさって、とうとう朱莉の背に壁がぶつかった。ドンと横に手をつかれて逃げ場はない。廊下に助けてくれそうな人の気配もなかった。
「そうか、そうだな」
「悠玄、どいて」
「ならお前は俺とどんな関係を望むんだ」
「――え?」
「お前が望むならそうしよう」
「酔ってるの……?」
「どうだろうな」
「変だよ、悠玄」
「俺はいつもこうだが」
「……やだ、はなして、」
「――朱莉」
いつもより熱の篭った声で朱莉を呼んだ。近づいてくる悠玄の睫毛の際が見えた。トロリと浮かされたような目線の真意を理解することはできず、彼を拒むように押し退ける。が、鍛え抜いていて頭一つ以上大きな悠玄にとって、そんなもの微風程度の抵抗にしかならないだろう。
いつも朱莉が困っていれば真っ先に手を差し伸べる悠玄とは、まるで別人のようだ。逃さないと言わんばかりに距離を詰める悠玄に、咄嗟に朱莉は頬を引っ叩いてしまった。ジンと朱莉の手のひらにも、乾いた痛みが走る。
「さ、いてい」
朱莉が真に望むことなんて、叶うはずがないのだ。
あなたが欲しいなどと口にしたら、この脆い関係は一瞬で崩壊してしまう。悠玄の言葉は、朱莉の内に秘めた思いを彼が知るはずはないにしても、あまりに無遠慮で、酒に酔ったにしたってあまりに心無いと思う。
あなたにはもう大切に想う人がいるくせに。そう怨みがましい言葉を吐き出しかけて飲み込めば、溢れかえった感情と消化不良を起こした言葉が涙となってこぼれ落ちた。
だって悠玄は朱莉の思いを知らずとも、お見合いが上手くいかずに落ち込む朱莉のことを知っている。
居た堪れず逃げ出した社交の場から帰る車内で、泣いたことだって知っているくせに。朱莉が本当に欲しいものを朱莉に与えられないのが、なにより自分だと理解しているくせに。
前を向こうとしただけなのに。顔に熱が集まって、身体中が痺れるくらい心臓が大きく弾む。心音のせいで、耳の奥がじんわりと痛んで音が聞こえない。
悠玄は叩かれた頬に触れることすらせず、何も言わずに眉を寄せてジッとこちらを見つめていた。再び伸びてきた悠玄の手に酒瓶を押し付けて、耐えきれず自室に逃げ込めば、足から力が抜けて床にへたり込んでしまった。
さっきの悠玄には少しの恐怖と、やるせ無さ、得体の知れ無さがあった。悠玄の気持ちなんて、朱莉には一つもわからない。呼吸は浅く荒くて、指先は感覚がなくなるほど冷え切っていた。
悠玄の言葉への疑心ばかりが膨らんでいく。悠玄は自分を傷つけることだけは絶対にしないと思っていた。悠玄の嘘とは何だろう。今までくれた言葉さえ、全て嘘のように思えた。
いつもの彼ならきっと謝りに来てくれるのに、その晩だけは悠玄は朱莉の部屋を訪ねてはこなかった。
あの晩から悠玄と朱莉に目立った会話はない。
軍の仕事も忙しいらしく、悠玄は相変わらず朝から晩まで働き詰めだ。何より、あの発言に対する言い訳もしない彼のことを、朱莉自身が避けている。
なんだかこのまま彼との縁も途切れてしまいそうだ。急な幕引きではあったけれど、いつかは来ると分かっていたことだ。このまま忘れられるならそれでいいのかもしれないと、朱莉は重苦しいため息を吐き出した。
ならお前は俺とどんな関係を望むんだ。
朱莉はあれからずっと悠玄のその言葉の意味だけをずっと考えていた。あまりに悠玄に利のない言葉だからだ。
ならば今まで朱莉が見てきた、わざわざ取り寄せた花を、婚約者のためだけに花束をあつらえていた彼は、いつもなら軍服か袴しか着ないくせに、婚約者と会う時だけは皺ひとつないスーツを着る彼は、一体何なのだろう。
悠玄と過ごした時間ばかり長くなったけれど、朱莉は悠玄のことを知らない。
好きな食べ物や味付けの好みは知っている。でも、どうして甲斐甲斐しく朱莉の面倒を見てくれるのか知らない。朱莉にばかりなぜ気をかけるのか。朱莉に対して、どんな感情を抱いているのかも何も。
あれではまるで、朱莉が彼と出かけるのを拒んでいるように見えた。何故。そこまで考えて頭を振る。
悠玄は朱莉のものではない。同時に、朱莉だって悠玄のものではない。朱莉は朱莉らしくといつも言ってくれるのは、他の誰でもない彼だというのに。
でも、もしかしたらあの場で、悠玄への想いを打ち明けられる狡さと可愛げが、ほんの少しでも朱莉にあったなら。他人の幸せを壊してでも、自らを幸せを掴み取る図々しさが朱莉にあったなら。人生はまた少し変わっていたのだろうか。
そういう意味では朱莉には皆から嫌われる勇気も、踏み躙る図太さもない。それが優しさでないことを朱莉は理解していた。やはり、御伽話に出てくる悪女になりきれない。
朱莉はもうどこを向いていいのかすら分からなくなってしまった。
朱莉宛てに一通の手紙が届いたのは、そんな折のことであった。




