4話
四
その日は、しばらくぶりの快晴だった。
せっかくの桜を綺麗さっぱり洗い流していった長雨が抜けて、空は向こうまで澄み渡るような青空だ。葉を伝う雨粒は春の暖かな光をたっぷりと受けて、キラキラと硝子玉のように光る。
午後には地面もすっかり乾いて、萌えるような深い緑の匂いがした。春真っ只中であると言わんばかりに。
普段は出不精の朱莉でさえ、そんな暖かな陽気につられて、少し出かけてみようかと空を見上げた。
悠玄から貰った日傘を刺すにもちょうど良い。今度から縁談をすると決めたのだから、街へ行かないと。そうやって朝から少しずつ外に出る理由をかき集めていると、そんな朱莉を見た母が「ならお使いを」と言って、背中を押してくれた。
桜色の着物に、真っ白な日傘。草履が土を踏み締める音すら今日は心地よく思える。来るたびに疎外感を感じていた帝都の街並みも、新しい街へ遊びに来た高揚感を抱かせた。
今日なら一人でカフェにも入れるかもしれないと、帝都のあちこちを見て回る。洋装の仕立て屋をガラス越しに眺めて、今度は洋服を仕立てに来てみようか、なんて決意を決める。
時々少し心細くなっても、悠玄のくれた日傘が大丈夫だと励ましてくれるように思えた。
帝都で流行りの本を買って一人でカフェに入った私に、店主は嫌な顔ひとつせず奥のゆったりとした椅子のある席へ案内してくれた。
世界は案外、一人で過ごすのも悪くない。みんな手元のケーキに夢中で、誰も朱莉のことなんて気にかけていない。それが何より嬉しくて、ほっと胸を撫で下ろす。
ケーキと紅茶を頂いて会計を済ませて店主に頭を下げれば、「またどうぞ」と人の良い笑みを浮かべた。家を出た時より少しだけ背筋が伸びたような気がした。
――そんな満足感に満ちた外出だったというのに。
背後の気配に気を配りながら、知りもしない道を曲がったり、同じ道を何度も通ったり。かれこれ三十分近く、朱莉は帝都を迷路のように歩き回っていた。
誰かにつけられていると気が付いたのは、馴染みの店に頼まれていたお使いを済ませて、家に帰ろうとして歩き出した時だ。
父だろうか、もしかして悠玄? いたずら好きの兄かもしれない。
なんて呑気な気持ちで数回振り返っていたのものの、気配の正体は姿を見せない。少しだけ怖くなって着物が着崩れることも厭わず早足で歩くも、後ろの人物の歩調も早くなっていく。
(どうして私なんかをつけてくるの……!)
朱莉は後ろを振り返らずに必死に足を進める。もし力が使えたら、こんな些細な恐怖に晒される事もないのだろうか。あっという間に撃退できたかもしれないのに。
二十歳にもなって、まともにお使い一つ出来ない自分に嫌気が差すが、これはあまりに不可抗力じゃないかと自棄になってしまいそうだ。
こういう時に、ありもしないことばかり考えて悲観的になるのは朱莉の悪い癖だ。しかし、これしか恐怖や負の感情をやり過ごす方法を知らない。少なくとも今は。
そのうち振り返ることも恐ろしくなって、朱莉はもらった日傘を畳んでついに駆け出した。と言ったって、草履と着物で出せる速度など高が知れている。
後ろの男が地面を踏み締めた音が聞こえた気がして、身体中から冷や汗が吹き出す。草履が地面を擦る音と、自分の心音だけがやけに鮮明に聞こえた。
そもそも朱莉にはつけられる理由がない。
塞ぎ込んで以来、朱莉の人間関係は褒められてものではない。人との関わりが希薄であるが故、恨みを買うこともない。
なら朱莉をつけているのはそんな利害など関係なく、道理もなくただ危害を加えようとする人間だろうか。考え得る可能性の中で一番最悪である。
そうやって余計なことばかり考えていたせいか、着物の裾が上手く絡んで足がもつれた。転んでしまう、と思わず手が出るが、手には日傘が握られていた。汚れてしまうと咄嗟に日傘を庇うように抱き締めた。
「やあ、どこに行っていたんだい。随分探したよ」
怪我を覚悟した朱莉の、傾いた体勢を誰かが支えた。柔らかい声音と一緒に、品の良い香の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
軽々と朱莉の体勢を支えた男は、そのまま肩を抱いて歩き出した。朱莉は恐怖で呼吸をする事も忘れて、されるがまま男の歩調に合わせて足を出す。
離してと小さく呟いた朱莉に、男はにっこりと人の良い笑みを浮かべた。
「――ところで君。後ろを熱心につけているアレは知り合いかい?」
「……! っ、ち、がいます……!」
「シッ、声を落として。だと思ったよ、災難だったね。僕に合わせて」
よくやく絞り出せた声は震えていて、情けなくひっくり返ってしまった。
隣で私の顔を覗き込む男は、まるでお雇い外国人のような金の髪をしていて、にっこりと微笑む涼やかな目元には一つ小さな泣きぼくろがあった。小刻みだった呼吸を正すように背を摩る手に、わずかに冷静さを取り戻す。
小さく頷けば、男は私の手から荷物と日笠を取り上げて、ゆっくりと人混みに誘導しながら、待ち合わせ場所から動いたことを咎め始めた。
彼の即興芝居にただ静かに頷くことしか出来なかったが、次第に後ろをつけていた男の気配は無くなっていた。背中にまとわりつくようだった恐怖が次第に解けていく。
うまく巻けたみたいだと言った彼の言葉に安堵して、体の力が抜けた。男はまたカラカラと笑って私の体を支えてくれた。
「家は? 近くに連れはいるかい?」
「ひとりで、街に来ていて……」
「なら頼れる人は街にいるかな?」
「……あの、陸軍の本部になら、父と兄がおります」
「そう。本部ならすぐだ。今は君が安心出来る人がいるところに行こうか」
男はそう言って朱莉を本当に本部まで送って、話をつけてくれた。お手数をおかけしましたと頭を下げれば、「なかなか入れないところだから、僕も運が良い」と気遣って笑ってくれた。いつの間にか手の震えは止まっていた。
「お父上と兄上は生憎局内にはおりません。が、もし宜しければ片桐を呼びましょう」
父に連絡を取ろうとしてくれた係の人間は、気遣って悠玄の名前を出してくれた。お願いしますと告げると、男は朱莉の顔をズイと無遠慮に覗き込んで数回瞬きをした。蝶の羽ばたきのように、長いまつ毛がふさふさと揺れる。紫色の艶のある目の中には、動揺した間抜けな朱莉の顔が映り込んでいた。
「――おや。じゃあ君、海藤の娘さんだったのかい?」
「……え?」
「成程ね」
「あの、父の、お知り合いでしたか?」
「うん、まぁ、そんなとこかな」
すると、徐に私の額に手をかざすと男は目を瞑ってと優しく囁く。その声につられて目を瞑れば、バチンと身体中に弾けたような痛みが走った。
「っ、!?」
「――やっぱり」
「な、に」
「君、片桐悠玄をあまり信用し過ぎないほうが良い」
「……え?」
「彼は君に嘘をついている」
「どういう、ことですか?」
「気をつけて」
――朱莉! と遠くから、悠玄の声が聞こえる。
一瞬そちらに気を取られているうちに、気が付けば目の前にいたはずの男の姿はない。忽然と姿を消してしまった。ロビーには数人人はいたが、あの金髪の淡い色をした頭はどこにも見当たらない。ただ彼の纏っていた甘い香の匂いだけが、嘘ではないとあたわんばかりにそこにあった。
「何があった!?」
「……変な人につけられて、それで」
「怪我は無いのか? ここまで一人か?」
「…………うん」
「もう大丈夫だ。落ち着いたら送ろう」
心臓が嫌な跳ね方をしている。悠玄が嘘をついている、それは一体どういう意味なのだろうか。なぜそんな根も葉ももない話にこれほどまでに動揺しているのだろう。
心配そうに朱莉の顔を覗き込んだ悠玄の深い青の瞳には、安堵よりも困惑の勝る自分の顔が映り込んでいた。
あの男の方がずっと怪しいはずなのに。朱莉は何故か、咄嗟に助けてくれた男のことを隠してしまった。




