3話
三
「悪い、その日は用がある」
もう梅が見頃を超えて散りそうだという使用人の話を聞いて、見に行くか? と誘ってくれたのは彼の方だった。しかし、週末には用があるのだと少し困ったように悠玄は笑った。
仕事ばかりで、休みの日は家のことをするか鍛錬ばかりの悠玄の用が、たった一つしかないことを朱莉は知っている。
彼は月に一度か二度、一日家を空けることがあった。いつも内容はぼかしていたが、それが許嫁に会いに行っていることは皆が察していた。
悠玄の許嫁はどんな人なのか。
きっと素直に尋ねれば、朱莉にも教えてくれるだろう。写真を見せてくれるかもしれない。何が好きでどうやって出会ったのか話してくれるかもしれない。
悠玄は自分のこと、まして勘当されたらしい家のことを進んで話す人間ではない。同じ状況なら朱莉だってそうしたと思う。勘当されても切れない縁で結ばれているのだから、きっと誰の目から見ても仲睦まじいのだろう。
全て想像だ。事実を知ったら、もう同じようには過ごせない気がしたからだ。きっと悠玄だって、朱莉のことを許嫁に話したりしていないのだろうから。
もし許嫁が自分のことで気を病んだりするならば、邪魔をするつもりはなかったと謝らなければいけない。ならば一体何をどう謝れば良いのか。邪魔をするつもりはないと言いながら、
横恋慕をしている邪で浅ましい身でありながら、白々しく一体何を謝罪するというのか。いつもグルグルと思い悩んでは結論は出ない。
週末、悠玄は朝早く出掛けて行った。
品の良いスーツは手足の長い悠玄に良く似合う。いつもなら軍帽に押し込むか、適当にかき上げただけの髪は、丁寧に撫で付けられている。行ってくると挨拶をしてくれた悠玄に、朱莉は静かに数回頷くことしか出来なかった。
彼がスーツを着て、身なりをきちんと整えて出掛けるのは許嫁のところに行く時だけだ。朱莉と出かける時に、彼はスーツを選ばない。
そんな当たり前の事実に悄然としている。なんてわがままなのだろうかとどんよりとした朱莉の気持ちとは裏腹に、絶好の外出日和と言わんばかりに、今日の空は青く澄み渡っていた。
どうしようも無くやるせない時に、相談したり吐き出す相手は朱莉にはいない。朱莉が悠玄に思いを寄せていることを知っているのは、他の人間はさておき、現状兄である零司だけだ。
口にした記憶はないが、察しが良いが粗野なため、朱莉に直接その事実を確認した唯一の人間だからである。
女学校時代の友人に話した事はあったが、今はすっかり疎遠だ。年に数回の近況報告の文にしたためるにしては、あまりに不相応だし、きっと今は結婚もして立派に家庭を築いている友人らに軽蔑されるかもしれないと思うと恐ろしいのだ。
誰しもが諦めろというだろう。馬鹿なことを言うのはよせと。兄は粗野で、妹相手ということもあってか無遠慮ではあるが、馬鹿にしたり諦めろとは言わない。かといって無責任に応援したり口出しすることもない。唯一ばれてしまったのが、そういう兄で良かったと思う。
(いつか別の幸せを見つけられるのだろうか。それとも、死ぬまでここにいるのだろうか)
一人でいると、自分の無価値さを噛み締めてしまう。
女学校へ行かせてはもらったが、学問で独り立ち出来るほどの学はないし、兄と違って武芸の心得もない。肝心の鬼代としての力も無く、今の朱莉では一人で生きていくのは無理だ。
こうやって働きもせずに、家のことをやってのうのうと生きていられるのは、この家がそこそこの名家だからだ。しかし、それは脛を齧っていい理由にならない。
鬼代は鬼代の中で婚姻するのが一般的である。時々一般人を迎える事はあるが、嫁や婿に出す事はあまりない。その特異性ゆえに苦労するのがわかっているからだ。
しかし、ここまで来ては、わがままばかり言っていられない。結婚したいのなら、どんなに年上でも、どんなに嫌味な人でも、してくれるだけマシだと思わなければならない。朱莉はもう選ぶ側の人間ではないのだ。
悠玄が許嫁のところに行くと、こんなことばかり考えてしまう自分が嫌になる。彼を早く諦めたい。前に進まないと私はひとりぼっちのままだ。今は子供みたいに拗ねて、自暴自棄になっているだけなのはわかっているが。
縁談だって、もう誰彼構わず申し込めばいいのだ。そうしてこなかった自分は、世間から見たら、苦しいと喚くだけで何もしない、所詮甘ったれのお嬢さんでしか無いのだろう。
(また社交会があったら次は行かないと。父にお願いして縁談を申し込んでもらおう)
そうやって考え込んでいるうちに、すっかり夜になってしまった。縁談をまた探して欲しいと夕食の時に母に言えば、少し考えてから「朱莉がそうしたいならそうしましょう。したくないなら、しなくていいわ」と言われてしまった。朱莉は今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。父は酒を煽るだけで何も言わなかった。
その日は早起きしたというのに、ちっとも眠くならなくて、入浴後も布団の上で本を捲る。と言っても、内容は全く頭には入ってこなかった。
最近帝都で流行りの本をまた読まないと。社交界に行ったって、話せる話題がない。街に行かないと。そんな思いに耽っていると、部屋の前の障子に人影が見えた。
「朱莉嬢、起きてるか?」
悠玄の声だった。いつ戻ったのだろうと慌てて居住まいを正す。顔が半分見える程度障子を引くと、朝出かけたままの格好の彼がいた。
「……どうしたの」
「土産がある」
悠玄はそういうと、朱莉に風呂敷を差し出した。気をつけて開けろと言う言葉に頷き、小さく結ばれた風呂敷を解くと、中には花や季節の様子を模った練り切りが入っていた。
もう季節ではないからと、梅の花を模ったものはなかったのだと、バツが悪そうに言った。朝のことを気にしていたのだろうか。優先されるべきは朱莉ではなく許嫁。そんな事にしょぼくれていた朱莉のほうが悪いと言うのに。
しかし、この練り切りを見て自分を思い出してくれた事実が何より嬉しい。じわじわと肺の辺りに広がる感覚は、息苦しさにも似た痺れだった。
「別の花でもよければ今度見に行こう」
少し崩れた髪のひと房が、悠玄の細くなった目元に影を落とす。今日はその口で許嫁にどんな愛の言葉を囁いたのだろうか。許嫁がいるからと、朱莉と関わりを持ちたがらない人だったらどれほど良かっただろう。
きっと悠玄の中の朱莉の存在なんて、良くて妹程度にしか思われていないだろう。そんなこと、全部全部わかっているのに。
この苦しさに溺れていたら、いつか朱莉から全ての空気を奪って、首を絞める。せっかく彼を忘れたいと誓った決意は、まるで初めからなかったかのように、砂のようにサラサラと崩れていく。喜べば喜ぶだけ、大きな絶望になって帰ってくる。きっとこの恋は毒だ。




