2話
二
「わたしは、どうしたら力が使えるようになるの?」
幼い頃に、両親にそう尋ねた事がある。己の境遇を憂いたわけでも、両親を責めたわけではない。
あの時の朱莉はまだ自分の状況を正しく理解できていなくて、全てが努力をすれば解決する問題だとそう思っていたのだ。
あの時の両親の表情は今でも脳裏に焼き付いている。もし同じ質問を幼い自分にされたら、自分自身だってなんと答えるべきなのか分からない。
今でも時々想像する事がある。もし自分に鬼代の力があってなんて、そんなありもしないことを。
縁談だって上手くいって、絵に描いたような幸せな未来を歩んで。なんの不安もなくて、夜ごとに自分を責めることもなくて。悠玄の顔も知らない許嫁に、こんな醜い感情を抱くことだってなかったかとしれない。
大切だと思う人の隣を歩くことに誰も疑問を持たず、好きだと言う言葉に好きが返ってくる事が当たり前の世界。恨みがましく、そんな有りもしない未来ばかり願ってしまう。
どれだけ努力をしたって、どれだけ願ったって朱莉の欲しいものは手に入らない。必死に足掻くだけ、無駄だという事実をむざむざと見せつけられる。
でも今確かに彼は朱莉の隣を歩いて、きっと名前を呼べば微笑みかけてくれる。私をここから連れ出して、誰も知らないところに行きたいと言ったら彼はどんな顔をするだろう。思わず飛び出しそうになる喉まで出かかった本音を、そっと飲み込むのだ。
週末、悠玄は約束通り、朱莉を街に連れ出してくれた。
粧し込んで来いと言われて無視をするのもなんだと、一番春らしい振袖を選んで、いつもより少しだけ丁寧に化粧をする。
最近は行き遅れているくせにお洒落をすること自体、どこか後ろめたく感じるようになった。しかし悠玄は目敏いので、そんな顔をすればじっと見て「悪くない」と褒めてくれるのだ。久しぶりに下ろした朱莉の着物姿を見て、悠玄はやっぱり「よく似合う」と笑った。
(賑やかだわ)
久しぶりに訪れた市街地は、何処も人で溢れかえっている。最先端のものが集まる帝都とはいえ、この辺りも西洋化が波が押し寄せ、街は朱莉が生まれる前と比べて、目まぐるしく様変わりしたと聞く。
仕立ての良いスーツを着て歩く殿方や、シャツを着る人も増えた。近頃社交の場にはすっかりご無沙汰になってしまったが、流行に敏感な若いご令嬢たちは、最近では着物ではなくたっぷりと布を使った美しいドレスを着るのだそうだ。
街ゆく女性たちは、細かなレースの施された日傘を持って歩いていた。赤い煉瓦を積み上げられた建築物も増えている。ガス灯から電気に変わり、夜に街を歩けば、昼間のようにとは行かないけれど街は煌々と明るいのだとも。
女学校に通っていた頃は、よく友人らと街を歩いたり、流行にも敏感だったような気がするけれど、卒業をしてから街に行く機会もめっきり減ってしまった。時々気まぐれを起こして出かけるたびに、街は知らない世界へと変わっていくのだ。
昔は着飾って外に出るのも好きだった。化粧品を見るのも、髪飾りを見るのも、流行りの食べ物を探すの。今は着飾るのに理由が必要で、前よりも外出する機会の減った朱莉を、何かと理由をつけて外に連れ出してくれるのが悠玄だった。
きっと外に出るのが億劫で、着飾る事が怖いことも彼には悟られているのだろう。最近では、化粧をするのは彼と出かける時だけになった。
悠玄はいつもは仕事着の軍服を着ているが、休みともなれば動きやすいからと言う理由で袴を着ている。派手な格好などしていないのに、これだけ人で溢れかえる街にいても、悠玄は十分人目を引いた。
人並みから頭ひとつ抜けた長身で、軍人のせいか体躯も立派だ。スッと通った鼻筋が綺麗で、隣を歩くのを少し躊躇ってしまうほど美丈夫だ。隣を歩くのが朱莉では不相応だと言わんばかりに、街ゆく女子の目線が背に突き刺さる。
例え似合いだと言われようとも、二人の関係はそういうものではないのだけれど。
ケーキを食べるのが本来の目的であったはずだが、特に用がないと言った朱莉に、悠玄は少し考えてから「なら付き合え」と言って、ケーキのある目的の店の前を通り過ぎた。
さて、彼の用事とは一体なんなのだろうか。街で買い物といえば、すぐに思いつくものは服だろうか。
悠玄が持っているものは、着物ひとつ、シャツひとつ取ってみてもどれも仕立てが良く、上等な品ばかりだけれど、決して衣装持ちではない。仕事のある日は軍服しか着ないし、洋装に慣れてはいるようだが、自ら買い揃え普段着にするほど興味はないそうだ。
似合うのだから着れば良いのに、という朱莉の提案は、男を着飾ってどうするとげんなりした様子で一蹴されてしまった。ならば本でも買うのかと思ったが、本屋の前も通り過ぎてしまった。
「……どこに行くの?」
「さてな」
行き先は告げられない。朱莉に合わせてゆったりとした歩調で歩く悠玄の背を追う。
しばらくして辿り着いたのは、呉服屋だった。やはり新しい服でも仕立てるのだろうかと首を傾げていると、悠玄は店主に朱莉を指差して日傘が欲しいと言った。予想外の言葉に驚いて止めたが、彼は朱莉の言葉を遮るように店主から手渡された傘を開く。
「淡い色がいい」
「ちょっと、なんで」
「ハイカラな女たちはみんな持っているらしいな。もう少し小さいものは?」
「では、こちらなんていかがでしょう」
「だからってそんな高価なもの……!」
「悪くない。色白なんだ、ひとつくらい持っていたほうがいい」
悠玄はこれが一番軽いと言って一本の傘を差し出した。真っ白なレース。裾にはたっぷりのフリルあしらわれていて、華奢な美しい日傘だった。悠玄の言う通り手に取れば軽くて持ちやすい。質素ではあるが、花の細かな刺繍があしらわれていて、どこか品がある意匠だ。今手元にあるどの着物にも合わせやすいだろう。素敵な傘とくると持ち手を回せば、悠玄はさっさと会計を済ませてしまった。
「ちょっと、悠玄……!」
「なんだ気に入らないのか」
「すごく素敵だけど、」
「男に何か買い与えられたら朱莉嬢が言うべき答えはひとつだ」
「……なに」
「似合う? とだけ聞けば良い」
悠玄の答えを聞いた店主は、「その通りですわ」と笑って買ったばかりの傘を差し出してくれた。外は日傘を差すには絶好の良い天気だ。傘を開けば、暖かな日差しがレース越しに柔らかく照らした。傘をほんの少し傾けて彼の方を見れば、さあ早くと言わんばかりに口角を持ち上げている。
「どうした」
「……に、似合う?」
「嗚呼、とても」
ほんの少し腰を曲げて、傘の中を伺うようにして満足げに笑う悠玄に、胸が締め付けられるみたいに苦しくなる。この人は自分のものではないけれど、今こうして微笑む彼の笑顔は、間違いなく朱莉だけのものだろう。今にも叫び出したいような、泣いてしまいそうな気持ちをもらったばかりの傘の下に隠す。この時間が永遠に続けばいいなんて、叶いもしないことばかり願ってしまう。
来た道を引き返し、喫茶店に入れば、約束通りケーキを一つ頼んでくれた。店内を見渡せば、流行っているとの噂通りケーキを注文している人ばかりだ。
真っ白な陶器の皿に乗せられたケーキは、生クリームの上に真っ赤なイチゴが一つ乗っかっている。フォークで崩せば、サクサクと生地の隙間にもクリームとイチゴが挟まっていた。悠玄はそんな朱莉を眺めながら、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
「喫茶店にはよく来るの?」
「いや? 何故」
「慣れてるから」
「そうか?」
「ケーキは食べないの?」
「そうだな。一口でいい」
そう言って朱莉からケーキを一口奪うと、眉を顰めながら数回小さく頷いて再びコーヒーを含んだ。あまり甘いものは好きではないらしい。それでも連れてきてくれるという約束を果たしてくれたことに、これ以上ないほどときめいてしまっている。
「せっかくの洋菓子なんだ。次は洋装で来たらどうだ?」
「ええ」
「好きだろ、朱莉嬢は」
「……他に、着て行くところもないし」
「なら俺と出かける時に着ればいい」
チラリと店内へ目線をやれば、ちょうど遠くの席に座ったご婦人の美しいドレスに目が止まる。天鵞絨を贅沢に使った意匠で、ご婦人のたおやかな動きに合わせて、布は艶々と輝く。大きな襟もモダンで可愛らしいし、くるりと結い上げられたまとめ髪も、全て着物とは違って魅力的である。女学校に通っていた頃に誘われていたら、きっと喜んで着ただろう。
あの時持っていたはずの、ある種の全能感のような感覚が今となっては懐かしい。着飾ることにも、お洒落をすることにも理由は要らなかった。
だが誰にも選ばれなかった自分が、今更お洒落をところで何になると言うのだろう。こんな行き遅れた女が、見せる相手もいないと言うのに美しく着飾って何があると言うのか。
きっとそうやって自分を縛って、呪いをかけているのは朱莉自身だ。わかっていても、一度無くしたものを取り戻すのは容易いことではない。
そう思い詰めた朱莉に呆れたのか、悠玄は「またか」と言わんばかりにため息を吐き出した。
「そういう意味で聞いたんじゃない。そんな顔をするな」
「……ごめん」
「謝って欲しいわけでもない」
「悠玄は、ああいうのが好きなの?」
悠玄は朱莉の目線につられるように、ご婦人のドレスを見やった。
「とても素敵」
「そうだな」
「洋装の方が好き?」
「好き? まあ、強いて言うなら脱がせるのに難儀しそうだなアレは」
「……そ、そんなこと聞いてないでしょ!」
「別になんでもいい。隣歩いてる女が好きな格好をして良い顔してればな」
悠玄が意味有りげに寄越す目線の意味を考えて、逃げるように目を逸らす。何も意味なんてない。彼が大切に思っているのは許嫁だ。忙しい仕事の合間を縫って、頻繁に会いに行っているのを知っている。日傘が流行っているのだって、きっと許嫁から聞いたのだろう。
面倒見の良い人だから、これは底抜けに優しい人がくれた幻みたいな時間。泡みたいに弾ければそれで終わり。だからこのやり取りにはなんの意味もないのだ。
会ったこともない彼の許嫁に、こんな醜い感情を抱く自分が嫌いだ。どんな美しい人なのだろう。どんな性格の人なのだろう。きっと悠玄が大切にしているのだから、とびきり素敵な人なのだろうに、それを知ろうともせず、負の感情を溜め込むことに嫌気がさす。
いつかこうやって、自分に寄り添ってくれる人が他に現れるのだろうか。悠玄よりも好きになれる人が現れるだろうか。いつか、生まれて良かったと心の底から思える日が、来るのだろうか。
じわりと滲んだ涙を誤魔化すように、再びケーキを口に運ぶ。あれだけ甘かったはずのクリームもイチゴも、上手く感じ取る事ができななかった。
「……もう少し暖かくなったら着てみる」
「さっき買った日傘も忘れないようにな」
「そうね」
「しかし、ドレス。あれは歩き辛いらしいぞ」
「なら傘のいらない涼しい時にしようかな」
「傘は男に持たせるんだ」
「……じゃあ、暖かくなったら兄さんと、」
「なんでアイツなんだ? 傘を買ってやったのは俺なんだから、誘われるべきなのは俺だろ」
「………また、出掛けてくれるの?」
「勿論。何処へなりとも付き合いますよ、お嬢さん」
悠玄の深い碧の瞳が真っ直ぐに朱莉を捉えている。少しだけ笑って答えたその言葉が、その真っ直ぐな瞳がどれほど朱莉を喜ばせ、絶望させているかなんて彼はきっと知りもしないのだ。
もう優しくしないで欲しいと手を払う、ほんの少しの勇気が欲しい。この言葉が全て建前だと理解出来るほどの聡明さも。そうしたら、彼を諦められるかもしれないのに。
落ちて落ちて、落ちた先。一体どこに辿り着くのだろうか。




